2020年2月23日13時過ぎ、いよいよ大物としては最後の観光スポットとなりました。
英雲荘(三田尻御茶屋)です。
大量に写真を掲載したので、スクロールが地味に長いです。すみません。
舟倉からの距離も近く、江戸へ行くにしろ帰ってくるにしろ、泊まるには便利です。
もらったパンフレットによると、「英雲荘」と名が付いたのは1941年なんですね。
建物の歴史(1654年スタート)から見れば、実に最近。
というか、日本史で習った「七卿都落ち」がこんなひょっこりと関係してくるとは驚きました。
さて、この門から入りたいところですが……
私は自転車なので、まずは裏の駐車場へ。
再び外を回って門に行くのは足の痛み的に避けたかったので、ショートカットさせてもらいましょう。
写真正面が建物本体です。写ってないですが右を向くと門、左斜め後ろに自転車があります。
内部から見た門。
そして、建物正面玄関。
国旗?
2月23日……ああ、そうか、新しい天皇誕生日ですね。
この観光案内を見るのも、いよいよ最後ですかね?
館内見取り図。ほどほどの広さですね。
本玄関ノ間(手前)・本玄関上ノ間(奥)
お?
梁の釘隠しが変わってます。
と、ここで受付です。
実は手前の写真を撮っている位置は受付から丸見えで、待ち構えられているのが私の方からもうかがえました。
お待たせしました。大人1名です。
え?
あの釘隠し?
いえ、何も知りません。「変わっているな」と思ったので撮ってました。
お客さんの入り具合にもよるのでしょうが、
今はちょうどタイミングが良かったのか応対してくれた方がそのまま簡単に案内をしてくださいました。
ははぁ、あれは毛利家の家紋のひとつ、沢瀉(おもだか)紋でしたか。
そういえば前日に毛利氏庭園(2日目その3参照)でも似た意匠を見ましたが、なるほど、そういうことでしたか!
謎は全て解けた!!
やっぱり知識の有無で認識は大きく変わりますね。
知らないと見逃すものばっかりです。
館内には、建物の変遷(何度も建て替えられている)や、最大規模だったときのジオラマを展示している部屋がありました。
あとで写真を撮りまくろう。
担当の方「実は今日、秋吉台でやっている山焼きのススが飛んできてまして……」
え、あれ、じゃあ道の駅で見た「なんだこのふわふわしたもの」って、あれ全部ススか!?
いやあ、すごいですね。
Google MAP によると、ざっくり30kmは離れているんですが。
ちなみにその方いわく、飛んできたのは初めてだということでして、相当なレアイベントに遭遇したようです。
さて、メインディッシュというか、解説の最後は2階です。
大観楼棟と言います。
かつては200m南方が海だったそうで、きっと眺めは最高だったでしょうね。
海が200m先に見えた当時を偲びつつ、同じ方向をパシャリ。
ちなみに木が邪魔ですが、これらは意図して植えたものではなく、鳥が運んできた種から芽が出た結果だそうです。
お庭。いま改修中でして、翌月(3月)からこの池に水を蓄えるのだそうです。
写真でもすでに水をたたえていますが、これは前日の雨によるものだそうです。
てことは、完成図を先取りですね。こりゃラッキー。
離れの花月楼。後で行きます。
こっちの建物、少し分かりにくいですが屋根が檜皮葺です。ただ職人さんがいないため、京都から呼んでいるのだとか。
「大観楼」の額。
「実美書」という署名からすると三条実美が書いたものでしょうか。
ここの出入り口は低いので頭をぶつけないように気をつけてと言われましたが……
頭をぶつけました。なんて注意散漫なやつだ!
ちなみにちょっと痛かった。建物ごめんね!!
