歴史好き・キゴウ君のひとりごと

主に日々の暮らしで感じたことなどを歴史的なことを交えてひとりごとりたいと思います。

流行語大賞

2006-12-31 23:28:55 | Weblog
ついに2006年も1時間をきってしまいました・・・

突然ですが、2006年の流行語大賞が発表されましたね。
甲子園をわかした「ハンカチ王子」、わたくしもちょっと気になる「メタボリック・シンドローム」、わたくしが大好きな「エロカッコイイ」などがトップテン入りしました。
そして、大賞には、荒川静香さんの「イナバウワー」と藤原正彦さんの「品格」に決まりました。

わたくし、ぶっちゃけ言いますと、トリノ五輪のフィギアスケートも藤原正彦さんの「国家の品格」もあまり関心がなっかたので、どちらも見ていません。
世間が騒いでたので、やっと最近知ったのです。

しかし、わたくし「歴史好き・キゴウ君」、ついついどちらも内容とは関係無しに歴史的な観点から見てしまいました。

「イナバウワー」ですが、この技は1950年代に活躍した西ドイツのイナ・バウワー選手が初めて使ったので「イナバウワー」と命名されたのです。

「品格」の方ですが、この言葉を崩すと「品の格」→「品の高い・低い」となります。
ですから「上品」とか「下品」とかの使い方もありますよね。
品が高いと良くて、低いと悪いみたいですが、もともと「品」ってなんだったのでしょうね?
品(しな)ですから、モノだったのかな?

実はですね~、「品格」の品は、中国の三国志の時代、西暦で言いますと220年頃に「魏」の国で高級官僚の位を表す単位だったのです。

当時は9品等に分けられていて、1が高くて、9が低かったのです。
魏の国では、「中正官」とよばれる人事を司るお役人が、役人になる人の能力や人柄を調べて9等級の「品」に評価付けをして、それぞれの官職に任命していたのです

しかし、三権分立も民主主義も選挙制度も無い大昔のことです。
其のうちに、ちゃんと公正明大に評価付けされなくなり、やがて賄賂や利害関係や縁故が横行して、一部の豪族が高い位の品、すなわち「上品」を独占するようになりました。
そしてそのうちに「貴族」とよばれる階級に成長していきました。
ですから「上品」の家柄に生まれた人は、世襲によって経済的にも文化的にも豊かな暮らしができる「上品」でなおかつ「貴族」になっていったのです。
この言葉が、いつやらか日本に少し意味や使い方を変えて伝わって、「上品」とか「下品」とか「品格」といった使われ方をするようになったのです

もともとの意味の「品」はどうでもよいですが、現在、日本で使われている「品」は大切にしたいですね。

2006年は、わたくしらしく、薀蓄でしめさせていただきました。
では、みなさんよいお歳を








憲法改正議論

2006-12-29 02:56:46 | Weblog
読者の要望にお応えして、今日はスイスの憲法と政治風土について、ひとりごとりますね

スイスの政治については、なんといっても特徴的なことは、140回以上も憲法を改定していることがありますね。
スイスでは内戦終結直後の1848年に憲法を制定して、1874年に連邦制に憲法を改正しました。

スイスは伝統的に地域主義が根強く、憲法は各州政府が独自に行わないこと、(たとえば外交や国防のこと)を明記したものであって、教育や参政権まで、そのほとんどを各州政府が取り仕切るしくみになっています

スイスでは政治への参加は、権利というより義務と考えられています。
其の上、出来るだけ広く国民の意見を汲み取れるようにたった10万人の署名があれば、憲法改正のための住民投票さえ要求できる「イニシィアティブ(国民発議)」と呼ばれる制度を設けています。
単純に代議制だけで政治を行えば、人口の少ない地域の住民の意見が反映されにくいからとの配慮でもあります。
このような考え方に基づいて、スイスでは多くの事柄が国民投票によって決められ、憲法も度々修正するのです。

スイスでは国民投票のことを、「レファンダム」と言い、連邦政府では、義務的レファレンダム(連邦憲法の改正等に際して必要)と任意的レファレンダム(有権者5万人の署名によって要求できる。)の2種類を定めています。

