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遠山を望むが如く

しんちゃんの雑録

やっと昇段できました

2025-04-27 01:56:52 | 剣道
今年2月の中央審査で,六段に昇段しました。
ご指導いただいた先生方のほか,参考とした剣道関係のブログやYouTubeの配信者に感謝いたします。

初めて受審してから3年3ヶ月かかった。
年4回の審査に受審し続けたわけではないが、初段から五段までは全て一発合格だったので,随分と足踏みし,随分と悩んだ。
剣道関係の記事を久しく更新しなかったのは,ほかに優れたブログが数多あることを知り,私ごときが述べるものおこがましいと感じたことによるが,私のような不出来な者の意見も何かしら役に立つかもしれないと思い,再開する次第である。

五段から六段は,都道府県審査から中央審査(全国)に変わるので,大きな壁とはよく言われる。
六段以上の審査では,短い時間の中で有効打突はもちろんであるが,打突の機会が重視される。
つまり,自分勝手に打突しては評価されず,相手を引き出しての打突が重要であると,あらゆる先生から指導された。
とりわけ,初太刀が大事である,と。

私は,打ちたがりである。
先に攻めて,先に打突したい,ずっとそうしてきた。
当然,それではダメだ,と指導された。
では,相手の出方を探ろうと試みる。
そうすると,相手の動きを見て待ってしまうので,出遅れてしまう。

中央審査受審者講習では,最初の15秒ほどで相手をよく観察し,自分の優位な攻めの体勢を作り,思い切って(捨て切って)初太刀の打突する,と教わった。
これがなかなか体得できない。
そもそも,5秒ぐらいで打ってくる相手もいれば,微動だにしない相手もいる。
なかなか自分のペースで審査に臨むことができずに,落ち続けていた。

普段の稽古では比較的できるようになってきて,先生方から次は大丈夫だよ,と言われても落ち続けていた。
さすがに自分の剣道のどこに問題があるのだろうかと,入念に分析した。
そして,自分の剣道に欠点が2つあることに気付いた。

1つは,相手に合わせてしまうことである。
自分の攻めが相手より勝っている場合,打てると思って打ち急いでしまう。
そうすると,打たれはしないが受けられてしまい,有効打突は得られない。
相手の攻めが自分と同等かそれ以上の場合,打てないので応じようとする。
そうすると,後手に回るので有効打突は得られないどころか,相手に取られてしまう。

自分のペースで攻めるとはどういうことか。
それは,打つことではなく,いつでも打てる体勢を作ることだと考えた。
六段審査では「打つぞ」ではなく「さあ来い」という気概で臨むのがよいとのサイトを見たことがある。
「さあ来い」では待ってしまうので,「来られるなら来い,来ないならこっちから行くぞ」という気概を心がけた。

もう1つの欠点は,打突が弱い(軽い)ことである。
弱いというよりは,強さが一定しないと言うのが正しい。
稽古会での指導稽古(七段以上の先生に懸かっていく地稽古)の際,六段以上の先生方と五段以下の剣士の動きの違いをよく観察すると,先生方は上体,特に左手の動きが全くブレていないことに気付いた。
上体がブレないということは,足さばきが出来ていて腰から動いているということである。

打とう打とうとすると,右半身から前へ出ようとする。
わずかな動きであっても,それは適正な打突を阻害する。
そう思って,左半身,つまり左手と左足の動きを強く意識した打突を心がけた。
私の得意な(好きな)技は面であり,相面になったとしても絶対に打ち負けない打突を意識して稽古した。

さて,審査当日。
「はじめ」の号令の後,じっくり間合いを詰めて,打つ体勢を整えた。
相手の攻めも,打って来る気配も感じない。
躊躇していると感じたので,思い切って左拳から押し込むような面を打った。
それに合わせて相手も面を打ってきたが,完全にこちらが打ち勝っていた。
これほど初太刀で集中したことはなかったように思う。

2人目も同じように初太刀の面が決まった。
その後はバタバタして打突を決められなかったが,実技審査結果発表時に自分の番号を見つけたときには,やっと受かったと涙があふれそうになった。

「来られるなら来い,来ないならこっちから行くぞ」という気概で臨むのは,正しくないかもしれない。
今回の審査では,相手に恵まれたのかもしれない。
しかし,自分の剣道はどうあるべきか,ということを追究することが,高段の審査には必要だろうと思う。
拙文が,六段受審者のお役に立てれば幸いである。

事理一致

2020-10-12 23:45:50 | 剣道
先日,久しぶりに剣道の講習会に参加した。
日本剣道形の講習であったが,別に昇段審査の準備のためではない。
単純に,日本剣道形の所作の意味するところを再確認したかったのだ。

日本剣道形は、「形」なのだから覚えたらそれでいいのだ,とよく言われる。
しかし,私は理屈っぽいタチなので,意味が分からないと覚える気になれない。
段審査前には教本を読み込んで意味から覚えたものだが,しばらく形をやらないと忘れてしまう。
つまり,意味をちゃんと理解していなかったから忘れるのであって,それでしっかり受講しようと思ったのだ。

