goo blog サービス終了のお知らせ 

遠山を望むが如く

しんちゃんの雑録

エスカレーターを歩いてはいけないのか

2024-01-02 16:09:35 | 日記
最近,エスカレーターの歩行禁止が喧伝されている。
罰則はないが,条例化されている地域も出てきた。
これまで何十年も「お急ぎの方のために,片側をお空けください」とアナウンスされていたのに,真逆である。
ゆえに,片側を空けたまま一列でエスカレーターに乗る人が多く,輸送効率がきわめて悪いのが目につく。
空いていると習慣で歩かざるを得ないが,まれに「歩くな」と言わんばかりに真ん中あるいは空いている側にでんと立つ人がいて,まるで「逆あおり運転」のような場面に遭遇する。

エスカレーターを歩いてはいけないのか?
なぜ,エスカレーターを歩いてしまうのか?

歩くのはエスカレーターが低速だからという記事をよく見かけるが,歩くのと立ち止まるのとどれだけ違うのか,自分の足で検証してみた。

場所は自宅の最寄りの駅の入口にある,62段の階段に併設されている上下エスカレーターである。
階段は16段,16段,15段,15段で3箇所の踊り場があり,比較的上りやすい。
私のBMIは21でやや痩せ型,マラソンを毎年完走できる体力があり,62段程度の階段で息切れすることはなく,歩くスピードも人より速いと感じている。
体力差は人によってそれぞれなので,本データが参考になれば幸いである。

検証は,エスカレーターと階段を昇降したときの時間をそれぞれ3回測って平均値を求めた。
できるだけ同じタイミングやリズムで足を進めるよう努めたところ,いずれの条件でも3回測定の時間差は1秒以内であった。
なお,検証は電車の来ない時間帯を選び,通行人の邪魔にならないように行った。

まずは上りである。
以下に示す数値は,3回測定の平均値 ± 標準偏差で,単位は秒である。

  エスカレーター立ち止まり 43.5 ± 0.3 (秒)
  エスカレーター歩き    18.4 ± 0.4 (秒)
  階段1段ずつ       35.4 ± 0.5 (秒)
  階段1段飛ばし      23.5 ± 0.3 (秒)

エスカレーターで上るだけで45秒近くかかっている。
意外にも,階段を普通に上る方が10秒近くも短かった。
階段の段差はそれほど高くないため,1段飛ばしでも苦にならないほどだが,それだとエスカレーターのほぼ半分の時間で上ることができた。
しかし,エスカレーターの段差は階段より高いためか,エスカレーターを歩くのが最も速く上ることができた。
(エスカレーターの1段飛ばしは,かなり無理があるため行っていない)

この駅では上り切ってから改札までにいくらか距離があり,さらにホームへ到達するまでにも時間がかかるため,特に朝の急いでいるときは1分1秒が大切であり,エスカレーターを歩く人は多い。
もっと早く家を出ればよいとか,電車を1本遅らせばよいとか思われるかもしれないが,朝にそんな余裕がある人はどれだけいるだろうか。

続いて,下り。
階段下りの1段飛ばしは危険なので行っていない。

  エスカレーター立ち止まり  43.4 ± 0.1 (秒)
  エスカレーター歩き     14.4 ± 0.3 (秒)
  階段1段ずつ        23.6 ± 0.4 (秒)

エスカレーターは上りも下りも時間は変わらない。
下りは上りより速く歩けるので,歩く動作が入ると,上りよりも時間はかからなかった。
下りでもエスカレーターを歩くのが最も速く,立ち止まるより3分の1の時間しかかからなかった。

なぜ,エスカレーターを歩いてしまうのか?
それは,やはりエスカレーターを歩くのが最も速く移動できるからである。

では,どうすればエスカレーターを歩かずにすむのか?
それは,階段を使う方が速く移動できるようにすればよいだろう。

エスカレーターに人が流れるのは,上り下りの向きがはっきりしているからである。
階段では,電車が到着するたびに人の波ができ,階段の幅いっぱいに広がるため,その波に逆らうことが困難となる。
まして,大きな荷物を持っているときはなおさらである。
エスカレーターを利用する(歩く)方が,確実に移動できるのである。

