5回あったペテロ書の講座は、
今日最後の1回だけ、
参加する事が出来た。
教会の牧師や指導者についてどう考え、
自分達の教会のあり方を模索している時なので
学ぶ事がたくさんあった。
教派によって教会観や組織運営のノウハウが
様々ある中で、
自分達メノナイトではどう考えるのか。
自分達は指導者をどう考え、
群れのあり方をどう考え、
教会そのものをどう考えていくか。
隣の十勝地区で奉仕している伝道師が
私達のために講師として
わざわざ月1回足を運び続けてくれた。
礼拝後の午後から集まるので
疲れていたり
仕事や所用で時間が取れなかったり
いろいろな障害もあったけど
参加した教会の仲間達は皆
とっても楽しみにしていたであるよ。
(何でこんなに勉強大好きなの我々メノナイトは。www)
いや、
実はそれだけ収穫が多くて
事実、楽しかったのだと思う。
私も第1回から参加したかったであるよ。
今回学んだ感想をちょっとだけ。
メノナイトでは
教会のあり方を聖書にある初代教会に習いたいと考える。
もちろん聖書の一字一句を字義通り鵜呑みにするとか
ファンダメンタルという意味ではないよ。
聖書を深く学んで
初代教会がどんな教会運営をしていたか、
キリストにある交わりとして相応しいあり方を追い求める。
奉仕は、役割分担は、リーダーシップは、
そもそも教会観は・・・と。
長い歴史の間に
教会の中に階級制に似た構図が出来たり
無教会という考え方が出来たり
その時代背景や文化や集まった人々の特性によって
教会はそのあり方が変わってきた。
本来キリストにある群れのあり方はどうあるべきか。
では、
私達のメノナイト教会は?
今回講座に参加して"おっ・!σ('O')"と思ったのは、
初代教会のあり方を見ると、
長老、使徒、預言者、福音宣教者、教師、監督者、執事など
役割分担をしているが
いずれの奉仕者も全員共通してしている奉仕がある。
各自がそれぞれの立場で自分の役割を担いながら
共通してしていた奉仕がある。
それは福音を語るという事。
現代の私達の教会に当てはめて言えば
牧師先生は日曜日に講壇で福音を語る。
教会学校の先生してる教会員も
会計係してる教会員も
教会の運営委員も
食事を作ってくれる教会員も
入り口の受付係の教会員も
どんな役割をしている教会員も
日曜日に講壇で福音を語る。
そのために
お互いに励まし合い
お互いのために日々祈る。
例えば
皆の食事を作ってる人が
食事を作る人の立場で福音を語ってもいいのだ。
いや語るべきなのだ。
福音宣教について
より柔軟に考える事が必要だ。
キリストのものとなった者は誰でも
福音を語るべきである。
礼拝のメッセージは
牧師でなくても
信仰を告白し洗礼を受けた教会員なら
誰もがすべき奉仕である。
私達の教会で
牧師でない教会員も
礼拝メッセージの奉仕を分担する根拠がここにある。
つまり
私達メノナイトの礼拝メッセージは牧師だけの仕事ではない。
牧師には牧師にしか出来ない役割と仕事があるが
礼拝メッセージは牧師だけでなく
教会員の誰もがする奉仕である。
この考え方にあっては
教会を運営する上で生じる面倒な事、難しい事、
言い換えれば
”重荷”を牧師・指導者という特定の人間だけに負わせ、
教会員は日曜日に教会に行くだけという構図は
少なくとも無くなる。
しかし現実には
教会員は仕事や子育てや介護をしながら
日曜日の一日を教会の奉仕に捧げているので
皆、しんどい。
常に病気や仕事や家族の事で悩み
問題を抱えながら教会の奉仕も担っている。
不況の過疎地にある教会ならなおの事、
集まるだけでも精一杯、
出来れば日曜日は教会に行ったとしても
疲れる奉仕をするよりも
心身の疲れが消されるような祈りと賛美歌と
牧師先生の説教で癒されて帰宅したい。
面倒な事は牧師先生が全部してくれて
自分は行って励まされて帰って来るだけだったら
どんなに楽である事か。
私達の身勝手な甘えがここにある。
もし、
牧師或いは特定のリーダー一人にだけ
重荷と責任が集中するとどうなるか。
皆、
都合のいい理想像を思い描き作り上げて
自分に都合のいい要求をしたくなる。
面倒な事は全部牧師に負わせる。
もっと親身に身の上話を聞いてカウンセリングをして貰いたい、
もっと家庭訪問を増やして家族伝道して貰いたい、
もっと感動出来るような説教をして貰いたい、
もっと聖書の勉強会を熱入れてやって貰いたい、
もっと他教派と仲良くやって地域伝道に力を入れて貰いたい、
もっと町内会と仲良くやって地域伝道に力を入れて貰いたい、
もっと教会員と親身に話をして貰いたい、
もっと会堂の建物の管理をうまくやって貰いたい、
もっと教会の経済をうまくやりくりして貰いたい・・・
して貰いたい事ばかりだな。
この上さらに
清廉潔白で人格円満で歌が上手くて語学が堪能な人物である事・・・。
本人のみならず
奥さんは控えめで上品で質素倹約やりくり上手で
身なりが清楚で優しくてピアノやオルガンが上手で
料理上手で菓子作りが上手で
植物の手入れも上手でいけばなのセンスもあって
気配りの効く良妻賢母であって貰いたい・・・等々。
そして
何か一つでも意に添わなかったり上手くいかなければ
あれがイヤだこれが気に食わないと
教会から離れたり去ったり
何でも牧師の責任にして
協力の為の力も貸さずに孤軍奮闘の悪循環に陥らせ
一家共々批判と陰口中傷の集中砲火を浴びせ
人間不信の泥沼に沈める。
或いは
逆に独裁的ワンマンの中小企業の社長状態へと
陥るか。
残酷物語だな。
何だか
書いててやんなってきたであるよ。
牧師足りないはずだわ。
足りなくて当然。
皆の期待に応えられるような理想的な牧師なんているか?
