鶴岡法斎のブログ

それでも生きてます

思い出しシリーズ

2006-10-20 05:36:18 | 雑記
オタクバブルシリーズ(?)です。
自分はまずある本でアニメの評論を書いたことが、実質のデビューなのかもしれない。
でも違うんだよな。当時(96年頃)の自分はエロ本のライターがメインの仕事。それもSMとかスカトロとかのマニア誌。そういうところで風俗店を取材したりAVのレビューを書いたりしていた。あとインタビューとか。
時間を遡れば自分はライターになるつもりが全くなかった。
父親に美大進学を否定された高校時代に自分はヤケクソになっていた。
高校の頃の自分は美術部にいて、美大に進学したかった。それでショーウィンドウとかを作る人(多分いまなら空間プロデューサーっていうの?)の仕事がしたかった。それで稼いだ金で一年に一回くらい、小さなギャラリーでいいから個展が出来たらいいなあ、と思っていた。
それが美術の大学なんか役に立たないから行くな、だった。
いろいろ抵抗したものの、結局自分は父親に逆らいきることができず、就職した。
しかし入りたくもないのに入った職場が続くわけないんだな。
まずアルコール依存になった(この話もいつかちゃんと書きます。自分にケリをつけるために)。就職して一年目、それでも酒の力なんとか働いた。そして4月。自分の会社に進入社員が入らないことを知った。世はバブル崩壊である。
「また一年間、この会社で一番下っ端なのか」と。
確か当時、そう感じた。酒量が増えた。また不眠と被害妄想が酷くなって精神科に通った。結局、夏に退社することになった。
父からは「根性がないからだ」となじられた。知り合いのつてを頼って書店で働くことになった。美術書が仕事で触れるので前より少し気が楽だった。
いつか自分が何処かの売り場を担当して、本を綺麗に陳列したいなあ、という夢を描いていた。
東京に住んでからの自分の娯楽はライブハウス通いだった。ガレージロックとかオルタナティブとかそんなのが当時流行っていた(多分)。ノイズミュージックともこの頃に出会っている。
そしてあるライブハウスでSM雑誌の編集者(フリー)と出会った。話しているうちに「何か書いてみる?」といわれAVのレビューや自分の好きな挿絵画家に対するエッセイなどを書いた。かなり赤を入れられたけど。
それでその編集者の人のやっている編プロで働く決意をして本屋を辞めた。知り合いの紹介だったのでちょっと悪い気もした。そこでその紹介してくれた人にその旨を話したら、
「ああ、別に気にしなくていいよ」といってくれたので退社した。ちなみにその書店もその後いろいろな因果に巻き込まれていく。自分はその地獄がスタートするかしないかの時に退社したのでよく考えたらラッキーだったのかもしれない。
しかしラッキーと思えるのは「いまだから」であって、当時はアンラッキーそのものだった。その編プロは担当した雑誌の驚異的な返本率(二千冊売れなかったという話がある)のためいろいろあって解体。自分は退社したら、行こうと思っていた職場が消滅していたのだ。
それからはその返本率が驚異的な雑誌を営業資料とし、バイトをしながらエロ本でのライター稼業。パチンコに対しての造詣が深まったのもこの頃だ。羽根モノで何とか一日の生活費を稼ごうとしていた。
ちなみにこの頃の目標は「AV監督になる」だった。じゃあ制作会社に就職しろよ、と思うのだが、当時はテンパっていたのだろう。
断言できるが十代後半から二十代前半の自分は「美大」という目標を失った暴走機関車だった。ただ闇雲に生きている。自分の未来を否定した父親の元には戻りたくない。どんな方法を使っても東京で生きる。これだけしか考えてなかった。はっきりいって目標もプランもない人生がマトモに動くわけないんだな。
このグチャグチャの時期(記憶では93年。まだ書店員の頃)に唐沢俊一と出逢う。その一年後くらいに弟子になった(はず)。
で、唐沢人脈に加わったおかげで少し仕事も増えてきた。相変わらず失敗も多かったけど、それでもバイトの日数は減った。
95年までバイトをしていた記憶はある。オウムの麻原逮捕のニュースをバイト先の食堂で見ていることを何故かしっかり覚えているから。理由は不明。
そしてエヴァがスタート。またそのちょっと前にロフトプラスワンが出来る。
あとオタクアミーゴスも結成しているね。
自分は自身のバンドが石野卓球から絶賛されるが別に儲からなかった。
時代はオタク・サブカル祭りに突入したのだと思う。クイックジャパンとか危ない1号とかもこの頃だよ。
で、自分は相変わらずエロライター。そろそろ「AV監督にはなれないのか」とさすがに一年もやっていればうっすら気付く。
それでも仕事をしていた。
思えばこの時期にいろいろな人に出会った。もう死んでいる人も何人かいる。その死んだ人たちはみんな大往生という感じではなく唐突に病気や自分の手で死んでしまった。
で、この頃はもうアルコール依存は克服していましたが今度は別のものに依存してました(これもまた別の時に)。
そんなことよりオタク・サブカルバブルですよ。自分としてはマンガと特撮ならそこそこ知識があるから何とかなると思っていた。
