歴史好き・キゴウ君のひとりごと

主に日々の暮らしで感じたことなどを歴史的なことを交えてひとりごとりたいと思います。

憂国

2007-11-14 07:55:54 | Weblog
韓国の新聞「朝鮮日報」でこんなコラムを発見しました。

「もし、韓国に坂本竜馬がいたら」

http://www.chosunonline.com/article/20071113000059

韓国も今、混沌としていますからね~。

坂本竜馬は司馬遼太郎氏が小説で取り上げられるまでほとんど、知られることも無く、まさに司馬氏が竜馬を発見したと言えるほどだ。

きっと韓国にも世に知られてなくとも国や民族に貢献した人物がいると思います。

韓国の文化人はその様な人を発掘して世に知らせて欲しいものですね。

かって中国の文豪・魯迅は医師を志して日本にまで留学していましたが、国の病を治したいと小説家になりました。

日本の司馬氏も敗戦後、あまりに日本がメチャクチャな戦争に奔走し敗戦したことにショックを受け、「日本人に誇りと志をとりもどして欲しい」と小説を書くようになったそうですよ。


アン・ドゥ・トロア! Part2

2007-10-01 23:52:20 | Weblog
お話の続きですが、17世紀になりましてバレエが出会った世界史的に有名な方とはフランス・ブルボン王朝のルイ14世です。

フランスはこのルイ14世の時代に絶対王政が最高潮に達し、ルイ14世は大きな権力を振るいました。

ルイ14世はパリ郊外のヴェルサイユに豪華絢爛たる宮殿を造営してヨーロッパにその権勢を見せ付けたものでした。

そのルイ14世が熱中したものの一つがバレエでした。

ルイ14世はバレエを観劇するだけではなくて出演して踊ることも大好きでした。
当時のバレエは古代ギリシャ・ローマの神話から題材をとったものばかりでした。
ルイ14世は、バレエの中で古代ギリシャ・ローマの神で太陽の化身であるアポロを演じることが大好きでした。

だからルイ14世は『太陽王』とあだ名されたのでした

バレエにおいてルイ14世の功績として五つの基本ポジションを舞踊教師であったピエール・ボーシャンに決めさせたことがあります。

この基本ポジションはどれも体の正面に対して足先が左右に180度外側に向いていることです。

これはバレエ・ダンサーが観客の方を向いたまま、左右に跳躍できるために考案されたものです。

クラシック・バレエが他の舞踊と大きく違うところですね

その後もバレエはさまざまな才能を持つ人達と共に発展して行き現在に至っています。
クラシック・バレエを特徴付けるかわいらしい妖精のような白い衣装やポワントと呼ばれるつま先で立ち上がる踊り方などです。

19世紀の一時期にはバレエは西ヨーロッパでは衰退した時期もありましたが、ロシアで大いに発展してまた西ヨーロッパに伝わって復活したりしています。

あれこれ述べましたが秋になって季節もよくなってきましたので、秋の夜長にバレエ鑑賞でもしまして楽しみたいと思います




アン・ドゥ・トロア!!

2007-09-27 22:40:43 | Weblog
実は最近、クラシック・バレエを無料動画配信のYoutubeで鑑賞することにハマッテいます。
短時間ですが一流のバレエ・ダンサーが出演する舞台を無料で沢山鑑賞できるのですからとても有りがたいです。

以前は、古典芸術では、最近パヴァロッティ氏が亡くなってしまいましたが、三大テノールの方々の活躍もあってオペラをよく鑑賞していたのですが、クラシック・バレエは全く関心がありませんでした。
                  

ところがNHKで放送されている「プロフェッショナル~仕事の流儀」と言う番組で現在、熊川哲也氏が主催する「Kバレエ・カンパニー」でプリンシパル(トップ・バレリーナ)、そして英国王立ロイヤル・バレエ団でゲスト・プリンシパルとして活躍されている 吉田都さんが出演されているのを見ましてとても感動したんですよね。

「日本人でも素晴らしいバレリーナないるんだな~」と気付きまして、youtubeでいろいろと探してみますとかなりの量のバレエの動画が見れるとわかりました。

それに世の中にはバレエを愛する方も沢山いらっしゃることがわかりました。

なんとご丁寧にもバレエファンの為にわざわざyoutubeの動画をダンサー別・作品別にブログに編集してすぐに見たい動画を見やすいようにしている方もいらっしゃるのです。