スイスでは憲法改正を度々行って全体の整合性のバランスが崩れると、大規模な憲法改正により憲法を制定しなおします。

スイスの憲法は代表的な軟式憲法です。
逆に日本の憲法は最も代表的な硬式憲法です。
どちらが良い悪いはありませんが、憲法は政治にとどまらず一国のアイデンティティにも関わることです。

現在の安倍さんの内閣は憲法改正を大きな公約としてかかげています。
どの様に改正したいか、はっきりと具体的に国民に説明できるくらい理念ある意見を望みます。

そして、憲法改正反対の方々もなぜ改正してはなら無いのか?
そして現在の憲法と現実世界のマッチングを真剣に検討していただきたい。

大昔みたいに「ダメなものはダメ」と、思考停止の議論はもう卒業しましょう

スイス連邦
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/switzerland/data.html



モーツァルト

2006-12-28 01:49:18 | Weblog
みなさん、今年、2006年も残すところ4日になってしまいましたね~。
今年もいろいろありましたが、実は今年2006年はモーツァルト生誕250周年のメモリアル・イヤーだったて、知ってました?
僕は今年12月の半ばになってはじめて知りました・・・

わたくし、キゴウ君は、実は少々オペラ鑑賞を趣味としていまして、主にドイツ語オペラですとワーグナー、イタリア語オペラですと、プッチーニなどを鑑賞しています
オペラの作品の言語別の割合を見ますとほとんどが、ドイツ語かイタリア語で、上演される作品数では、ドイツ語のオペラの方がかなり多いです。

わたくし、「歴史好き・キゴウ君」としまして歴史的にオペラを見ますと、16世紀後期にイタリアでオペラが始めて作られたと知っていましたので、現在、隆盛を誇る、ドイツ語オペラもイタリア語オペラに、負けず劣らずの歴史と伝統を誇っていると思ってました。
しかし、はじめて、まともにドイツ語のオペラが作られたのは1782年、つまり18世紀後期にモーツァルトが作った「後宮からの誘拐」と言う作品が始めてなのです
現在でも人気があってよく上演される、「魔笛」はモーツァルトが亡くなる、1791年に作られているのです。
ですから、なんとドイツ語オペラはイタリア語オペラより200年も遅く誕生したのです
しかし、音楽が大好きなドイツ人がすぐにでも、母国語ドイツ語でオペラを作らなかったのでしょうか

17世紀・18世紀のヨーロッパの人々はオペラは流麗で華やかなイタリア語こそふさわしいと深く思い込んででいて、他の言葉は、向かないと、決め付けていたのです

しかし、モーツァルトは当時の人々の思い込みにとらわれず、ドイツ語でオペラを作ってしまったのです。
おかげで、われわれは現在、すばらしいドイツ語のオペラを楽しむことができるのです。
モーツァルトはとても幼い頃から音楽に対して異常な才能を発揮し、たった36年の人生で2000を超える作品を残しました。
其の反面、日常生活では少々変わり者で経済観念も乏しく、その才能に反して生前にはまともに評価されず、貧困のうちになくなりました。

彼のずば抜けた音楽の才能と型破りな生き方から、モーツァルトはサヴァン症だったのではないかと言われています


スイス傭兵部隊 part9 終焉・・・

2006-12-21 00:52:40 | Weblog
スイスはナポレオン戦争後も大国の思惑に翻弄されるのですが、持ち前の「気合」でなんとか生き抜きます。

そうこうしている間に、ヨーロッパ各地で民主化の動きが活発になってきて、1930年にパリで7月革命が起こります。
もちろんスイスにも影響してきました。
旧来の門閥貴族支配に抵抗する勢力、カソリック対プロテスタントの争いなど、スイスの国内が慌ただしくなってきました。

そしてついには1847年には、「分離同盟戦争」と呼ばれる内戦が起きました。
しかし分離同盟派は敗れました。
そして、スイスは憲法や軍事だけは一つまとめた方が良いと考えて、現在の連邦制にしました。
その後もいろいろありましたががんばって、皆さんがご存知の現在の繁栄を謳歌するスイスに成長していきました。

其の過程でついにスイス傭兵部隊はその役目を終えて歴史の表舞台から去ります。
スイスでは19世紀には、時計産業や繊維産業が育ち、傭兵産業に依存しなくてもやって行ける様になってきました。