階段も,上り下りの向きをはっきりさせればよい。
しかし,大きな駅では手すりの設置やレーンの色分け等で区分されているものの,それを守らない人も多い。
エスカレーターのように,物理的に逆行不可能な仕組みにしないと,急ぐ人は階段へは流れないだろう。
とは言え,物理的には無理だろうから,社会的に認知させるしかない。

エスカレーターを歩いてはいけないと言うのであれば,階段の昇降ルールの明確化と徹底も,同時に実施する必要があると考える。

「大阪都構想」における残念な大阪の区割り

2020-10-18 00:18:37 | 日記
東京と大阪のどちらが好きかと聞かれたら,私は迷わず大阪を選ぶ。
大阪の方が食べものが美味しいからだ。
食材として美味しいものは東京に集まっているが,大阪の方が安いなりに美味しく作ろうという努力を感じる。
というか,大阪(関西)の方が出汁使いが上手であると思う。
立ち食いそば(うどん)で比べても,出汁が効いているので大阪ではツユまで美味しくいただけるのが東京と違うところだ。(塩分が気になるので全部は飲まないが)
1000円以内で食べられるランチの満足度は大阪の方が高いし,ふらっと入った居酒屋の付け出しも,大阪の方が当たりが多いと思っている。(チェーン店は除く)

そんな大阪がなくなるかもしれない。
11月1日にいわゆる大阪都構想(大阪市の廃止と特別区の設置)の住民投票が行われ,投票率に関係なく1票でも賛成が多ければ可決されるのだ。
その4つの特別区への割り方が,地図・地理オタクの私から見ればあまりにひどく,看過できない。

現在24ある行政区の特別区への区割り案はこうだ。
(人口,面積はWebサイト「都道府県市区町村」(https://uub.jp/)による)

『淀川区』:東淀川区,淀川区,西淀川区,此花区,港区
 人口60万人,面積67.2km2

『北区』:福島区,北区,都島区,旭区,鶴見区,城東区,東成区
 人口77万5千人,面積48.5km2

『中央区』:中央区,西区,浪速区,西成区,大正区,住之江区,住吉区
 人口72万4千人,面積65.4km2

『天王寺区』:天王寺区,阿倍野区,生野区,東住吉区,平野区
 人口64万1千人,面積44.2km2

人口はどの特別区も70万人前後になるようそろえられている。
人口や区税収入の格差がなるべく出ないように配慮されたことによるらしい。

変動係数(ばらつきの程度を表し,数値が小さい方がばらつきは小さい)で示すと,区割り再編の前後で33%から12%まで激減している。
一方,東京23区では54%とばらつきが大きい。(人口が少ない千代田区と中央区を除いても48%)
ちなみに,面積の変動係数も48%から21%と小さくなり,面積もそろえられている。

人口は社会的要因でいずれ大きく変動するため,そろえておく必要があるのか疑問である。
表面上は平等にしておかなければならないとは,まるで学校のクラス替えのようだ。
むしろ,選挙区の割り方と同じ発想なのではないだろうか。
地域特性よりも,単純に人数(有権者数)で割るだけで,自治体を分断している小選挙区と同じように思える。

私が残念に思う理由は,この割り方のせいで大阪の歴史と文化が消失するのではないかということだ。

大阪の歴史は古い。
古来,上町台地と呼ばれるなだらかな丘上にまちが作られてきた。
仁徳天皇が造った(その後何度も遷都されている)難波宮も,豊臣秀吉が造った大坂城も,上町台地の北端にあった。
その上町台地の西側に秀吉が拓いた町が大坂である。

明治に入り,大坂は大阪と改称され,市制施行時には東西南北の4区に分けられた。
現在の北区の南側(旧北区;旧大淀区と合併して現北区)・西区・中央区(旧東区と旧南区が合併)である。
その東西南北4区を中枢として徐々に周辺の町村を合併して拡大し,現在の大阪市になった。

とはいえ,大阪市の面積は225.3km2しかなく,政令指定都市の中で4番目に小さい。(最小は川崎市の143km2
東京23区の約3分の1,横浜市の約半分しかない。
東京のように副都心が点在するほど広くなく,大阪の都心は大阪(旧4区)でしかない。
したがって,この中心エリアを有する特別区が「大阪」を継承することになる。

