歴史好き・キゴウ君のひとりごと

主に日々の暮らしで感じたことなどを歴史的なことを交えてひとりごとりたいと思います。

スイス傭兵部隊 part6  ”イジメ”問題

2006-12-10 00:09:03 | Weblog
前回、1474年当時のヨーロッパの様子をひとりごとりさせていただきました。

この年、1474年に始まった「ブルゴーニュ戦争」こそが、スイス傭兵部隊の「気合」を見せつけ、歴史の表舞台に立たせたのです。
「気合」の見せつけ方はすごいシンプルです。
スイス傭兵部隊が、華々しい勝利の連続でブルゴーニュ公国に勝ったからです。

でもなんで、ブルゴーニュ公国とスイス傭兵部隊が戦争しなくちゃならなかったのか?

その訳はですね~。

皆さん、ハプスブルグ家って知ってます?
このハプスブルグ家は、第一次世界大戦が終わる1918年まで、約700年間以上、今のオーストリアのウィーンを中心に、大帝国を支配していた”お家”です。
前回登場した皇帝フリードリッヒ三世は、ハプスブルグ家の出身です。

パプスブルグ家は11世紀頃は、今で言うスイスの都市である、バーゼルとチューリッヒの真ん中辺りに住み着いていた、本当に小さな豪族だったのです。
ですが、なかなかの権勢欲のある”お家”でした。
器用にも、政略結婚で着々と勢力を北や東に拡大して行き、15世紀後半には、今のウィーンを本拠地にする、大勢力に成長していました。

ハプスブルグ家は南ドイツやオーストリアに大きな領土を持っていても、やはり”先祖伝来の土地”に対してのこだわりがあるみたいでして、スイス地方に攻めて来たのです。
スイス地方の町や村は「バラバラのままでは、やられてしまう!! みんなで団結して闘うんだ!!」と言うことで、傭兵部隊もまとめて対抗しました。
そして、度々攻めてくるハプスブルグ軍を撃退し続けたのです。
そのうち勢いがついてきて、ハプスブルグ家に、「イジメにはもう負けない!!この恨み、はらさずおくべきか~」と賠償金を要求するために反撃をくらわしたのです。

発祥の地から追い出し、逆に攻め込みました。
このまま、深く領内に攻めて来られる事を恐れたハプスブルグ家はなんと、スイス傭兵部隊が攻めようとしていた地方をブルゴーニュ公国の欲深かで、お調子者で有名だったシャルル大胆公に売ってしまったのです!!
そんなワケありの土地を買うのですから凄いですよね~。

欲深かで、お調子者のシャルル大胆公は、「田舎モンのスイス傭兵部隊なんかに負けるワケ無いっしょ!!かかってこいや~!!」と、思いっきりなめてました。
ハプスブルグ家に代わって、敵対を始めたシャルル大胆公に、スイス傭兵部隊は戦いを挑みました。
「もう、イジメられっぱなしはイヤだ!! コンニャロ~!!」

もちろんシャルル大胆公も、「ちっぽけなスイス傭兵部隊に負けるかよ!!」と、スイス傭兵部隊の挑戦を受けて立ちます。
こうして「ブルゴーニュ戦争」がはじまるのです。
財政的に豊かなブルゴーニュ公国ですから、スイス傭兵部隊よりも多い人数の傭兵を雇うことができました。
数に劣るスイス傭兵部隊ですが、「気合」が違います。
連勝につぐ連勝!!
戦争がはじまって3年後の1477年には「ナンシーの戦い」で、シャルル大胆公を戦死させての大勝利をしたのです。

シャルル大胆公にはハプスブルグ家に嫁いだ一人娘しかおらず、跡取り息子がいなかったので、ブルゴーニュ公国はあっさり解体されてしまいます。

スイス傭兵部隊にとって「ブルゴーニュ戦争」は防衛戦争でありましたし、下手に多くの領土を得てしまうと、スイス傭兵部隊同士で土地争いが起きる恐れがあったので、控えめに少しの領土しか占領しませんでした。

残りの領土は、まるでハイエナのように、ヴァロア家とハプスブルグ家が、占領しました。
「ブルゴーニュ戦争」に連戦連勝の大勝利したスイス傭兵部隊は、やんややんやの大喝采を受けます。
「スッゲェー、めっちゃ強いじゃん!! ウチで働いて欲しい!!」
こうして、スイス傭兵部隊は、歴史の表舞台にあらわれたのです。

各地の王侯から「ひっぱりダコ」となりますが、相変わらずハプスブルグ家とは仲が悪かったので、対抗するためにも、主にフランスのヴァロア家と傭兵契約を結びました。
後にフランスの王朝がブルボン家に代わっても、傭兵契約を結び続けました。
其の長さは、フランス革命が原因で傭兵契約を打ち切られるまで、300年近く続いたのです。

そしてフランス革命の最中に、スイス傭兵部隊の「気合」を最も表す事件が起きるのです・・・。
これマジ凄い事件ですよ!!