しかしながら、傭兵産業によってもたらせる利益は門閥貴族の独占的な利権となっていましたので、19世紀中頃になってもまだスイス傭兵部隊は存在していました。

しかし、1859年に起きたイタリア統一の巡ってのオーストリア対フランス・サルディニア連合国軍との戦いの際、フランス軍に参加していたスイス傭兵部隊は大変な損害をうけました。
そしてついにスイス傭兵部隊は「もう金で雇われて戦争するなんて嫌だ傭兵は命を粗末に扱われてやってられないよ」と反乱を起こしたのです。
この反乱をきっかけにスイスでは外国の正規軍以外の軍務は禁止ときまり、その後1927年、第一次世界大戦の10年後にすべての外国軍隊での軍務は禁止されました。

ついにスイス傭兵部隊は役割を終えて姿を消したのです

スイス傭兵はスイスにお金とさまざまな体験を与えました。
戦争と言う歴史で最も過酷のところでスイスの人々は生きる知恵を学んだのだと思います。

わたくしは、スイスの美しい山々、スイス製の高級腕時計、スイス銀行を思い出すたびに、其のスイスの誇る栄光の陰で人知れず命を賭けて戦った人々の歴史の上に、現在のスイスが存在すると思いますと、なにやらなんとも言えない感慨が沸き起こります

スイス傭兵部隊・・・。
まさに、スイスの背骨のような気がしてなりません。

これにて「スイス傭兵部隊」のひとりごとは終わります。

次回はスイスのお隣、オーストリアに生まれた天才音楽家についてひとりごとりますよ







スイス傭兵部隊 part8   瀕死のライオン

2006-12-14 21:48:46 | Weblog
わたくしの住む地域には大きなため池があります
その池に隣接して、花や木を沢山植えて散歩コースを整備した大きな公園があります。
この原稿を書くに前に散歩して来ました。
その訳は・・・。

スイスはナポレオンがロシア遠征に失敗して、対ナポレオン連合国に押されっぱなしなったので、やっと解放されると思い中立を表明しました。
しかしそれは認められずに連合国の対ナポレオン戦に協力させられまた
おかげで戦後の“ウィーン体制”では独立はゆるされ、おまけにスイスの中立は各国の緩衝地にもなるということで認められました。

しかしまだ完全な独立と中立はすぐには実現しませんでした。
その訳のひとつにスイスは伝統的に君主制の国ではなくて、地域地域の有力門閥が支配する小さな共和国の連合体であったのです。
“ウィーン体制”の考え方は、とにかくフランス革命前の君主制の強化と言うことでした。
スイスが君主制の国ではないので、とにかく“ウィーン体制”をちゃんと支持するか疑われていました。
ですから、君主制の国々と「神聖同盟」とよばれる同盟にも加盟したり、またスイス傭兵部隊がまた君主制の各国と傭兵契約を結んで、“ウィーン体制”ちゃんと支持していることを、中立の原則を曲げても表しました。

そんな時代の1821年にスイスのルツェルンの池に隣接する大きな岩に“瀕死のライオン”と呼ばれるすばらしい彫刻が作られました。
フランス革命の際、革命急進派によるテュイルリー宮殿を襲撃に対抗して、全滅するまで戦ったスイス傭兵の勇気と、名誉を称えてつくられたのですが、それだけの意味ではなかったのです。
以前のように雇い主の『信頼』を裏切らないと言うメッセージが含まれているのです。

スイスはナポレオン戦争後の激動するヨーロッパを知恵と工夫、それと持ち前の「気合」でしぶとく、賢明に生きて抜いて行くのです

"瀕死のライオン”の画像はこちらです
http://www.myswiss.jp/area/04/luzern/sp_11.htm













スイス傭兵部隊 part7  「気合」が「悲哀」に・・・

2006-12-11 22:48:11 | Weblog
1792年に起きたフランス大革命は世界史では、有名な出来事です。
”革命”とは、華やかでカッコ良いイメージがありますが、其の影には権力争いと謀略渦巻く、エゲツ無い事も沢山ありました。
この革命によって、近代的なすばらしい思想やシステムが生まれましたが、悲劇も沢山起きました。
スイス傭兵部隊も大変な目に合います。
この時期から、スイス傭兵部隊の「気合」は、どこか「悲哀」に代わって行きます・・・。