その出入り口の横には1幅の軸が。
招賢閣相見図。
ここで言う「招賢閣」はそもそもどこなのかが不明だが、2階っぽいのでおそらくこの「大観楼」だろう、ということでした。
ちなみにこれは複製で、本物は昨日行った毛利博物館にあるそうです。まったく記憶に無い。
さて、解説はここまでです。
あとは自由見学ということで、さてではもう少し2階からの眺めを堪能しましょう。
北側。当時は防府天満宮も見えたんでしょう。毛利氏本邸が見えてもおかしくはないですね。
西ノ間から東ノ間をパシャリ。
襖にはちゃんと沢瀉が。
ちなみにここ英雲荘の襖は、全部で8種類の模様が復元されています。これもその1つで、「向オモダカ紋様」です。
例えば1階最初の部屋の襖は、「獅子七宝紋様」です。
たぶんこれも2階だったと思いますが、「立涌オモダカ紋様」。
東側。正面が大平山です。
先ほどとは別の、下り用の階段。
これならスタートで頭をぶつける心配はなさそうです。
おっと、少し心臓に悪いぞ。
さて、ここからは奥座敷棟。棟札によると、明治31年(1898年)に建てられたものです。
この建物が山口での毛利家本邸になったことを機に、生活の場として増築された部分です。
奥一の間と奥二ノ間をパシャリ。
襖は、「獅子七宝紋様」と「扇子模様」です。
ちなみに今立っているのは、廊下です。畳敷きですが。
左および正面は奥座敷棟、右側は大観楼棟です。
同じ場所から1~2歩移動して、奥一の間と奥二ノ間、そして向こうには花月棟。
ちなみに縁側のガラス戸は、ガラスが歪んでいるタイプです。2017年に呉の入船山記念館で聞いた話が間違いでなければ、もう同じものは作れないそうです。
おお、この釘隠しも沢瀉ですね。最初とは意匠が異なりますが、どちらも沢瀉です。
照明。ランプ3つなので、格が高いですね。さすが奥座敷。
※数が多いほど格上
奥座敷の縁側から見たお庭。
ちなみに難易度高いですが、さりげなく人が写ってます。
同じく縁側から見た花月楼。1階建てですが、139平米です。
奥北ノ間。
さて、大観楼棟エリアに戻ってきました。
ちなみにいま、大体30分経過です。
畳の上に、風に乗ってきたススが。
植物の形が分かりやすい破片がちょいちょい落ちてます。
ちなみに手で持ち上げようとすると、ボロボロに崩れて無理でした。
詰所から御書院二ノ間をパシャリ。一番広いエリアです。
ちなみに中央奥に行灯がありますが、そのすぐ右に何かあります。
これ、撮影機材です。
実は先客がいまして、コスプレ撮影中でした。
ちなみに『鬼滅の刃』の炭治郎。屋敷内で撮ったり、縁側で撮ったり、庭で撮ったりしてました。
バリバリ観光向けの場所で、こういうのをOKしているのは珍しい印象ですね。
よい炭治郎を!
とか思っていたら、途中から善逸も増えました。
もう1人、伊之助も来るかなと思ってましたが、来なかった。
というか両方とも女性レイヤーさんだったので、仮に伊之助をやろうと思ったら、こう、上半身が相当に差し障りが、うん。
さて、続いては台所棟。
本館はこれで最後です。
何カ所かお屋敷を見ましたが、どこも台所エリアは天井が高い。
……た、確かに台所だ。
これ以上無いほどに台所だ。
貸し出しもやっているから、実用可能な台所なんですね。
さて、では先ほどは解説を聞くのを優先したためにスルーした展示エリアへ!
かつての大観楼。
この襖は「オリガミ模様」。
素敵。学術万歳。
ていうか天明年間のデカさがすごい。
好き。
というか、ここの南正面、17世紀後半には埋め立てられてますね。
最初の方で書いた「200m南は海」だった時代って、この御茶屋の歴史のうちせいぜい40年(1割強)しか。。。
一応、舟倉前はしばらく海のままですが、それも天明の終わり頃には埋め立てられているという。
沢瀉……ではない?
さあ、楽しいジオラマ鑑賞の時間です。
これは正面玄関側。
ちょっとだけカメラを引いて、ジオラマ全景。
ちなみに1/100スケールです。
方向に気をつけないと、自分がアクリル板に反射して写り込むのでしんどい。
池の位置はだいたい変わらない、のかな?