講習は、「事理一致」の説明から始まった。
私はこの言葉の存在は知っていたが,恥ずかしながら意味を正しく理解していなかった。

形は「理」であり,防具を着けての稽古は「事」である,というお話だった。
明治の頃は「理事一致」とも言われ,形すなわち剣道理論を理解し体得した者が防具着用を許され、「事」すなわち稽古ができる、ということで,「理」が「事」より先行するものだったが,それではいつまで経っても実践の稽古ができない場合もあるので,大正の頃から「事」の占める割合が大きくなり,「事理一致」と言われている,と講師の先生は仰っていた。

これは講習内容が形であったことから「理」である形の意義を私たち受講者に示すための説明だったのかもしれないが,理屈っぽい私にとって腑に落ちる内容であった。
私は普段から稽古する時間が少ないので,効率よく稽古するために,今日のイメージ(目的や目標レベルと言った方が分かりやすいかも)を造ってその通りに体を動かすことを考えている。
そのイメージが正しければ(相手に通用すれば)それを体に刻み込み,正しくなければ修正する,ということを繰り返す,というのが個人的な稽古スタイルだ。
方向性としてはまさに「理事一致」であるが,ご指導いただく先生方からは「お前は考えすぎだ」と常々言われており,私には圧倒的に「事」が少ないことが上達しない原因であろう。

講習ではその説明の後,太刀の形から1本ずつ,打太刀と仕太刀を交替しながら動作を確認していく,というスタイルであった。
個々の形の説明はほぼ教本(日本剣道形解説書)どおりであったと理解しているが,全体を通して,仕太刀(弟子)は打太刀(先生)を凌駕する気持ちで行うように,と何度も仰っていた。(そのように見えないとお叱りを受けていた)

講習の後,「事理一致」について調べてみたが,「事理」という言葉は仏教の用語で,剣術における「事理一致」とは沢庵宗彭の禅の思想から広まったようだ。
沢庵の思想における理(こころ)の修行,事(わざ)の修行というのは,次のように解説されている(*1)。

 「理の修行」とは、心を自由に働かす修行です。無念無想の境地、最高の無心の境地を探究する工夫であるといってよいでしょう。そこには当然のことながら、理論の研究も含まれています。
 「事の修行」とは、さまざまな技術を習得する修行です。心の修行を積むだけでは、身体や手足を自由に働かすことができません。沢庵禅師は、「理」を心理、「事」を実技とし、両面で修行しなければならない、と説いています。

つまり,「事」と「理」の二つは車の両輪であり,技と心を一致させよ,という意味である。

もっともな考え方であるが,どうやったらその境地に到達できるのか,高尚すぎて見当がつかない。
日常の稽古ではどのように取り組めばよいのだろうか。

高野佐三郎先生の教習心得の一節に,理と事(精神と技術)についての記述がある(*2)。
少々長いが,引用させていただく。

 剣道において、理論を先に教えるべきか、技術の練習を先にすべきかについて、多少の異論があるようである。しかしこれは、両々相俟って初めて効果を現すもので、一方に偏るべきではない。実際に剣を振るって練習を重ねるのでなければ上達することはできない。理論をいかに精密に究めても、同時に練習が伴わなくては結局のところ空論にすぎない。しかしただ手足を働かせるのみで、理論に導かれなければ、徒に労苦しても進歩向上には覚束ないであろう。ゆえに、常に練習を怠らないと同時に、試合をするたびに自分の習癖に注意し、先輩に自分の欠点をよく聞き、他人の稽古や試合にもよく注意し、姿勢・動作・間合・気合・気位などをよく究め、常に思いを凝らし工夫を積み、思いつくことがあればそれを実地に試みるなど、研鑚を怠ってはならない。
 剣道は広大無窮であって、上達するに従い益々妙味を覚え、その深遠であることを感じる。これを終身究めたとしても、究極することはないであろう。古人も、術に終期なし死を以って之が終わりとなす、といった。ゆえに、漫然と練習をしても一定の程度より以上に進むことは困難である。常に思念工夫し、実地の練習と互いに作用しあって極意に到ることを心掛けなくてはならない。

この「思念工夫」というのがキーワードであろう。
「理」とは単なる普遍的な剣道理論ではなく,思念工夫してたどり着いたその人ならではの理論のことではないだろうか。
思念工夫しながら実地の練習を行う,つまり「理の修行」と「事の修行」とは同時進行なのだと考えれば,合点がいく。

私は形の所作について,表面上の意味を理解しようとしていただけだったのだ。
右足が先か左足が先か,大きく振るか小さく振るか,といったことの意味は枝葉末節に過ぎない。
形の「理」とは,先々の先や後の先といった,技を出す心の本質を示すものなのだ。
また,太刀の形7本,小太刀の形3本というのは,技のバリエーションであって,技の全てではない。
これらを基本として理解した上で,思念工夫して実地の稽古を積むことが,「事理一致」につながるのだ。
このことに理解が及ばなかったことから,私は「事」だけでなく「理」も足りていなかったことを痛感した。

