気ままに城めぐり

城好き、特に城郭の石垣を見るとしびれますね!

清須城

2011-12-24 19:32:45 | 旅行

本能寺の変において、織田信長は京都で家臣の明智光秀によって討たれ、信長の嫡男織田信忠も二条城で自害その後、光秀は山崎の戦いで秀吉に討たれると言う激動の一ケ月、

織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、尾張国清洲城で開催されたこれが有名な「清洲会議」です、どんな様子か覗けるものなら覗きたいですね
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた 勝家の影響力が低下し、代わりに主君の仇を討った秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられた。
信長の三男・織田信孝を擁立する勝家だったが 結果は秀吉が擁立する織田秀信が後継者として決まり、秀吉はその後見人として収まった、この時点から秀吉は天下取りへ驀進して行く・・・

長い間 尾張の府城であった清須城も、慶長14年(1609年)戦略上の理由によって徳川家康によって、名古屋遷都にともない,清須城下は名古屋城下に移転され
家臣、町人のみならず、神社・仏閣,社寺、清洲城下の町屋約2700戸のほとんどが移転 清須城小天守も名古屋城築城の際の資材として利用され名古屋に移った「清洲越し」
慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となる


  

  名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる

  
  

  
  信長は桶狭間で義元を破りこの地に、敵将今川義元の首をさらし、その菩提を弔うため、義元塚を築き、衆僧に千部経を
  読ませ、大卒塔婆を立てたといわれている

徳川家霊廟 (増上寺)

2011-12-03 17:35:28 | 旅行

増上寺には、二代将軍秀忠公をはじめ 徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られています
かつて造営された墓所、本殿、拝殿を中心とした施設の数々は当時の最高の技術が使われ 壮麗な霊廟が広がっていて、戦前国宝に指定されていましたが
昭和二十年の戦災でほとんどが焼失してしまいまい 旧霊廟の中でも随一の規模と壮麗さ誇った二代将軍秀忠公の霊廟も戦災で焼失してしまったそうです
現在は崇源院(お江)の宝塔(合葬)が使用されていました

某日、おとずれた時は お江人気で凄い人でした、六人もの将軍の宝塔が並ぶと 徳川 四百年の威光を感じます

  

  
  
  
 
  

  

 有章院霊廟二天門(重文)
徳川家継(七代)の霊廟、徳川吉宗(八代)により建立された     
戦災により霊廟のほとんどが焼失、二天門のみが現存するそうです
保存状態がいまいちなので心配です