歴史好き・キゴウ君のひとりごと

主に日々の暮らしで感じたことなどを歴史的なことを交えてひとりごとりたいと思います。

スイス傭兵部隊 part7  「気合」が「悲哀」に・・・

2006-12-11 22:48:11 | Weblog
1792年に起きたフランス大革命は世界史では、有名な出来事です。
”革命”とは、華やかでカッコ良いイメージがありますが、其の影には権力争いと謀略渦巻く、エゲツ無い事も沢山ありました。
この革命によって、近代的なすばらしい思想やシステムが生まれましたが、悲劇も沢山起きました。
スイス傭兵部隊も大変な目に合います。
この時期から、スイス傭兵部隊の「気合」は、どこか「悲哀」に代わって行きます・・・。

フランス革命が進むにつれて、国王と革命急進派は対立を深めてついには、革命急進派は国王が住むテュイルリー宮殿を襲撃します。
国王夫妻は、さっさと逃げたのですが、テュイルリー宮殿を守るスイス傭兵“近衛”隊は、最後の一兵まで全滅するまで、戦い抜いたのです。
戦死した、スイス人兵士の数は600人以上とも、1,000人以上とも言われています。
この戦いの10日後、フランス革命政府は、40,000人に及ぶスイス傭兵部隊贅全員を解雇してしまうのです。
ここに、300年近くフランス軍の中核をなしたスイス傭兵部隊はフランスから一度姿を消したのです。
スイス傭兵部隊は頑張ったのですが、失業したわけです。

苦労は続きます。
今度は、フランス革命政府は小さな隣国スイスを軍事的に占領して、利用し易い様にいきなり革命政権と似た傀儡政権を作るのです。
そして、スイス傭兵部隊の提供を強制したのです。
しかし、いきなり押し付けられた新しい政権(形だけはカッコ良い共和制)がうまく行く訳がなくて、2年もしないうちにクーデターの連発で全くうまく治まりません。

そのころ、フランスではナポレオンが権力をにぎっていました。
軍事的な才能に恵まれたこの“チビ伍長”とあだ名される男は、一度スイスからフランス軍を撤退させます。
そして、ムチャクチャ政情が不安定になったところに、“良き調停者”として現れ、以前の権力者たちに権力を返す見返りに、自分に都合の良い同盟を結ぶのです。
そして、スイス傭兵部隊をナポレオン軍に完全に組み込んだのです。
この関係はナポレオンがロシアの“冬将軍”に敗れて敗走するまで続きます。

ナポレオン軍がフランスに逃げ帰る途中に、べレジナ川(ドニエプル川の支流)に差し掛かりました。
小さな橋をフランス軍が先を争って渡ろうとしました。
追撃するロシア軍は「あっ」と言う間に追いついて攻撃をします。
そこで、なんとスイス傭兵部隊は“殿軍(しんがり)”を命じられるのです。
すでにこの時点で初めは9000人いたスイス傭兵部隊は3000人に減っており、さらにこの戦いでわずか300人にまで減ってしまうのです。
スイス傭兵部隊の奮闘のおかげでフランス軍の一部は無事にフランスに帰りつきました。

スイス傭兵部隊は『信頼』を守ろうと、がむしゃらに頑張ったのですが、今度はナポレオン軍より形勢が良くなったオーストリアやロシアの連合軍に恨まれました。
やはりしょせん戦争は、暴力です。
やられた方は恨んで当然です。

連合国はスイスに攻めてきました。
スイスは中立を宣言して抵抗しませんでした。
おかげで、スイスで戦闘は起きませんでしたが、大変な徴発を受けました。

今度は、ナポレオンを倒した連合国とブルボン王朝が造った”ウィーン体制”が、スイス傭兵部隊を利用しようとします。

スイスとスイス傭兵部隊は、まるで荒波に翻弄される小船のように世界史上を漂流します・・・。