このエリアは『北区』と『中央区』に割り振られる。
それぞれ現行の北区と中央区を拡大したような印象だ。
大阪府の真ん中ら辺にあるのに「大阪府北区」とは何事だ,という意見はさておき,都構想で現状行政を変えると言う割りには安易なネーミングである。
両区にある大阪2大ターミナルの名を入れて『梅田区』と『難波区』,あるいは大衆的な意味で『キタ区』と『ミナミ区』とする方が,分かりやすく大阪らしいと思うが。

東京にも北区と中央区はあるし,平成の大合併でも東西南北の字を入れた自治体名が多いが,外の人間からすれば,その自治体が都道府県のどの辺に位置するかが分かるよりも,個性を感じられる名前の自治体の方が,行ってみようかと興味を覚える。

『天王寺区』にはもう1つのターミナルである天王寺・阿倍野があるので,他の特別区よりは分かりやすい。
しかし,「天王寺」とは聖徳太子が建立した四天王寺に由来しており,それは上町台地に位置しているので,その東側に広がるエリアを指すには違和感を覚える。
個人的には『阿倍野区』の方がふさわしいと思うのだが。

『天王寺区』と『中央区』の割り方で残念に思う点が2つある。
1つは,住吉区のみ『中央区』にあること。
阿倍野区,東住吉区,平野区の3区は,住吉区から分区してできたが,今回の区割りで住吉区とその他3区とが行政的に完全に分断されてしまう。
それで住民(各区民)は納得できるのだろうか。

もう1つは,通天閣・新世界(浪速区)と動物園(天王寺区)・あべの(阿倍野区)が別の行政下になること。
通天閣と天王寺動物園は大阪市の名所であるし,新世界とあべのは人情味のある大阪らしいイメージがあって,街歩きと一杯飲みが楽しいエリアである。
あべのハルカスができてこのエリアも脚光を浴びているようだが,これらが別々になって同時に発展することができるのだろうか。

最も残念に思う特別区は『淀川区』だ。
構成される現行5区は,いずれも大阪中枢と繋がっており,横断的に繋がる交通網がない。
淀川区と東淀川区の間は阪急電車が通っているので往来は容易だが,淀川区から西淀川区の間はバス路線のみである。
さらに此花区へ延びるバスは1路線しかない。
此花区と港区とは,JR大阪環状線で繋がっているのみである。
つまり,特別区内の移動は,自家用車に頼るしかないだろう。

また,『淀川区』の特徴は,河川や海に囲まれていることだ。
堤防は相当長く,水害や津波などへの災害対策に対する費用が,他の特別区より膨大に必要であろう。
また,交通網の整備も特別区で独自に行うとすれば,東西に長いため費用がかかる。
ごみ焼却工場や埋立処分場もあるため,他の特別区と軋轢を生じるかもしれない。

新大阪駅があり,USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)や海遊館も存在し,さらにカジノ(IR)誘致に成功すれば,観光業により発展する可能性はある。
しかし,観光客が特別区内を通過しない,宿泊施設も貧弱となれば,巨大観光施設からのゴミ処分など負の資産ばかり受けて,利益や恩恵を受けられないだろう。
まして,このところの新型コロナ禍により観光業は大打撃を受けており,また南海トラフ地震による影響も大きく受ける可能性もあり,観光依存は将来的に不安定要素が大きい。

さらに,『淀川区』のエリアは「大坂」から川を1つ2つ渡ったところにあるため,大阪の歴史や文化が他の特別区に比べて希薄である。
新しい大阪(大阪都)にすがるしかないが,どこまで影響力を行使できるだろうか。

以上のことから,「大阪」を継承可能な特別区は『北区』と『中央区』であるが,安泰なのは『北区』だけであろう。
つまり,「大阪」は現状から縮小して存続するだけである。
大阪府(都?)という名称には「大阪」が残るが。