フランス革命が進むにつれて、国王と革命急進派は対立を深めてついには、革命急進派は国王が住むテュイルリー宮殿を襲撃します。
国王夫妻は、さっさと逃げたのですが、テュイルリー宮殿を守るスイス傭兵“近衛”隊は、最後の一兵まで全滅するまで、戦い抜いたのです。
戦死した、スイス人兵士の数は600人以上とも、1,000人以上とも言われています。
この戦いの10日後、フランス革命政府は、40,000人に及ぶスイス傭兵部隊贅全員を解雇してしまうのです。
ここに、300年近くフランス軍の中核をなしたスイス傭兵部隊はフランスから一度姿を消したのです。
スイス傭兵部隊は頑張ったのですが、失業したわけです。

苦労は続きます。
今度は、フランス革命政府は小さな隣国スイスを軍事的に占領して、利用し易い様にいきなり革命政権と似た傀儡政権を作るのです。
そして、スイス傭兵部隊の提供を強制したのです。
しかし、いきなり押し付けられた新しい政権(形だけはカッコ良い共和制)がうまく行く訳がなくて、2年もしないうちにクーデターの連発で全くうまく治まりません。

そのころ、フランスではナポレオンが権力をにぎっていました。
軍事的な才能に恵まれたこの“チビ伍長”とあだ名される男は、一度スイスからフランス軍を撤退させます。
そして、ムチャクチャ政情が不安定になったところに、“良き調停者”として現れ、以前の権力者たちに権力を返す見返りに、自分に都合の良い同盟を結ぶのです。
そして、スイス傭兵部隊をナポレオン軍に完全に組み込んだのです。
この関係はナポレオンがロシアの“冬将軍”に敗れて敗走するまで続きます。

ナポレオン軍がフランスに逃げ帰る途中に、べレジナ川(ドニエプル川の支流)に差し掛かりました。
小さな橋をフランス軍が先を争って渡ろうとしました。
追撃するロシア軍は「あっ」と言う間に追いついて攻撃をします。
そこで、なんとスイス傭兵部隊は“殿軍(しんがり)”を命じられるのです。
すでにこの時点で初めは9000人いたスイス傭兵部隊は3000人に減っており、さらにこの戦いでわずか300人にまで減ってしまうのです。
スイス傭兵部隊の奮闘のおかげでフランス軍の一部は無事にフランスに帰りつきました。

スイス傭兵部隊は『信頼』を守ろうと、がむしゃらに頑張ったのですが、今度はナポレオン軍より形勢が良くなったオーストリアやロシアの連合軍に恨まれました。
やはりしょせん戦争は、暴力です。
やられた方は恨んで当然です。

連合国はスイスに攻めてきました。
スイスは中立を宣言して抵抗しませんでした。
おかげで、スイスで戦闘は起きませんでしたが、大変な徴発を受けました。

今度は、ナポレオンを倒した連合国とブルボン王朝が造った”ウィーン体制”が、スイス傭兵部隊を利用しようとします。

スイスとスイス傭兵部隊は、まるで荒波に翻弄される小船のように世界史上を漂流します・・・。











スイス傭兵部隊 part6  ”イジメ”問題

2006-12-10 00:09:03 | Weblog
前回、1474年当時のヨーロッパの様子をひとりごとりさせていただきました。

この年、1474年に始まった「ブルゴーニュ戦争」こそが、スイス傭兵部隊の「気合」を見せつけ、歴史の表舞台に立たせたのです。
「気合」の見せつけ方はすごいシンプルです。
スイス傭兵部隊が、華々しい勝利の連続でブルゴーニュ公国に勝ったからです。

でもなんで、ブルゴーニュ公国とスイス傭兵部隊が戦争しなくちゃならなかったのか?

その訳はですね~。

皆さん、ハプスブルグ家って知ってます?
このハプスブルグ家は、第一次世界大戦が終わる1918年まで、約700年間以上、今のオーストリアのウィーンを中心に、大帝国を支配していた”お家”です。
前回登場した皇帝フリードリッヒ三世は、ハプスブルグ家の出身です。

パプスブルグ家は11世紀頃は、今で言うスイスの都市である、バーゼルとチューリッヒの真ん中辺りに住み着いていた、本当に小さな豪族だったのです。
ですが、なかなかの権勢欲のある”お家”でした。
器用にも、政略結婚で着々と勢力を北や東に拡大して行き、15世紀後半には、今のウィーンを本拠地にする、大勢力に成長していました。