門と、正面玄関。
大観楼だけ屋根を外してくれてます。
裏手側。
沢瀉について。
防州秀景図。この辺の地理的特徴を年代的に把握できる資料として重要。
杉戸たち。全部で8種類ですが4つだけ。
水琴窟。地下に空間があり、手を洗った水を滴らせて音の響きを愉しみます。
玄関棟の床から大観楼棟側の縁側を。
違棚。とりあえずゴールデン!
お庭も含めた地図は、そういえば初めて見ますね。
「発掘」という文字だけで心が躍ります。
江戸時代は回遊式庭園、大正時代は枯山水とは。
さて、お庭に出まして。大観楼を。
一部だけ檜皮葺を再現しているのが……さすがに全部は管理面やら資金面やらで難しいんでしょうね。
さあ、いよいよ花月楼。
ちなみに見晴らしは……微妙。
茶室のにじり口でしょうね。
へえ、すごい建物の玉突きがあったんですね。
建物の中心、八畳ノ間から上段ノ間を見る。
逆からの眺め。
九畳ノ間から小間を見る。
ちなみに小間が、前掲のにじり口から入った場所です。
小間は暗いけど、うまいこと写真に写ってくれました。(奥は相伴席)
さて、本館に戻りますか。
おお、根性のある根っこ。
お庭が雑然としていてイマイチだと思っていましたが、この角度からはなかなか好みにあう。
最後に受付で、「これは持っていますか?」と冊子ももらってしまいました。
「幕末激動の防府」。何これ楽しそう、ありがとうございます。
門に桃があしらわれていると聞いたので、最後にそれを見て撤収です。
なんだかんだ、1時間の滞在でした。
艦これイベントで時間を使ったり、新型コロナウイルスの影響で2020年9月の呉・竹原旅行をキャンセルしたことでモチベーションが下がったこともあって、前回の投稿から実に1ヶ月以上も間が開いてしまいましたね。
さあ、この旅行もあと少し。
続きます。
英雲荘(三田尻御茶屋)です。
大量に写真を掲載したので、スクロールが地味に長いです。すみません。
舟倉からの距離も近く、江戸へ行くにしろ帰ってくるにしろ、泊まるには便利です。
もらったパンフレットによると、「英雲荘」と名が付いたのは1941年なんですね。
建物の歴史(1654年スタート)から見れば、実に最近。
というか、日本史で習った「七卿都落ち」がこんなひょっこりと関係してくるとは驚きました。
さて、この門から入りたいところですが……
私は自転車なので、まずは裏の駐車場へ。
再び外を回って門に行くのは足の痛み的に避けたかったので、ショートカットさせてもらいましょう。
写真正面が建物本体です。写ってないですが右を向くと門、左斜め後ろに自転車があります。
内部から見た門。
そして、建物正面玄関。
国旗?
2月23日……ああ、そうか、新しい天皇誕生日ですね。
この観光案内を見るのも、いよいよ最後ですかね?
館内見取り図。ほどほどの広さですね。
本玄関ノ間(手前)・本玄関上ノ間(奥)
お?
梁の釘隠しが変わってます。
と、ここで受付です。
実は手前の写真を撮っている位置は受付から丸見えで、待ち構えられているのが私の方からもうかがえました。
お待たせしました。大人1名です。
え?
あの釘隠し?
いえ、何も知りません。「変わっているな」と思ったので撮ってました。
お客さんの入り具合にもよるのでしょうが、
今はちょうどタイミングが良かったのか応対してくれた方がそのまま簡単に案内をしてくださいました。
ははぁ、あれは毛利家の家紋のひとつ、沢瀉(おもだか)紋でしたか。
そういえば前日に毛利氏庭園(2日目その3参照)でも似た意匠を見ましたが、なるほど、そういうことでしたか!
謎は全て解けた!!