小さくなった大阪で,大阪ならではの「美味いもん」が存続されるだろうか。
というよりは,大阪人の気概(大阪の文化)が受け継がれるだろうか。

大阪の中枢は,先に述べたように旧4区であり,そこから放射状に発展してきた。
したがって,大阪を分割するとしたら,その中枢を含めなければ成り立たない。
ちょうど,私鉄が大阪の中枢部から放射状に延びており,沿線の街づくりもできている。
つまり,『阪急沿線区』,『阪神沿線区』,『京阪沿線区』,『近鉄沿線区』,『南海沿線区』の5区に分けるとすれば,地域特性も大阪文化も損なわずに存続できるのではないだろうか。
この分け方で,特別区間の人口も面積も2倍以上変わることもなかろう。
さらに,将来的には沿線郊外の隣接自治体を取り込むこともできるかもしれない。

今さらそのような変更はできない。
「大阪都構想」とは,机上で案出されたものに過ぎないのであろう。
市民生活上の動線を考えずに作られたとしたら,それが一番残念だ。

今の日本に足りないもの

2020-03-04 20:34:47 | 日記
それは「覚悟」だろう。
それも,年寄り・指導者層というか,マネジメント側の。

先の東京マラソンで好記録が続出した東京マラソンで報奨金原資が激減し,日本実業団連合の西川会長が,残り800万円しかなく, 3月8日に開催されるオリンピック代表選考対象大会であるびわ湖毎日(男子),名古屋ウィメンズ(女子)の両大会で,日本新と設定Aが出ても満額支給は不可能との報道があった。
大会前にそんなことを言ってしまえば,ランナーたちのモチベーションは大幅に下がる。
これで今週末のマラソンは凡庸な結果に終わるだろう。

この制度は早いもの勝ちで,早くゴールした人がもらえるらしい。
名古屋ウィメンズとびわ湖毎日とでは,スタート時間が5分しか変わらない。(女子が先)
ということは,女子が確実にもらうには大迫選手の記録プラス5分,つまり2時間10分29秒を切る必要がある。
現在の女子世界記録は2時間14分4秒なので,それから3分半余も縮めるなど現実的に不可能である。
男子で記録が出なければ原資は女子に回るが,女子の方が圧倒的に不利で不公平であることは間違いない。
もちろん,東京マラソンとの公平性も保てない。

原資が足りなければ,集めればよいだけではないか。
東京マラソン2020の視聴率は14.6%,瞬間最高視聴率は20.8%だったらしい。
日刊スポーツWebニュースより)
最近のドラマやバラエティに比べても高いだろう。
東京マラソンやびわ湖毎日の協賛スポンサーから集めてもよいし,実業団連合加盟団体から集めてもよい。
とにかく,東京オリンピック選考にかかる大会では,「誰にでも報奨金を与える」というスタンスを保持して,資金が枯渇する場合は何が何でもかき集めるくらいの覚悟を示してもらいたかった。
そうして選手のモチベーションを高めて,マラソン界の底上げを図ることが,今求められていることではないだろうか。

東京マラソンでは,選手たちは相当の覚悟をもって臨んだはずだ。
フィギュアスケートでは羽生結弦選手や紀平梨花選手,卓球では張本智和選手や伊藤美誠選手など,覚悟をもって世界で戦う若手の台頭がめざましい。
実戦(実践)の現場では,覚悟をもって行動した人に結果が出てきている。

一方で,指導者・マネジメント側ではどうだろうか。
冒頭で「年寄り」と書いたが,若手がすごくて年寄りはダメだという世代間の比較をしているわけではない。
ゆとり教育の弊害か,若手でもダメな人はたくさんいるだろう。
年寄り(年輩者)にも優秀で世界で活躍している人はたくさんいる。
しかし,総じて若年層の方が,躍進比率が上がっているのではないかと感じている。

ピーターの法則(注)というのがある。
組織に属する人は有能であれば昇進するが,昇進後の地位で能力に限界が来ればそれ以上は昇格しない。
つまり,有能な人材は出世して無能な管理職の地位に落ち着き,どの階層においても無能な人材で埋め尽くされるというものだ。

無能とは現状に甘んじて何もしない(できない)ということだ。
自らが安住できる殻に閉じこもってしまい,工夫や変革を行わず,思考停止の状態。
日本社会の上層部は,そのようになってしまっているから,「失われた20年」と言われているのではないだろうか。
それが30年,40年と続きそうな気配すら感じる。

