葬儀の日(12/6)も 曇天で終日寒い一日でした。。
現代的な「家族葬」をしめやかに執り行いつつも
合間合間で 一堂に会して歓談する時間には
孫たちの成長を見る機会となり..
特に
末孫の私の息子は 皆の注目の的に
親族とは不思議なもので
父と母と その三人の子供(姉 兄 私)は
紛れもない「家族」として 思い出を共有し
それぞれの時代での成長とともに
自我に隔たりを見せ...
やがて各々が 伴侶である人と
子供を育てて行く中で
三人三様の「家庭」を培い..
また 同様に、
その子供らが 各々の伴侶とともに
子供を育てて行く...
当たり前の繰り返し
当たり前の日常と裏腹に..
いつしか 久しく無沙汰が続いていた。。
今回の父の葬儀によって
一堂に会する機会というものが
なかなか持ち辛かった歳月を
一気に取り戻すかのように
万障繰り合わせてでも 集うこととなり.. あらためて「家族」という絆を
実感させられました。。
現在に至る歳月の重みを味わうと同時に
これからの自分の生き方を 皆
再認識する機会となったことでしょう
1-27_面会してきました。。 - My Priceless Treasure~❤
昨日久しぶりに電車に乗っての外出緊急入院をしている父を見舞うためでした。。その前日、許可を得て病室から状況を伝えるLIVE電話の状態は確かに...
1-27_面会してきました。。 - My Priceless Treasure~❤
この時以来
10か月もの間 新型コロナ渦のために
父に会うことが叶わないまま...
11月30日に呼ばれ
最後の面会となりました
二人の娘に どれだけ会いたかったことか..
瞼こそ開けられなかったけれど..
最後の力を振り絞るように
力強い握力で 握り返してきた手の感触
忘れられません
しかし..
父には特段の疾患はなく
まさしく
「老衰死」に等しいものでした。。
「老衰死」とは
高齢の方で死因と特定できる病気がなく、
加齢に伴って自然に生を閉じること
見舞った時にも
苦しい様子ではなく...
うとうとと眠っている様でした。。
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人間の終末期
Q. なぜ、亡くなる前に食べられなくなるか
A. 水分を体内で処理できなくなるからです
このような状態で
強制的に水分や栄養を取り入れていくと、
身体がむくんだり、腹水がたまったり、
痰がたまったり と
かえって本人をしんどくさせてしまうのです
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人が自然に亡くなる過程
~「楽な最期」とは枯れるように逝くこと~
枯れるように逝く
死も人の大切な営みの一つです。
ですから、その時が来たら、
人の身体は楽に逝けるよう、 死の準備をはじめるのです。
身体はどうすれば楽に逝けるのかを知っています。
それは、草や木と同じ、枯れるように逝くことです。
※「死」に関する文面は こちら👇から引用しました
Step forward one step!
父の生きざまの通り
一歩前進 を 常に心掛けて
これからも前向きに生きていきます
父の葬儀に親戚が集まり
従兄弟たちが揃い、皆で写真撮ったりして、これも父が繋げてくれた場なのだと
思いました。
辛い辛い葬儀ではなく、ある意味明るい場であったと思います。
父も物が食べられなくなり、痩せて枯れるように逝きました
ある意味老衰、でも最後は病院で亡くなったので病名がつけられましたが
穏やかな顔してました。
コロナがなかったらまた違ったものになってかもしれませんね。
>皆で写真撮ったりして、これも父が繋げてくれた場なのだと..
↑ ↑
ほんとうですね。。
悲しい場であるにもかかわらず
懐かしい面々との談笑..
故人が繋いだとしか言いようがありませんね。。
>コロナがなかったら..
↑ ↑
これに尽きます(涙)
もっと頻繁に会いに行って
施設での暮らしをしっかり見て
気持ちに寄り添ってあげたかったです..
私はもう両親がいなくなりました...
両親ともに居なくなってみると
あらためて自分の存在を見つめなおす
そういう心境が深くなるものですね。。