URLをのっけときますね

「Balle Tube~バレエを動画で」
http://balletdouga.seesaa.net/
                 

歴史好き・キゴウ君としましては早速バレエの歴史を調べてみますと、とてもとても興味深いことがわかりました。

バレエはオペラとともにルネッサンスの頃にイタリアで発祥しまして、ある時期まではオペラとともに舞台芸術として一緒に発展してきました。

ともに音楽を伴った舞台芸術でもありますのでオペラとバレエは当に兄弟といえますね。

現代においてもオペラとバレエの結びつきは強くありまして、世界の名だたるオペラハウスにはオペラ団とともにバレエ団を抱えています。

例えばパリ・オペラ座、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、モスクワ・ボリショイ歌劇場、ロンドン・ロイヤル(通称コヴェント ガーデン)オペラハウスなどです
                   
同じ時期に同じイタリアに生まれ、現代も同じ劇場で上演される仲良しな兄弟舞台芸術のオペラとバレエですがその発展・拡大は必ずしも足並みをそろえてというわけにはいきませんでした。

それを端的に表しているのがそれぞれの専門用語の多くをオペラがイタリア語で表されるのに対してバレエはフランス語が多用されていることでもわかります。

実はバレエは16世紀に当時文化的先進国でありましたイタリア・フィレンッツェのメディチ家の王女様のカトリーヌが、当時としてはド田舎のフランス・パリのヴァロア家の王子さまのアンリに嫁入りする際にフランスに伝わったのです。

もともとイタリア語でバロとかバロットと呼ばれていたものがフランス語に訛ってバレエ(ballet)となったのです。

現在でこそフランスは世界に冠たる文化大国として振舞っていますが、16世紀当時は王侯貴族でさえナイフやフォークを使わずに手づかみで食事をしていたのです。
ちなみにナイフやフォークもこのカトリーヌとアンリの結婚の際にイタリアからフランスに伝わったのです。

当時ヨーロッパではイタリアが最も文化的に発展していまして、フランスからイタリアを見ればとても華やかで洗練されカッコよく見えたものでした。

ですからなんとフランスは王女様と共に文化も一緒に”輸入”したのです。

バレエは単に娯楽としてではなくてフランスの宮廷文化を華やかにそして政治的に権威づけるための礼儀作法のエッセンスとして取り入れられました。

フランスにやって来たバレエは宮廷の権威付けの為に豪華絢爛な演出で宮廷で上演されていたのですが、17世紀になりましてバレエが発展するきっかけとしてとても世界史的に有名人と出会うのです。

それはまた後ほど・・・(つづく)。















アレンジ?

2007-09-18 00:54:15 | Weblog
天津飯ってありますよね。

ご飯に、かに玉をのっけたやつ。

わたくし、天津飯が大好物なんです。

天津飯って言うくらいですから中国の都市・天津で生まれたものと長い間思ってました。

「将来、中国を旅することがあれは是非とも本場の天津飯を食べたいものだ。」と長い間思っていました。

でも知ってしまったのです・・・、実は天津飯は日本で生まれた和製中華料理である! と、言うことを。

詳しく調べてみますと・・・・、「本来は、昭和の物資不足の時代に、中国天津産の良質米である「小站米」(シャオチャンミー xiǎozhānmǐ)をわざわざ使った、蟹肉入り卵焼き乗せ丼という意味で、「天津芙蓉蟹肉飯」という料理名であったのが、間の読みづらい「芙蓉蟹肉」がいつの間にか略されて「天津飯」となったと考えられる。小站米は日本から持ち込まれて栽培された短粒種で、小粒で、ぱさつかず、粘りがあるということから名付けられた(?)。小站米は天津市津南区小站鎮でつくられているため、中国では「小站稲」と呼ばれている。

中国に、卵料理としての「芙蓉蟹(肉)」(蟹玉)はあるが、これをご飯に載せた料理も、「天津飯」という名の料理も存在しない」と、言うことがわかりました。


いや~、些細なことと思いながらも長い間思い違いをしていたと思うとなにやらびっくり。

天津に行って天津飯を頼んでも天津飯は出てこないのか・・・

あれこれ調べていますと、色々中華料理のトリビアが分かりました。

例えば北京ダック。

北京ダックは昔々、南京から北京に伝わったとか。

料理にも歴史があるのですねぇ。















興味津々

2007-09-17 23:44:47 | Weblog
先に中国語は中国人の食に対しての情熱からか、調理方法に関する語彙がとても豊富と書きました。

では、他の国はどうなんでしょうかね~?