リーダーに必要なのは,殻を捨てる「覚悟」をもつことだ。
殻を捨てることで,自分の周囲は「世界」だけになる。
世界で活躍している人たちは,そのように見える。
つまり,彼らは「世界」を目指しているのではなく,すでに「世界」に立っているのだ。
マラソンの報奨金は,日本という「殻」を前提としているが,報奨金を得た大迫選手も設楽選手も,すでに「世界」で戦っている。
そのように感じるからこそ,実業団連合会長の発言はとても残念であった。

さて,偉そうなことを書いた私には「覚悟」があるのだろうか。
何重もの殻に包まれている自分に気付いた。
まずは1枚ずつ破っていこうと思う。

(注)ピーターの法則とは階層社会学の法則であるが,私は社会学に詳しくないので,ここでは参考資料としてウィキペディアを紹介しておく。

チームパシュートの金メダルから強い組織のあり方を考えてみる~平昌オリンピック観戦記(3)~

2018-02-26 23:56:31 | 日記
観戦記(1)で,高木美帆選手を出しにしたみたいで失礼しました。
期待通り,高木美帆選手は1000mで銅メダル,1500mでは金に僅差の銀メダルを獲得した。
そして,チームパシュート(団体追い抜き)で金メダル!
三色揃って豪華なオリンピックでしたね。

また,パシュートで同じチームメンバーのお姉さん・高木菜那選手は,マススタートでも金メダル!
何と凄い姉妹が現れたものだ。

さて,パシュートは高木美帆選手,高木菜那選手,佐藤綾乃選手,菊池彩花選手の4人でチームを構成していた。
決勝の相手は,個人種目でメダリスト揃いのオランダ。

体格に劣る日本チームであったが,一糸乱れぬ隊列とリズム。
中盤でやや引き離されたが,疲れが見え始めたオランダチームに対し残り3週で追いつくと,ぐんぐん加速し,1秒半以上の差をつけて,オリンピック記録でゴール!
日本勢の圧勝と言っていいだろう。

この強さはどこから来ていたのだろう?

日本チームは,年間300日もの合宿を行っていたという。
強国オランダからコーチを招き,共同生活の中,技術を磨き,メンバーの特性を知り,切磋琢磨する。
前回メダルなしに終わったソチオリンピックの雪辱を果たすべく,メンバーもコーチ陣もスケート協会も,同じ目標に向かって突き進んだ,ということのようだ。

この話,何かに似ていると思ったら,箱根駅伝で4連覇を果たした青山学院大学だ。
青学大では,監督夫婦と選手が寮で共同生活を行っており,練習や健康管理の徹底,コミュニケーションの充実が4連覇の秘訣だと言われた。

寝食を共にするとか,同じ釜の飯を食うとか,昔ながらの日本の組織体制そのもので,ややもするとなれ合いになりがちなところだが,どうしてチームパシュートや青学大では成功を収めることができたのだろうか。

私が思うに,
①目標に対するプレイヤーとスタッフの共通認識
②プレイヤーとスタッフの役割の明確化
③プレイヤーとスタッフの間の信頼関係
ができているかどうかにかかっているのではないか。

①については,チームとしてどこを目指すのか方向性が一致しなければ,そこへ到達できないことは明らかである。

②について,結果を出すのはプレイヤーであり,スタッフはプレイヤーが最上の結果を出せる状態へ導く存在だと思う。
つまり,プレイヤーは自分たちが輝くための努力をし,スタッフはプレイヤーを輝かせるための努力をする,ということ。
競技や演技を実際に行うのはプレイヤーであって,スタッフがプレイヤーを差し置いて目立ってはならないのだ。

大相撲では,貴乃花親方が相撲協会改革の旗手にように持ち上げられているが,土俵に上がるのは貴ノ岩関など力士たちなので,親方ではなく力士を土俵上で輝かせることを第一に行ってほしいことである。

一昨年のSMAP騒動では,事務所がメンバーの輝きを失わせてしまった。

一般社会でも,投資家や取締役の手腕で経営が左右されるのは当然であるが,顧客と直に接する窓口や現場でのプレイヤーが輝いているかどうかで,その会社のイメージや,顧客に支持されるかどうかが決定されるのではないかと思う。