ただし、ここで自分の最大の欠点が発覚する。「評論」というものを書いたことがなかったのだ。と、いうより客観的に見て自分はモノゴトを客観視できない(変な表現だな)。あるライターさんにいわれたのだが、
「鶴岡君の文章は無記名でも血文字だよね」と。
これは誉め言葉なのかなあ。
まあ評論は無理でもコラムとかエッセイなら何とかできるぞ、と思って原稿を書いた。一部では(本当に一部)評判もよかった。
自分は「しかしコラムの原稿料で生活するにはどのくらい書けばいいのだろう」と途方にくれていた。
美大に行けなかった高校生はそのまま目的意識のない、ただ実家に戻ることだけを頑なに拒否するモノカキになっていた。
そんな二十代前半の俺が評論を書くキッカケがやってきた。
あるアニメ関連のムックで自分はしようもないエッセイを書いた。編集部に原稿を渡してからしばらく、音沙汰がない。
「いつになったら出るのかな」と思い電話してみた。
「年明けには必ず」といわれた。
何が必ずなのだろう、と不思議だった。
師走。そのムックの編集から電話。「時間、ありますか」と。世は年末進行だったが自分は貧乏なのでヒマだった。「はい」と俺。
「代原、書いてください。○○さんが逃げました」と。
「わかりました」
このセリフが自分の人生を左右してしまった。編集部につくまで自分は呑気なもんだった。コラム2本くらい書けばいいのだろう、と思っていたのだ。しかし状況は違った。
「功殻機動隊の評論を書いてください」といわれたのだ。
「え、他のアニメじゃダメですか?(タイムボカンならいくらでも書けると思っていた)」
「もう広告に攻殻の評論が載るって入れちゃったんでよ」
確かこんな遣り取りがあった。細かい部分は記憶が混乱しているかもしれないけど。
自分は押井守の作品は高校の頃「まで」好きだった。つまりその当時の押井作品に対してほとんど知識がなかったのだ。
編集部に籠って功殻のビデオを見る。一回目に出た俺の言葉は自分でもいまだにちゃんと覚えている。
「誰が悪者なんだ?」と。
しかし7回目あたりから徐々に世界観なども理解しだし、資料もいろいろ読み、功殻ループが2桁に突入したあたりで原稿を書いた。
自分の初の評論だ。しかしこれもいまになって思えば凄まじくいびつで奇妙な文章だったと思う。手元にその本がないのでなんともいえないが途中から何の関係もなく夢野久作の話とかしているんだもん。
これが永瀬唯氏の目に留まり、本人から電話がかかってきたりした。永瀬さんはインテリでSFなので難しい言葉がポンポン出てくる。自分はなんのためらいもなく「それどういうものですか?」と尋ねるから業界でも長いと評判の永瀬さんの話が余計長くなるのだった。
ただ自分はこの時の永瀬体験のおかげで「難しい言葉の意味」を少しだけ覚えた。そのことはいまでも本当に感謝している。ただ未だに残念なのは「論理的な思考法」というものは結局会得できなかったことだ。多分、永瀬さんもそしてわが師も「まさかそんな思考回路の奴が文章書くわけないだろ」と思っていたのかもしれない。
いたんだよ、ここに。
美大に行けなかった憂さ晴らしに文章書いているバカが。
思えばそんな自分が本を出せたということは結局バブルだったの思う。
前のエントリでも書きましたけど、ほぼ同時期に「エヴァ現象」というものに出会い、それをルポした。
多分、自分はエヴァ的な世界観は好きではないのだろうな。そのためにそれ以降のアニメなどから距離がどんどん出来たのかも。これも今度まとめて書こう。
偶然は不可解なくらいに重なる。おかしな雑文書きのおかしな担当編集者N君(そもそもSF大会で出会ったのだから人間としては俺と同じで残念な部類だろう)から変な相談を受ける。
「知り合いが大学でマンガを教える人間を探している」と。
いわれるままに早稲田大学にいったら大学教授(当時は助教授だったかなあ)の人と話したらいろいろ盛り上がった。考えたらこの人も変わり者なんだろうね。
書類にいろいろ記入したら大学講師になった。この時、25歳。
ここから俺の存在というものは訳がわからんくらいに名前だけ響き渡って全然儲からないという奇妙な状態に突入する。
まずエロ本の編集たちが「もう大学の先生なんだから」といって仕事を回さなくなるのだ。いまだから平気で書くけど男優の仕事なくなったのってぶっちゃけ死活問題だったんだよ。日払いなんだからさあ、あれは。
いまになって早稲田の漫画史の授業もなくなったらしい(詳しいこと知らない)、静岡大学の講師も一年だけだった。
よくここまで来れたな(生き延びてきたな)、と思う。短い人生でSMパーティーから大学の内部まで(実は内容はそれほど変わっていなかった気もするが)見られたのだから面白い人生なのだろう。
でもさすがに20代後半になってやっと「美大に行けなかった病」も大人しくなり、自分はある人との出会いから目的意識をやっとのことで手に入れるのだ。(続く)

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