でもこれは誇張ではなく
実際にあちこちにある現実。
教会を内側から腐食させる病気。
今日の講座を通して学んだ考え方だと
このような悪循環やメカニズムの狂いは
少なくとも避けられるのではないかと思う。
礼拝のメッセージを
信仰を告白し
洗礼を受けた教会員の誰もがメッセージ奉仕をするとなると
各々自分の役割を担いながら礼拝のメッセージも
担っていく事になる。
当然、
日々の自分の信仰を振り返り
聖書を読み直し、
何度も言葉を吟味しなければならないので
しんどい。
神学とか説教学とか専門教育を受けた訳でないから
聖書の一字一句に詳しい解説を出来はしないし
大体大勢の人々の前で喋ること自体上手く出来ない。
仕事や家事など日常の忙しい合間に
時間を工面して奉仕の準備をするのでしんどい。
そのしんどいところを
お互いに祈って励まし合って
教会の結束は固くなる。
少子高齢化とか過疎地だとかで牧師が少ない中、
自分達が教会をどうやって支えていくか
もっと時間と手間隙を注いで皆で話し合いたいな。
質問も意見もたくさん、活発に出たであるよ。
伝道師Kさん、お疲れ様でした。
半年間ありがとう。
皆楽しかったって。
牧師先生も
毎月の講座が終わっちゃって寂しいって。
よっしゃ次いこうよ次!
今日最後の1回だけ、
参加する事が出来た。
教会の牧師や指導者についてどう考え、
自分達の教会のあり方を模索している時なので
学ぶ事がたくさんあった。
教派によって教会観や組織運営のノウハウが
様々ある中で、
自分達メノナイトではどう考えるのか。
自分達は指導者をどう考え、
群れのあり方をどう考え、
教会そのものをどう考えていくか。
隣の十勝地区で奉仕している伝道師が
私達のために講師として
わざわざ月1回足を運び続けてくれた。
礼拝後の午後から集まるので
疲れていたり
仕事や所用で時間が取れなかったり
いろいろな障害もあったけど
参加した教会の仲間達は皆
とっても楽しみにしていたであるよ。
(何でこんなに勉強大好きなの我々メノナイトは。www)
いや、
実はそれだけ収穫が多くて
事実、楽しかったのだと思う。
私も第1回から参加したかったであるよ。
今回学んだ感想をちょっとだけ。
メノナイトでは
教会のあり方を聖書にある初代教会に習いたいと考える。
もちろん聖書の一字一句を字義通り鵜呑みにするとか
ファンダメンタルという意味ではないよ。
聖書を深く学んで
初代教会がどんな教会運営をしていたか、
キリストにある交わりとして相応しいあり方を追い求める。
奉仕は、役割分担は、リーダーシップは、
そもそも教会観は・・・と。
長い歴史の間に
教会の中に階級制に似た構図が出来たり
無教会という考え方が出来たり
その時代背景や文化や集まった人々の特性によって
教会はそのあり方が変わってきた。
本来キリストにある群れのあり方はどうあるべきか。
では、
私達のメノナイト教会は?
