古事記の時代は「死ぬ」は実在しなかった。
「萎す」(しす)
今では「しす」で「萎す」の漢字はでません。
「萎ぬ」は植物が枯れてしなしなになる状態をいう。反対語は「活く」(いく)だそうです。
昔の「死ぬ」は魂が離れてシナシナになる一時的な「死」だったに過ぎなかったのです。
完全な「死」は白骨を拝む、もう生き返らない状態が「死」になった。
だから本当は「死訖」死が訖るなのです。
時間は変動する「変動説」が実在する。
一番確立の高い国がイギリスのリバプール、ボルドストリートで人に聞こえない低周波が多い。
低周波が多いと脳が刺激され感覚がするどくなる。
日本でも浦島太郎はタイムトラベラーの話。
人生は一見、単調なことの繰り返しのように思えますが、その一日一日は「繰り返しのきかない繰り返し」です。
私たちは、まだ来ぬ明日を頼んだり、また、時には二度と帰らない過去を懐かしんだりと、ともすれば「今」をという時を疎かにしているように感じます。