秀吉が死去したことにより、豊臣政権では家康は禄高255万石の日本最大の大名となり 天下取りへの野心を抱いても老練の家康なら当然の成り行きでしょう
1600年1月家康は大名家に年賀の挨拶を求めたところ 上杉家だけ断ってきました 家康は釈明するようにもとめてきます
上杉家の『直江兼続』が家康を挑発する内容の『直江状』を送りつけてきます 家康はこれに大激怒し上杉氏征討を決断します
6月家康は上杉家の謀反の疑いは確実と大軍を率いて大坂城を出発
その隙の7月石田三成は徳川家康を倒そうと大名達に呼びかけます 真っ先に友人の越前敦賀城主の『大谷吉継』を家康討伐に誘います元々は家康よりの吉継でしたが
三成に形勢は不利と諭すも三成の友情と熱意を知って西軍に参加します
1600年(慶長5年)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が、美濃の関ヶ原で激突した、
西軍を裏切った小早川秀秋の1万5000人の軍勢のお蔭かその後も東軍に寝返りするものが現れ戦いを有利に進めます
関ヶ原の戦いは開始されてから約半日ほどで決着がつき 東軍側の勝利に終わり家康の覇権を決定付けたのです
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徳川家康最後の陣跡 石田三成陣跡
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首洗いの井戸 家康によって実検された将士の首がここに眠っています
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ハンセン病を病んでいた大谷吉継は、自害する前に側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた
五助は主君の命を守り、取った吉継の首を戦場から離れた場所に埋めますが、藤堂高虎の軍の藤堂高刑に発見されるが「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取りました。
主君の高虎に同行して徳川家康に五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近中の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。
知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったのでこのことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされと高刑は答えた。
吉継の首の在処を言えば、更なる大手柄になるというのに 頑として在処を言わない姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという話が今日まで伝わっている 『平尾氏箚記』より
大谷吉継 友情に厚く義理を重んじ良い家臣を持ち最後は死して名を残す好きな武将ですね 「名の為に棄つる命は惜しからじ終にはとまらぬ浮世と思へば」 平塚為広