気ままに城めぐり

城好き、特に城郭の石垣を見るとしびれますね!

富山藩主前田家歴代廟所 長岡御廟

2013-11-10 17:45:20 | 旅行

長岡御廟は富山藩主前田家歴代の墓所。富山二代藩主前田正甫(反魂丹 越中売薬の基礎を作った)が長岡に初代藩主前田利次の御霊
を葬ったのが始まり。
御廟内には初代利次公から11代藩主利友公までの墓と、正室側室等の墓があり 墓所の前には藩士たちが寄進した約600基の石燈籠が並んでいます

午後3時頃訪ねたのですがに人影がありません 御廟は藩主毎に整然と配置されていて荘厳さがあり富山藩の歴史を感じられます
ぜひお勧めの場所です。



生没年:1617-1674


1649-1706                                       1678-1733

1690-1744                                       1729-1762  

1737-1794                                       1762-1787 

1767-1801                                       1771-1836 

1799-1859                                       1834-1853

越中・富山城

2013-08-14 19:49:10 | 旅行
         総欅造り。1849年、千歳御殿の正門として建てられた富山城唯一の現存建築遺構


関ヶ原の戦功により金沢城主前田利長は、加賀・能登・越中の3ヶ国合わせて102万石を支配する日本一の大藩となる
慶長10年に利長は隠居して 富山城に移るが、1609年に主要部の建物を火災により焼失したため、高岡城を築いて移る

加賀藩第三代藩主 前田利常は次男 利次に越中国10万石を与えて分家させる、利次は富山城を修復し入城 富山藩が成立以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎る。



鉄御門跡、2階に平屋の多門櫓が載っていたのですかね実在すれば一番の見所でしょう



北側の神通川がかなり流れの位置が変わってしまっています、前のように城のそばを流れていれば天然の防御、浮城ですね



石垣は大きな城と比べると見劣りしますが綺麗に修復されています

摂津茨木城

2013-06-08 17:12:57 | 旅行
                    迫力があり立派な門です

茨木城は 茨木市の中心地にあり、茨木小学校あたりに本丸があったらしいのですが、現在は宅地化され住宅の中に埋もれてしまっています
少ない遺構を求めて城跡を回ってみました

主な城主には中川清秀や片桐且元などの豊臣方の武将が城主となっています
片桐且元は賤ケ岳の戦いでは秀吉軍の加藤清正・福島正則らと共に活躍し7本槍の一人として数えられています。
加藤清正・福島正則のような目立った人物ではないのですが秀吉から高く才能を買われていたのです

且元の運命を変える『方広寺鐘銘事件』以後 徳川家康に従属するようになり。大坂の陣では徳川方で参陣します 
そうして大坂城の落城からわずか20日後 駿府城へ赴く途中 前年より患っていた肺病が原因で病死しました
その後 茨木城は1615年一国一城令により廃城となります。

  
                茨木小学校の正門に復元さた櫓門

  
                妙徳寺山門は茨木城脇門



伊賀上野城

2012-12-10 22:10:46 | 旅行

豊臣秀吉の命によって大和郡山から伊賀上野へと転封になった筒井定次によって築城された
大阪冬の陣において豊臣家に内通したことを理由として筒井定次・順定父子は自害を命ぜられ 名門 筒井氏は幕を閉じる
その後、1608年 藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から移り、大坂方に対抗するため伊賀上野城を大幅な改修に着手、
筒井期の本丸は、城代屋敷となり西側に天守閣や大高石垣などが築かれました
豊臣家も徳川家も西国への要衝の地である伊賀上野を重視したのが、この高石垣に現れているような気がします

上野城の一番の見所 築城の名手とされる藤堂高虎が築いた西側の高石垣ですね 
高く積むほど難しいといわれる石垣が現在まで残っている当時の石積みの技術は、すばらしいです


  

  現在の天守は、昭和10年に木造で再建された模擬天守 竣工直前の五層大天守は、1612年の暴風雨で倒壊

  
  
  石垣の上から下を覗くと足が竦みます
  
  

  
  

岡山城(烏城)

2012-10-13 17:25:27 | 旅行
                                  岡山城月見櫓 国指定重要文化財

宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは1573年の秋、それまでは金川の松田氏に
属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎を作った
その子秀家は、秀吉の殊遇を受け57万石の大領主となっる。
秀家は関が原の戦で西軍の総大将となって破れ八丈島に流されその後に、あの関が原の戦でのキーマンとなった徳川方に寝返りをした小早川秀秋が
岡山城主となるがわずか2年で急死後継者がいなかったのでお家断絶、(きっと家康の陰謀です)その後、姫路藩主池田輝政の次男忠継が入城し池田氏が明治維新まで続く

この城の天守台は、北に大きく突き出た不等辺五角形の珍しい形をしています。
天守閣を中心として、宇喜田秀家によって築かれた石垣の殆どが自然石をそのまま用いて積み上げた野面積(のづらづみ)となっています
池田忠雄が築いた月見櫓周辺、および二の丸の石垣は打込萩となっている

 


 
                                                     小さくても風格ありますね

                                                                    

                         宇喜田秀家が築いた石野面積み

 

   天守台は、北に大きく突き出た不等辺五角形で、全国に例のない珍しい形をしている