ハプスブルグ家は南ドイツやオーストリアに大きな領土を持っていても、やはり”先祖伝来の土地”に対してのこだわりがあるみたいでして、スイス地方に攻めて来たのです。
スイス地方の町や村は「バラバラのままでは、やられてしまう!! みんなで団結して闘うんだ!!」と言うことで、傭兵部隊もまとめて対抗しました。
そして、度々攻めてくるハプスブルグ軍を撃退し続けたのです。
そのうち勢いがついてきて、ハプスブルグ家に、「イジメにはもう負けない!!この恨み、はらさずおくべきか~」と賠償金を要求するために反撃をくらわしたのです。

発祥の地から追い出し、逆に攻め込みました。
このまま、深く領内に攻めて来られる事を恐れたハプスブルグ家はなんと、スイス傭兵部隊が攻めようとしていた地方をブルゴーニュ公国の欲深かで、お調子者で有名だったシャルル大胆公に売ってしまったのです!!
そんなワケありの土地を買うのですから凄いですよね~。

欲深かで、お調子者のシャルル大胆公は、「田舎モンのスイス傭兵部隊なんかに負けるワケ無いっしょ!!かかってこいや~!!」と、思いっきりなめてました。
ハプスブルグ家に代わって、敵対を始めたシャルル大胆公に、スイス傭兵部隊は戦いを挑みました。
「もう、イジメられっぱなしはイヤだ!! コンニャロ~!!」

もちろんシャルル大胆公も、「ちっぽけなスイス傭兵部隊に負けるかよ!!」と、スイス傭兵部隊の挑戦を受けて立ちます。
こうして「ブルゴーニュ戦争」がはじまるのです。
財政的に豊かなブルゴーニュ公国ですから、スイス傭兵部隊よりも多い人数の傭兵を雇うことができました。
数に劣るスイス傭兵部隊ですが、「気合」が違います。
連勝につぐ連勝!!
戦争がはじまって3年後の1477年には「ナンシーの戦い」で、シャルル大胆公を戦死させての大勝利をしたのです。

シャルル大胆公にはハプスブルグ家に嫁いだ一人娘しかおらず、跡取り息子がいなかったので、ブルゴーニュ公国はあっさり解体されてしまいます。

スイス傭兵部隊にとって「ブルゴーニュ戦争」は防衛戦争でありましたし、下手に多くの領土を得てしまうと、スイス傭兵部隊同士で土地争いが起きる恐れがあったので、控えめに少しの領土しか占領しませんでした。

残りの領土は、まるでハイエナのように、ヴァロア家とハプスブルグ家が、占領しました。
「ブルゴーニュ戦争」に連戦連勝の大勝利したスイス傭兵部隊は、やんややんやの大喝采を受けます。
「スッゲェー、めっちゃ強いじゃん!! ウチで働いて欲しい!!」
こうして、スイス傭兵部隊は、歴史の表舞台にあらわれたのです。

各地の王侯から「ひっぱりダコ」となりますが、相変わらずハプスブルグ家とは仲が悪かったので、対抗するためにも、主にフランスのヴァロア家と傭兵契約を結びました。
後にフランスの王朝がブルボン家に代わっても、傭兵契約を結び続けました。
其の長さは、フランス革命が原因で傭兵契約を打ち切られるまで、300年近く続いたのです。

そしてフランス革命の最中に、スイス傭兵部隊の「気合」を最も表す事件が起きるのです・・・。
これマジ凄い事件ですよ!! 









スイス傭兵部隊 part5 仲良きことは美しきかな

2006-12-07 02:32:36 | Weblog
それでは、今回はスイス傭兵部隊の「気合だ~」シリーズ・第二弾です。

以前にスイス傭兵部隊にとって、フランスが最大のお得意さんであったと言いましたよね。
フランスとスイスの正式な傭兵契約は1474年から始まります。
しかし数ある王侯にあって特にフランスとの関係が深かったのはナゼか?