今回講座に参加して"おっ・!σ('O')"と思ったのは、
初代教会のあり方を見ると、
長老、使徒、預言者、福音宣教者、教師、監督者、執事など
役割分担をしているが
いずれの奉仕者も全員共通してしている奉仕がある。
各自がそれぞれの立場で自分の役割を担いながら
共通してしていた奉仕がある。
それは福音を語るという事。
現代の私達の教会に当てはめて言えば
牧師先生は日曜日に講壇で福音を語る。
教会学校の先生してる教会員も
会計係してる教会員も
教会の運営委員も
食事を作ってくれる教会員も
入り口の受付係の教会員も
どんな役割をしている教会員も
日曜日に講壇で福音を語る。
そのために
お互いに励まし合い
お互いのために日々祈る。
例えば
皆の食事を作ってる人が
食事を作る人の立場で福音を語ってもいいのだ。
いや語るべきなのだ。
福音宣教について
より柔軟に考える事が必要だ。
キリストのものとなった者は誰でも
福音を語るべきである。
礼拝のメッセージは
牧師でなくても
信仰を告白し洗礼を受けた教会員なら
誰もがすべき奉仕である。
私達の教会で
牧師でない教会員も
礼拝メッセージの奉仕を分担する根拠がここにある。
つまり
私達メノナイトの礼拝メッセージは牧師だけの仕事ではない。
牧師には牧師にしか出来ない役割と仕事があるが
礼拝メッセージは牧師だけでなく
教会員の誰もがする奉仕である。
この考え方にあっては
教会を運営する上で生じる面倒な事、難しい事、
言い換えれば
”重荷”を牧師・指導者という特定の人間だけに負わせ、
教会員は日曜日に教会に行くだけという構図は
少なくとも無くなる。
しかし現実には
教会員は仕事や子育てや介護をしながら
日曜日の一日を教会の奉仕に捧げているので
皆、しんどい。
常に病気や仕事や家族の事で悩み
問題を抱えながら教会の奉仕も担っている。
不況の過疎地にある教会ならなおの事、
集まるだけでも精一杯、
出来れば日曜日は教会に行ったとしても
疲れる奉仕をするよりも
心身の疲れが消されるような祈りと賛美歌と
牧師先生の説教で癒されて帰宅したい。
面倒な事は牧師先生が全部してくれて
自分は行って励まされて帰って来るだけだったら
どんなに楽である事か。
私達の身勝手な甘えがここにある。
もし、
牧師或いは特定のリーダー一人にだけ
重荷と責任が集中するとどうなるか。
皆、
都合のいい理想像を思い描き作り上げて
自分に都合のいい要求をしたくなる。
面倒な事は全部牧師に負わせる。
もっと親身に身の上話を聞いてカウンセリングをして貰いたい、
もっと家庭訪問を増やして家族伝道して貰いたい、
もっと感動出来るような説教をして貰いたい、
もっと聖書の勉強会を熱入れてやって貰いたい、
もっと他教派と仲良くやって地域伝道に力を入れて貰いたい、
もっと町内会と仲良くやって地域伝道に力を入れて貰いたい、
もっと教会員と親身に話をして貰いたい、
もっと会堂の建物の管理をうまくやって貰いたい、
もっと教会の経済をうまくやりくりして貰いたい・・・
して貰いたい事ばかりだな。
この上さらに
清廉潔白で人格円満で歌が上手くて語学が堪能な人物である事・・・。
本人のみならず
奥さんは控えめで上品で質素倹約やりくり上手で
身なりが清楚で優しくてピアノやオルガンが上手で
料理上手で菓子作りが上手で
植物の手入れも上手でいけばなのセンスもあって
気配りの効く良妻賢母であって貰いたい・・・等々。
そして
何か一つでも意に添わなかったり上手くいかなければ
あれがイヤだこれが気に食わないと
教会から離れたり去ったり
何でも牧師の責任にして
協力の為の力も貸さずに孤軍奮闘の悪循環に陥らせ
一家共々批判と陰口中傷の集中砲火を浴びせ
人間不信の泥沼に沈める。
或いは
逆に独裁的ワンマンの中小企業の社長状態へと
陥るか。
残酷物語だな。
何だか
書いててやんなってきたであるよ。
牧師足りないはずだわ。
足りなくて当然。
皆の期待に応えられるような理想的な牧師なんているか?
でもこれは誇張ではなく
実際にあちこちにある現実。
教会を内側から腐食させる病気。
今日の講座を通して学んだ考え方だと
このような悪循環やメカニズムの狂いは
少なくとも避けられるのではないかと思う。
礼拝のメッセージを
信仰を告白し
洗礼を受けた教会員の誰もがメッセージ奉仕をするとなると
各々自分の役割を担いながら礼拝のメッセージも
担っていく事になる。
当然、
日々の自分の信仰を振り返り
聖書を読み直し、
何度も言葉を吟味しなければならないので
しんどい。
神学とか説教学とか専門教育を受けた訳でないから
聖書の一字一句に詳しい解説を出来はしないし
大体大勢の人々の前で喋ること自体上手く出来ない。
仕事や家事など日常の忙しい合間に
時間を工面して奉仕の準備をするのでしんどい。
そのしんどいところを
お互いに祈って励まし合って
教会の結束は固くなる。
少子高齢化とか過疎地だとかで牧師が少ない中、
自分達が教会をどうやって支えていくか
もっと時間と手間隙を注いで皆で話し合いたいな。
質問も意見もたくさん、活発に出たであるよ。
伝道師Kさん、お疲れ様でした。
半年間ありがとう。
皆楽しかったって。
牧師先生も
毎月の講座が終わっちゃって寂しいって。
よっしゃ次いこうよ次!