郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「須賀沢・高所」

2019-11-07 09:21:28 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「須賀沢・高所」  宍粟市山崎町

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■須加村(すかむら)

【近世】江戸期~明治12年の村名。播磨国宍粟郡のうち。揖保川支流大谷川流域。地名は、「風土記」に安師里(あなしのさと)の条に同里のもとの名は酒加里で、その名はこの地で伊和の大神が飡(すか)した(スクは食すの意の敬語)事に由来するとある。そのため当村は酒加里の遺称地とされる。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、さらに林田藩・姫路藩預かり他、幕府領、三日月藩預かり地を経て、天保年間(1830~1844年)上野国館林藩領。神社は、愛宕神社・牛頭天王社(現石作神社)・※觱篥(ひちりき)神社。觱篥神社は延久元年(1069年)後三条院によって勧請されたという。
 寺院は、浄土真宗本願寺派無量山願寿寺。同寺は、天文17年(1548年)(一説に天文7年)八井藤左衛門(慶乗)が蓮如の弟子となり開基したと伝える。のち明治11年焼失、再建(宍粟郡誌)。当村は、藩主の参勤交代路にあたり慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)では須賀町と記されている町場であった。当村内を流れる大谷川の上流には銅山があり、享保元年(1716年)大阪南谷町越前屋理兵衛の手で採鉱された。また門前鳩屋は高瀬舟を運航するほかに鉄山経営も行っていた。延宝7年(1679年)幕府領以後代官所が置かれ小針・杉尾の両氏が手代・山方役所役人として常勤した。明治12年須賀沢村の一部になる。

■須賀沢(すかざわ)
「すか」とも称する。揖保川中流左岸に位置する。

【近代】須賀沢村 明治12年~22年の村名。宍粟郡のうち。須賀村と※蟹沢村が合併して成立。願寿寺に寺子屋があり、内海太郎大夫・内海三吾・進藤兵右衛門らが教育に従事した。明治13年博文小学校分校設置。

【近代】須賀沢 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。大正9年河東信用組合の事務所を出石に設置。昭和40年国道29号の拡幅工事完了。同50年中国自動車道が開通し、立退民家は北側の山すそに集団移転。

※蟹沢村(かにがさわむら):〔近世〕江戸期~明治12年の村名。江戸期は蟹ケ沢とも書いた。揖保川の支流大谷川の上流域。安富町との境安志峠(須賀峠)の鞍部近くに位置する。銅山があった。



■高所(こうぞ)

揖保川中流左岸、播但中央山地の南部。地名の由来は、やや高めの山すそに位置することによる。
【近世】高所村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。当村の特産物として、木綿・松茸・鮎。地内塩瀬には※簗場(やなば)があった。『播州宍粟郡誌』。
当村に元山崎藩同心平山弁蔵が住み、文久年間(1861~1864年)に騒動を起こしたと伝える。(郷土研究会報)。
 神社は、春日神社。同社には獅子舞が伝わる。明治22年河東村の大字になる。
※簗場:川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作った梁(やな)を設置し、上流から泳いできた魚を獲る。

【近代】高所 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。米・麦を中心とした農業を営んでいたが、戦後造園・製材・自動車整備・金属加工などに進出。昭和49年河東大橋が新設され、県道田井中広瀬線とT字形交差する道路が開通した。


◇今回の発見:千種村と同様、須賀村の領主の変遷が多い。いずれも鉱山があることにも起因しているのか。


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