其のあたりの背景をひとりがたります。

1474年の当時、現在で言う、フランスのブルゴーニュ地方と、ベルギーのあたりのネーデルランド諸邦はフランス王家の分家である、ブルゴーニュ公家が治めていました。
当時のネーデルランドは毛織物産業が盛んで、莫大な富を得ていました。
ですからブルゴーニュ公国は経済的にとても栄えて、とても華やかな宮廷文化が華開きました。
余談ですが、その様子はヨハン・ホイジンガ著「中世の春」に詳しく描かれています。

ブルゴーニュ公家は、しっかりとした公(領主として表現するときは”爵”は付けない慣例らしい」)が続いて、繁栄が続いていました。
しかし、ついにブルゴーニュ公家最後の公、シャルル大胆公(その他にも、勇胆公、無鉄砲公、突進公、猪突公と勇ましいあだ名が多数あります。)が即位しました。
このシャルル大胆公はフランス・ヴァロア家の分家でフランス国王の譜代の家臣であるのです。
しかしなんとシャルルは「余は公爵では飽き足らない国王か皇帝に成りたい」と爆弾発言したのです。
そしてシャルル大胆公は、君主であり、親戚でもある、フランス国王を裏切り、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ三世に近づこうとしたのです。
その方法とは、自分の一人娘を皇帝の跡取り息子マクシミリアン一世に嫁がせようと考えたのです。
そして、皇帝に公爵から国王に格上げしてもらおうと考えたのです。
其の上、隙あらば、神聖ローマ皇帝の地位を奪ってやろうと野心を燃やしたのです。

一方こちらはフランス国王ルイ十一世です。
フランス国王ルイ十一世は、王権拡張・中央集権化のために奮闘していました。
しかし、なんと言ってもブルゴーニュ公国が最大の障壁。
しかも最近はシャルル大胆公の不穏な動きが目立ってまいりました。
段々とルイ十一世とシャルル大胆公の対立は表面化してきました。

しかし世は戦国の世、ルイとシャルルの争いの「漁夫の利」をねらう神聖ローマ皇帝フリードリッヒ三世もあれこれちょっかいを仕掛けてきます。

しかし、皇帝、国王、公爵の三者の内の誰かが激突するのではなく、違う勢力が関わって戦争が勃発したのです。
それはブルゴーニュ公国対スイス盟約者団との戦争、「ブルゴーニュ戦争」です。
この戦争でスイス傭兵部隊が大活躍するのですが、その「奮闘記」はまた次回に・・・。
ではみなさんまたね~ 

スイス傭兵部隊 part4  気合だ~!!

2006-12-04 23:38:20 | Weblog
前回、スイス人傭兵達は、「スイス傭兵部隊」の『信用』を守るために如何に「気合」を入れていたかのエピソードを紹介します、と言いましたね。

では、まずはじめに・・・・、スイス傭兵部隊の評判も上がってきた西暦1505年のことでした。

ときのローマ教皇は、ユリウス2世でした。
この教皇、鼻息が荒いことで有名で「戦争屋・政治屋」とあだ名される豪傑教皇でした。

そのユリウス2世が、「我がヴァティカン・ローマ教皇庁の近衛兵は精強を持って知られるスイス傭兵部隊にするのじゃ」と鶴の一声。
スイス傭兵はなんとヴァチィカン・ローマ教皇庁の近衛兵になったのです。

そして、数年後の西暦1527年ついにスイス傭兵部隊の気合の入ったエピソードの出来事が起きるのです。
この年、ヨーロッパはの政局は大荒れでスペイン・ドイツを支配するハプスブルグ家に対抗するためにローマ教皇クレメンス7世はフランスを支配するヴァロア家と同盟しました。

それに怒ったハプスブルグ家の皇帝カール5世は「この野郎~どっかの元総理大臣みたいに風見鶏のローマ教皇クレメンス7世め(ユリウス2世は1513年に死去)、いっちょ、懲らしめてやる」と、ドイツとスペインから集めた大軍でローマに攻め込んで来たのです。

もちろん当時、ドイツとスペインからやって来た兵隊達も、お金で傭(やと)われている傭兵です。
ローマにやって来て包囲する皇帝カール5世軍ですが、なんと傭兵達への賃金の支払いが滞っていたのです。
ですから皇帝軍の傭兵達は不満ブーブーです。

皇帝軍兵士である傭兵達は、「クソ寒いアルプス山脈を苦労して越えてやって来たのに、まだ全然給料をもらってねーぞ」。「そーだそーだ、早く払えってんだ」。
不満が爆発した皇帝軍の傭兵達は「そうだローマには金があるはずだ金だローマには金があるぞ~」と叫び始めたのです。
こ~なったら収拾はつきませんよね~。

