歴史好き・キゴウ君のひとりごと

主に日々の暮らしで感じたことなどを歴史的なことを交えてひとりごとりたいと思います。

スイス傭兵部隊 part4  気合だ~!!

2006-12-04 23:38:20 | Weblog
前回、スイス人傭兵達は、「スイス傭兵部隊」の『信用』を守るために如何に「気合」を入れていたかのエピソードを紹介します、と言いましたね。

では、まずはじめに・・・・、スイス傭兵部隊の評判も上がってきた西暦1505年のことでした。

ときのローマ教皇は、ユリウス2世でした。
この教皇、鼻息が荒いことで有名で「戦争屋・政治屋」とあだ名される豪傑教皇でした。

そのユリウス2世が、「我がヴァティカン・ローマ教皇庁の近衛兵は精強を持って知られるスイス傭兵部隊にするのじゃ」と鶴の一声。
スイス傭兵はなんとヴァチィカン・ローマ教皇庁の近衛兵になったのです。

そして、数年後の西暦1527年ついにスイス傭兵部隊の気合の入ったエピソードの出来事が起きるのです。
この年、ヨーロッパはの政局は大荒れでスペイン・ドイツを支配するハプスブルグ家に対抗するためにローマ教皇クレメンス7世はフランスを支配するヴァロア家と同盟しました。

それに怒ったハプスブルグ家の皇帝カール5世は「この野郎~どっかの元総理大臣みたいに風見鶏のローマ教皇クレメンス7世め(ユリウス2世は1513年に死去)、いっちょ、懲らしめてやる」と、ドイツとスペインから集めた大軍でローマに攻め込んで来たのです。

もちろん当時、ドイツとスペインからやって来た兵隊達も、お金で傭(やと)われている傭兵です。
ローマにやって来て包囲する皇帝カール5世軍ですが、なんと傭兵達への賃金の支払いが滞っていたのです。
ですから皇帝軍の傭兵達は不満ブーブーです。

皇帝軍兵士である傭兵達は、「クソ寒いアルプス山脈を苦労して越えてやって来たのに、まだ全然給料をもらってねーぞ」。「そーだそーだ、早く払えってんだ」。
不満が爆発した皇帝軍の傭兵達は「そうだローマには金があるはずだ金だローマには金があるぞ~」と叫び始めたのです。
こ~なったら収拾はつきませんよね~。

しかたがなく、皇帝軍総司令官ブルボン公は皇帝軍にローマ総攻撃の命令を出すのですが、そのブルボン公、なんと最初の攻撃で流れ弾にあたり、あっさりと戦死しちゃうのです。
総司令官を失った皇帝軍はやりたい放題しました。
なんと八日間に渡って略奪の限りをつくしたのです(普通、当時略奪は三日程が慣例でした)。
これが悪名高い「ローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ)」です。
おかげでローマは滅茶苦茶。ひどい被害をうけました。

ヴァティカン・ローマ教皇庁の主 クレメンス7世はサン=タンジェロ城に逃げ込むも、ドンくさいことにあっさり捕虜になってしまいます。

そんなだらしない雇い主と違って「スイス近衛兵」は逃げずに奮闘しました。
なんと二万の皇帝軍に対してわずか189人で応戦したのです
そして戦死者は近衛兵全員の4/5にあたる、147人にのぼりました・・・。

この奮闘の名誉に対する恩返しなのでしょうか・・・。スイスでは1874年に憲法改正で傭兵の輸出禁止が決まりさらに、1927年にはスイス国民の外国軍への参加が禁止されて完全にスイスの傭兵の歴史は幕をとじました。
しかし、にもかかわらず21世紀の今、現在も、中世以来の伝統を誇るヴァティカン市国の「スイス近衛兵」は唯一の例外として認められているのです。

とりあえず一服 まだまだ続きますよ~