では中国のお隣のモンゴル。

モンゴル民族は、中国の漢民族が畑作や稲作を営んでいたのと違い、馬に乗って家畜を遊牧させて生活していました。

生活を家畜に依存していますので当然家畜にたいしての関心の度合いがとても高いみたいです。

家畜の中でも馬に対して最も高い関心を示しているみたいです。
ヤギや羊より馬に関する語彙が豊富なのです。

ではいくつか挙げてみましょう。

馬の総称はモリですが、アズラガ(種馬)・アドー(去勢馬、または馬群)・グー(雌馬)などと性別によって呼び分けられています。
仔馬はオナガで、さらに年齢によって細かくダーガ(2歳)・シュドレン(3歳)・ヒャザーラン(4歳)・ソヨーロン(5歳)・イフナス(6歳以上)などの名称があります。
全部で37通りほどあるらしいです。

すごいですね~、モンゴル人の馬に対する思い入れがわかりますね。

じゃ~日本人は他民族にくらべて何に関心が高いのかな?

やっぱり海に囲まれてるし、歴史的に肉食が敬遠されてたので魚にたいしての思い入れは世界でもトップクラスと思いますね。

魚偏にいろんな文字を引っ付けて種類別に固有名詞をマメにつけてますよね。

よくお寿司屋さんに置いてある魚の名前がびっしり書いてあるお湯のみを思い出しますよ。

英語では、秋刀魚も鯖も鰯もひっくるめてブルーフィッシュであると聞いたことがあります。

イギリス人にしてみれば「似たよ~なもんじゃん。」って言うことなんでしょうかね。




人口に膾炙(かいしゃ)す。

2007-09-17 03:09:34 | Weblog
安倍さんがいきなり総理大臣を投げ出しちゃいましたね~。
いろんな事情があったのでしょうがね・・・。

安倍さんは首相就任前と直後はたいへんな人気者でしたが・・・。

まさに、「人口に膾炙(かいしゃ)す。」状態でしたね。
このことわざの意味は、「魚のなますと魚のあぶり肉は、だれの口にもうまいので、人々から喜ばれる。世の人々に、口々にもてはやされる。」と言うものです。

食べ物に関係することわざが中国には沢山あるみたいです。
これは、中国人が食に対してとても関心が高いからかな~?
それはどうかわかりませんが日本語に比べて中国語には調理方法に関しての語彙がとても豊富にあります。

火の強弱、汁の多少、油の扱い方など、細部にわたってさまざまに分類されています。

加熱方法 【火工 huǒ gōng】

炒 chǎo 強火で炒める
爆 bào 強火ですばやく炒める
煎 jiān 少量の油で焼き目をつける
烤 kǎo 直火であぶり焼く
炸 zhá 大量の油で揚げる
煮 zhǔ スープで煮込む
烧 shāo 水分がなくなるまで煮込む
蒸 zheng 蒸す
炖 dùn 長時間煮込む
煨 wēi とろ火で煮込む
焖 mèn 揚げてから煮込む
烩 huì 煮込みのあんかけ
清炒 qīng chǎo 塩味で炒める
干烧 gānshāo 揚げてから辛みそで煮る
红烧 hóngshāo 砂糖醤油で煮る
拔丝 básī 揚げてからあめをからませる
宫保 gōngbǎo 揚げてから辛いあんをかける
油爆 yóu bào 油で炒め揚げる
油淋 yóu lín 仕上げに油をかける
干炸 gān zhá 小麦粉をまぶして揚げる
软炸 ruǎnzhá 卵をからめて揚げる
清蒸 qīngzhēng 塩味で蒸す
冻 dòng ゼラチンで冷やして固める
醉 zuì 紹興酒に漬け込む

切り方 【刀工 dāo gōng】

片 piàn 薄切り
丝 sī 千切り
条 tiáo 拍子切り
段 duàn 輪切り
块 kuài ぶつ切り
末 mò みじん切り
丁 dīng さいの目切り
龙 lóng 蛇腹切り
花 huā 飾り切り
泥 ní おろし
丸 wán 団子状
全 quán 丸ごと

なんて沢山あるんだ~!!





古今往来Part4

2007-08-27 23:44:31 | Weblog
モンゴルから他国に伝わった食文化はわかったので、他国からモンゴルに伝わった食文化は無いのかと言う質問がありましたので調べてみました。

しかし・・・、よくわかりませんでした。

しかし、・・・モンゴルではお茶の栽培は出来ないのに現在では非常に喫茶の文化が定着しています。

モンゴル語でスーテー・ツァイ(内蒙古方言ではスーテー・チャイ)と言われる塩入りのミルクティーです。

茶樹の生育を阻むモンゴル高原において,最初に茶を飲んだ遊牧民はウイグル族で,8世紀半ば頃といわれています。

唐による周辺諸国との茶の交易によるものでありました。

中国産磚茶(煉瓦状に堅く圧縮された非発酵の緑茶)はチベット高原にも伝えられ,チベット人の間に飲茶が普及し,その風習は13世紀以降にラマ教とともにモンゴル人に伝わりました。

しかし,大多数のモンゴル遊牧民が日常的に乳茶として飲用するようになったのは,17世紀末清朝の統治下で磚茶の交易が盛んになってからである。

先に現在のモンゴルでは生肉を食べなくなったと書きました。

モンゴル人などの遊牧民族が生肉を食べるのは草原地帯では野菜が手に入りにくいので、ビタミンを摂取するために生肉を食べていたそうなのです。

近年になって茶が飲めるようになって、茶からビタミンを摂取できるようになったので、生肉を食べなくなったのではないかと思うのですがね?