③について,②の役割を十二分に果たすことは,プレイヤーとスタッフの間に確固とした信頼関係がなければ成り立たない。
プレイヤーが真剣に取り組んでくれるならば,スタッフは持ちうる全てを授けるであろうし,心底からサポートしてくれるスタッフがいれば,プレイヤーは存分に能力を高めることができるであろう。

そうして結果をひとつひとつ積み上げることによって,信頼関係がより強固になってゆく。
プレイヤー同士の絆も深まる。
それが,今回の金メダルにつながったのではないかと思える。

女子カーリングもしかりである。
銅メダルに終わったが,決勝を戦ったスウェーデンと韓国の双方に予選で勝った唯一のチームなので,金銀と同等の銅であると言っても過言ではないだろう。

メダルがあるのとないのでは雲泥の差なので,イギリスと戦った三位決定戦はとてつもないプレッシャーに襲われたに違いない。
しかし,集中力を切らすことなくメダルを勝ち取った日本チームは,強かった。

メダルを取れなかった選手やチームも,十分に持てる力を出し切ったと思う。
選手の皆さん,本当にお疲れさまでした。
そして,感動をありがとう。

女性アスリートに「獣のよう」とは失礼か?~平昌オリンピック観戦記(2)~

2018-02-26 23:42:34 | 日記
平昌オリンピックの女子スピードスケート500mで,小平奈緒選手が金メダルをとった。
実に喜ばしいことであったが,とある民放のアナウンサーが,小平選手へのゴール後のインタビューで,「獣のような滑りでしたね」と言ったことがかなり反響を呼んだようである。

私も同じような印象を持ったことは前稿でふれたが,「女性に対して失礼」「訳が分からない」などと,非難ごうごうであった。
このちょっとした騒動に違和感を覚えたので,少々論じてみたい。

まず,女性に対し「獣」とは失礼,という意見については,じゃあ男性に対してなら失礼にはならないのか,というのが一番の違和感である。
「人を獣に例えるとは何事だ!」と,男性に対してもあてはまるような指摘ならば理解できる。
しかし,この意見の裏には,「女性とは可憐で可愛いもの」というステレオタイプな発想が根底にあるのではないかと感じ,女性を擁護しているというよりはむしろ,ジェンダー観に偏りがあるのではないかと思った。

もう一つ,「獣」の意味について。
「獣」には,
①全身毛におおわれ,四肢で歩く哺乳動物。特に,野生のもの。
②人間らしい心のない人をののしっていう語。人でなし。
の2つの意味がある。(大辞林第三版より引用)

問題のインタビューで,②の意味で言っていたとすれば論外だが,状況からして違うだろう。

①の例えだとして,小平選手は「チーターを超えるようになりたい」と以前話していたらしく,それを引き合いに出してのインタビューであれば,褒め言葉になりうると思う。
女性であろうがなかろうが,スピードを求めるアスリートが,人間よりはるかに勝るスピードを出せる動物になぞらえたり目指したりするのはよく聞く話である。

ただ,「獣」では範囲が広かったりイメージが違ったりして,適切に伝わらない可能性がある。
小平選手が「獣かどうか分からないですけど」と苦笑いしたのは,「獣」に対するイメージが,小平選手とアナウンサーとで合致しなかったからではないかと思った。
「以前チーターを超えるようになりたいと仰っていましたが,今日はまさに獣のような滑りでしたね」
とはっきり言っていれば,ずいぶんと印象が違ったかもしれない。
もっと具体的に,「まさにチーターのような滑りでしたね」と言っていれば,疑問は抱かれなかったであろう。

今回の騒動では,「獣」に対する一面のみをとらえて全否定する,「言葉狩り」になりそうな予感がした。
表現の自由だからと何を言ってもよい訳ではないが,表現の自由度を狭めるような世の中の流れを感じて少しおぞましくなった。
SNS等の普及によるのかどうか分からないが,言葉を発する方も受け取る方も,短絡的に考える風潮に対して危惧の念を抱いている。
言葉に対する想像力と寛容さが養われる世の中になってほしいものである。