しかたがなく、皇帝軍総司令官ブルボン公は皇帝軍にローマ総攻撃の命令を出すのですが、そのブルボン公、なんと最初の攻撃で流れ弾にあたり、あっさりと戦死しちゃうのです。
総司令官を失った皇帝軍はやりたい放題しました。
なんと八日間に渡って略奪の限りをつくしたのです(普通、当時略奪は三日程が慣例でした)。
これが悪名高い「ローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ)」です。
おかげでローマは滅茶苦茶。ひどい被害をうけました。

ヴァティカン・ローマ教皇庁の主 クレメンス7世はサン=タンジェロ城に逃げ込むも、ドンくさいことにあっさり捕虜になってしまいます。

そんなだらしない雇い主と違って「スイス近衛兵」は逃げずに奮闘しました。
なんと二万の皇帝軍に対してわずか189人で応戦したのです
そして戦死者は近衛兵全員の4/5にあたる、147人にのぼりました・・・。

この奮闘の名誉に対する恩返しなのでしょうか・・・。スイスでは1874年に憲法改正で傭兵の輸出禁止が決まりさらに、1927年にはスイス国民の外国軍への参加が禁止されて完全にスイスの傭兵の歴史は幕をとじました。
しかし、にもかかわらず21世紀の今、現在も、中世以来の伝統を誇るヴァティカン市国の「スイス近衛兵」は唯一の例外として認められているのです。

とりあえず一服 まだまだ続きますよ~













スイス傭兵部隊 part3  ブランドっていいな~

2006-12-03 21:26:20 | Weblog
前回、どうして「スイス傭兵部隊」が逃げ出さないのか?で終わりましたが。
なんでだと思います?
そのカギはこの「」(カギ括弧)にあるのです。

わたくし、前回のブログには意識して「スイス傭兵部隊」には「」をつけているのです。
その他の、傭兵・スイス人・スイス人兵士 とかには何も付けてはいません。
ナゼ、わたくしが、わざわざ「スイス傭兵部隊」に「」をつけて、こだわるのか。
簡単に スイス傭兵でよいではないかと思いませんか?

そのあたりをひとりごとります。

ナゼ・・・、わざわざ「スイス傭兵部隊」なのか?
それは、スイス人傭兵は、個人個人勝手に各国の雇い主と傭兵契約を結んでいた訳では無いのです。
まず、それぞれの兵士の出身地の州の州政庁に雇われるのです。
そして各州や州が加盟する『盟約者団』によって、各国と傭兵契約を結ばれて、各地に傭兵隊として派遣されるのです。

ですから、国家管理の傭兵隊だったわけです。
ちなみにスイスは19世紀中頃:西暦1848年に連邦制度を採択するまでは、スイスは一つの国家と言うより州の集まりである性格が強かったのです。
ですから、各州が傭兵を募集したのです。

前にも書きましたが、スイスは貧しい地域なので、仕事が無いと書きました。
ですから、スイス地域の人にとって、傭兵とは気ままな生活を求めて始めるものではありません。
各州にとっても大切な大きな収入源でした。
ですから、「やることが無いから傭兵にでもなろうか~」とか「スリルと冒険が欲しいゼー!!」とかのレベルではないのです。

スイス地域の個人にしても、州にしても傭兵稼業は一家、国家を養う為でもあり、後に続く同胞や子弟の食い扶持や就職先の確保をする為とても大切なもの。
ですから、決して「スイス傭兵部隊」の『信用』を失っては成らなかったのです。

「スイス傭兵は、すぐ逃げるから、あてにならんな~」などと思われたらみんな困って大変なことになるのです。
ですから頑張れたのです

スイスが傭兵稼業からようやく解放されるのは、違う産業が育つ19世紀まで待たねばなりませんでした。
たとえば、時計に代表される精密機械。「ロレックス・オメガ・ロンジン」とブランドをあげれば沢山あります。
それに「スイス銀行」に代表される金融業とか保険業、どれも『信用』があるからなりたつのです。

これらの傭兵産業以外の産業が発達してようやく傭兵産業から脱出できたのです。
その「スイス傭兵部隊」の『信頼』を裏切らない「気合」の凄さをお伝えするエピソードを次回お伝えしたいと思います