古今往来Part3

2007-08-27 22:10:52 | Weblog
前回、ユッケは元々中国料理であると書きましたが・・・。

モンゴル料理であったと言う説もあります。

ヨーロッパの料理にタルタルステーキと言うモンゴル伝来の生肉料理があります。

13世紀にモンゴル軍がヨーロッパに攻め込んだ際に伝わったそうです。

このタルタルステーキがユッケにそっくりなのですよね。

タルタルと言う言葉はヨーロッパにおいて、遠く東方に住む遊牧騎馬民族のことを指しました。

語源も諸説ありまして、ギリシャ神話の「タルタロス(奈落の底の意味)」とか、古テュルク語の「タタル」であると言われています。

モンゴル人をはじめ遊牧騎馬民族はその素晴らしい機動力を活かして西は東ヨーロッパから東は朝鮮半島の東北部まで活動していました。

モンゴル人をはじめとする遊牧騎馬民族にあった生肉食文化の西に伝わったのがタルタルステーキであり、東に伝わったのがユッケであると言うのです。

しかしながら、現在のモンゴルでは生肉を食べる文化が無いそうです。

いつの間に無くなったのだろう・・・?








古今往来Part2

2007-08-25 01:04:39 | Weblog
前回、韓国料理のユッケは、元々中国料理であったと書きました。

ユッケは漢字では肉膾と書き、韓国語では「ユッ」「フェ」という2文字が連音化(リエゾン)してユッケと呼ばれます。

膾(なます)とは肉の刺身のことです。

まさにユッケは、肉の膾ですね。

ではなんでユッケは中国料理だったと解るのでしょうか?

現在の中国では生ものは食べる習慣は無いのにもかかわらず。

その上、冷たい飲み物も飲みません。

実はむかし、中国料理にユッケがあった証拠は文学にあります。

有名な中国のことわざに「羮(あつもり)に懲りて膾を吹く」と言うのがありますよね。

ちなみに羮(あつもり)とは熱いスープのことです。

この「羮に懲りて膾を吹く」と言うことわざは、古代中国の春秋戦国時代、楚の国の王族で詩人である屈原(くつげん)の詩の中に登場するのです。

ですから古代中国では膾、すなわちユッケを食べていたのです。

ちなみに屈原の詩は詩集「楚辞(そじ)」に収められています。

ではなぜ現在の中国人はとても美味しいユッケなどの生ものを食べなくなってしまったのでしょうか。

中国は春秋戦国時代の後に秦の始皇帝によって統一されます。

しかし、その後も何度も分裂と統一を繰り返しその度に大混乱しました。

その上、北方の騎馬民族まで攻めてきました。

中国の民衆は社会が混乱するので食べ物と安全を求めて国中を放浪せねばなりませんでした。

不安定な生活が長く続いた中国人は衛生管理のために食べ物には必ず火を通すようになりました。

そのために中国料理には生ものを食べる文化が無くなってしまったのです。

中国が誇る憂国詩人の屈原も食べたであろうユッケを現在では外国人の韓国人と日本人が食べているのですね。

中国大陸にくらべて朝鮮半島や日本列島のほうが社会が安定していたのでしょうかね。











古今往来

2007-08-24 00:53:49 | Weblog
前回、北宋の政治家・詩人である蘇軾(そしょく)が東坡肉(トンポウロー)を考案したと言いました。

もう少し詳しく東披肉(トンポウロー)の誕生について説明しますと・・・。

北宋の高級官僚であった蘇軾ですが当時の政策論争に破れてしまい黄州(現在の湖北省武漢市あたり)の地方官として左遷されてしまいます。

この黄州の地の丘の東に住んだので東坡(とうば)と言う雅号を用いたので蘇東披(そとうば)とも呼ばれています。

黄州は豚肉が名産だったそうです。

蘇軾はこの豚肉を美味しく食べようとして工夫したとも、または煮豚をうっかり煮すぎてしまって偶然に東坡肉ができたとも言われます。

もちろん彼の雅号である東披から命名されました。

この度の飲み会では色々な物を食べたのですが、現在では韓国料理である生肉の刺身であるユッケをいただきました。

現在ではユッケは韓国料理といいましたが過去では韓国料理ではなかったのかと言いますと、実は元々中国料理だったのです。

このお話は次回に・・・。