やっぱり知識の有無で認識は大きく変わりますね。
知らないと見逃すものばっかりです。
館内には、建物の変遷(何度も建て替えられている)や、最大規模だったときのジオラマを展示している部屋がありました。
あとで写真を撮りまくろう。
担当の方「実は今日、秋吉台でやっている山焼きのススが飛んできてまして……」
え、あれ、じゃあ道の駅で見た「なんだこのふわふわしたもの」って、あれ全部ススか!?
いやあ、すごいですね。
Google MAP によると、ざっくり30kmは離れているんですが。
ちなみにその方いわく、飛んできたのは初めてだということでして、相当なレアイベントに遭遇したようです。
さて、メインディッシュというか、解説の最後は2階です。
大観楼棟と言います。
かつては200m南方が海だったそうで、きっと眺めは最高だったでしょうね。
海が200m先に見えた当時を偲びつつ、同じ方向をパシャリ。
ちなみに木が邪魔ですが、これらは意図して植えたものではなく、鳥が運んできた種から芽が出た結果だそうです。
お庭。いま改修中でして、翌月(3月)からこの池に水を蓄えるのだそうです。
写真でもすでに水をたたえていますが、これは前日の雨によるものだそうです。
てことは、完成図を先取りですね。こりゃラッキー。
離れの花月楼。後で行きます。
こっちの建物、少し分かりにくいですが屋根が檜皮葺です。ただ職人さんがいないため、京都から呼んでいるのだとか。
「大観楼」の額。
「実美書」という署名からすると三条実美が書いたものでしょうか。
ここの出入り口は低いので頭をぶつけないように気をつけてと言われましたが……
頭をぶつけました。なんて注意散漫なやつだ!
ちなみにちょっと痛かった。建物ごめんね!!
その出入り口の横には1幅の軸が。
招賢閣相見図。
ここで言う「招賢閣」はそもそもどこなのかが不明だが、2階っぽいのでおそらくこの「大観楼」だろう、ということでした。
ちなみにこれは複製で、本物は昨日行った毛利博物館にあるそうです。まったく記憶に無い。
さて、解説はここまでです。
あとは自由見学ということで、さてではもう少し2階からの眺めを堪能しましょう。
北側。当時は防府天満宮も見えたんでしょう。毛利氏本邸が見えてもおかしくはないですね。
西ノ間から東ノ間をパシャリ。
襖にはちゃんと沢瀉が。
ちなみにここ英雲荘の襖は、全部で8種類の模様が復元されています。これもその1つで、「向オモダカ紋様」です。
例えば1階最初の部屋の襖は、「獅子七宝紋様」です。
たぶんこれも2階だったと思いますが、「立涌オモダカ紋様」。
東側。正面が大平山です。
先ほどとは別の、下り用の階段。
これならスタートで頭をぶつける心配はなさそうです。
おっと、少し心臓に悪いぞ。
さて、ここからは奥座敷棟。棟札によると、明治31年(1898年)に建てられたものです。
この建物が山口での毛利家本邸になったことを機に、生活の場として増築された部分です。
奥一の間と奥二ノ間をパシャリ。
襖は、「獅子七宝紋様」と「扇子模様」です。
ちなみに今立っているのは、廊下です。畳敷きですが。
左および正面は奥座敷棟、右側は大観楼棟です。
同じ場所から1~2歩移動して、奥一の間と奥二ノ間、そして向こうには花月棟。
ちなみに縁側のガラス戸は、ガラスが歪んでいるタイプです。2017年に呉の入船山記念館で聞いた話が間違いでなければ、もう同じものは作れないそうです。
おお、この釘隠しも沢瀉ですね。最初とは意匠が異なりますが、どちらも沢瀉です。
照明。ランプ3つなので、格が高いですね。さすが奥座敷。
※数が多いほど格上
奥座敷の縁側から見たお庭。
ちなみに難易度高いですが、さりげなく人が写ってます。
同じく縁側から見た花月楼。1階建てですが、139平米です。
奥北ノ間。
さて、大観楼棟エリアに戻ってきました。
ちなみにいま、大体30分経過です。
畳の上に、風に乗ってきたススが。
植物の形が分かりやすい破片がちょいちょい落ちてます。
ちなみに手で持ち上げようとすると、ボロボロに崩れて無理でした。
詰所から御書院二ノ間をパシャリ。一番広いエリアです。
ちなみに中央奥に行灯がありますが、そのすぐ右に何かあります。
これ、撮影機材です。
実は先客がいまして、コスプレ撮影中でした。
ちなみに『鬼滅の刃』の炭治郎。屋敷内で撮ったり、縁側で撮ったり、庭で撮ったりしてました。
バリバリ観光向けの場所で、こういうのをOKしているのは珍しい印象ですね。
よい炭治郎を!
とか思っていたら、途中から善逸も増えました。
もう1人、伊之助も来るかなと思ってましたが、来なかった。
というか両方とも女性レイヤーさんだったので、仮に伊之助をやろうと思ったら、こう、上半身が相当に差し障りが、うん。
さて、続いては台所棟。
本館はこれで最後です。
何カ所かお屋敷を見ましたが、どこも台所エリアは天井が高い。
……た、確かに台所だ。
これ以上無いほどに台所だ。
貸し出しもやっているから、実用可能な台所なんですね。
さて、では先ほどは解説を聞くのを優先したためにスルーした展示エリアへ!
かつての大観楼。
この襖は「オリガミ模様」。
素敵。学術万歳。
ていうか天明年間のデカさがすごい。
好き。
というか、ここの南正面、17世紀後半には埋め立てられてますね。
最初の方で書いた「200m南は海」だった時代って、この御茶屋の歴史のうちせいぜい40年(1割強)しか。。。
一応、舟倉前はしばらく海のままですが、それも天明の終わり頃には埋め立てられているという。
沢瀉……ではない?
さあ、楽しいジオラマ鑑賞の時間です。
これは正面玄関側。
ちょっとだけカメラを引いて、ジオラマ全景。
ちなみに1/100スケールです。
方向に気をつけないと、自分がアクリル板に反射して写り込むのでしんどい。
池の位置はだいたい変わらない、のかな?
門と、正面玄関。
大観楼だけ屋根を外してくれてます。
裏手側。
沢瀉について。
防州秀景図。この辺の地理的特徴を年代的に把握できる資料として重要。
杉戸たち。全部で8種類ですが4つだけ。
水琴窟。地下に空間があり、手を洗った水を滴らせて音の響きを愉しみます。
玄関棟の床から大観楼棟側の縁側を。
違棚。とりあえずゴールデン!
お庭も含めた地図は、そういえば初めて見ますね。
「発掘」という文字だけで心が躍ります。
江戸時代は回遊式庭園、大正時代は枯山水とは。
さて、お庭に出まして。大観楼を。
一部だけ檜皮葺を再現しているのが……さすがに全部は管理面やら資金面やらで難しいんでしょうね。
さあ、いよいよ花月楼。
ちなみに見晴らしは……微妙。
茶室のにじり口でしょうね。
へえ、すごい建物の玉突きがあったんですね。
建物の中心、八畳ノ間から上段ノ間を見る。
逆からの眺め。
九畳ノ間から小間を見る。
ちなみに小間が、前掲のにじり口から入った場所です。
小間は暗いけど、うまいこと写真に写ってくれました。(奥は相伴席)
さて、本館に戻りますか。
おお、根性のある根っこ。
お庭が雑然としていてイマイチだと思っていましたが、この角度からはなかなか好みにあう。
最後に受付で、「これは持っていますか?」と冊子ももらってしまいました。
「幕末激動の防府」。何これ楽しそう、ありがとうございます。
門に桃があしらわれていると聞いたので、最後にそれを見て撤収です。
なんだかんだ、1時間の滞在でした。
艦これイベントで時間を使ったり、新型コロナウイルスの影響で2020年9月の呉・竹原旅行をキャンセルしたことでモチベーションが下がったこともあって、前回の投稿から実に1ヶ月以上も間が開いてしまいましたね。
さあ、この旅行もあと少し。
続きます。
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