昇段審査では,立会と形の両方が審査される。
「事理一致」の観点から両方が対象なのだろうと考えると,形も疎かにできない。
今一度,気を引き締めて学び直そうと思う。

<参考資料>
*1 佐藤鍊太郎:禅の思想と剣術,日本武道館,2008年
*2 中村民雄 監修:「剣道」高野佐三郎著 現代語訳,島津書房,2013年

「気剣体一致」とは

2018-05-07 00:42:52 | 剣道
「気剣体一致」とは,教科書的に言えば(*1),気力,竹刀操作,体さばきと体勢が,タイミングよく調和がとれ,一体となって働くことで有効打突になり得る,ということである。
また,「有効打突」とは,充実した気勢,適正な姿勢,竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し,残心あるものをいう。

打突の瞬間に関しては,どちらも同じような意味と捉えているが,以前から「気」「剣」「体」は同列なのか,どれが一番重要か,などと考えていたので,少々論じてみる。
(残心もまた剣道において重要な要素の一つであるが,今回のテーマでは扱わない)

そんなの,同列でどれも重要に決まっているではないか,と思われるかもしれない。
しかし,「気」「剣」「体」の調和がとれた状態というのを子どもや初心者に教えることは難しく,また自分自身も同列に習得した記憶はない。
たまたまできた場合に,「今のが気剣体一致の打突だ!」と感覚的に教えることもあるだろう。
どうすれば「気剣体一致」の概念を理解し,その状態を作り出すことができるかを,自分なりに考えてみた。

私は「気」「剣」「体」について,図1のような階層をイメージしている。
どれが一番重要かと言えば,「気」であろう。
「天地人」もそうであるが,一般に言葉の並びでは,書かれている順に序列が決まっている。


図1 気剣体一致のイメージ

そして,剣道の熟練度は,この気剣体の三角形(面積)の大小によって表せるのではないかと思う。(図2)
では,どうすればこの三角形を大きくできるか。


図2 剣道の熟練度を表すイメージ

「気剣体一致」の形成は,図3の流れになると考えている。


図3 気剣体の習得サイクル

①まず,剣道をやろうとする気持ち,上手くなりたい,強くなりたいという気持ちを抱くことから始まる。
そして竹刀を振ってみる。
しかし,自分の思っているイメージのように振れないことに気づくだろう。

②腕力や手首が弱いから,竹刀を振れないと思うかもしれない。
あるいは姿勢や体(足)さばきが悪いから,できないと思うのかもしれない。
そこで,自分の求める水準まで体力を向上させるよう,努めることが肝要である。
基本技の練習が大事なのは,技を正しく覚えるだけでなく,この基礎体力を増強するためでもある。

③体ができてくれば,竹刀を思うように振れるようになる。
竹刀を振れるようになると,速く正確に打てるだけでなく,応じ技など技のバリエーションも広がることだろう。

④思うように体が動き,竹刀を振れるようになると,自分の剣道に自信を持てるようになる。
そうなると心に余裕が生まれ,相手をよく観察でき,技を出すべき機会が見えるようになる。
体と剣の充実に裏づけられた気力をもって技を出せば,それが「気剣体一致」の状態ではないかと考えている。

こうして「気剣体一致」の打突を習得したら,より上級レベルで対戦できるようになる。
そこでまた,新たな課題を発見し,さらに上手くなりたい,強くなりたいという気持ちを抱くことだろう。
そして,より高いレベルの習得サイクルが始まることになる。
この繰り返しで,剣道が上達するものと,私は考えている。

このサイクルでは,④の境地に達することができるかが鍵である。
特に子どもや初心者に対しては,些細なことでも自信を持てるように指導することを心がけている。
というのも,自分自身が些細なところに自信を深めたところから,剣道を面白いと思うようになったからだ。

私は小中学生当時は肥満気味で動作が鈍重であったが,身長が伸び始めて相対的に痩せてきた頃に,指導者から足さばきについて褒められた。
自分ではずっと動きが遅いと思っていたが,意外とすり足が速くなっていたことに気付いた瞬間であった。
以後は積極的に稽古するようになり,高校に入ってからも自分のスピードがある程度通用すると分かると,本当に剣道が楽しくなり,大人になっても,ブランクがあっても,剣道を続けている。

現代剣道の基礎を築いたとされる高野佐三郎先生(*2)は,自信から発する威力を「気位」の定義と捉えており,剣道を極めることにより,悠然とした心の中に敵の動静が手にとるように見え,敵を押さえるのも挫くのも打つのも突くのも,心のままにできる状態と説いている。
もっとも,自信と自負心あるいは慢心とは大いに異なるもので,自負心や慢心は剣道において大いに忌むべきものとして戒めている。
自信を持つことは大事だが,過信は禁物である。

以上のように,剣道とは,「気」から始まり「気」に行き着くものである。
ただし,それを達成する手段として「剣」があり,その土台に「体」がある。
「気」「剣」「体」が一体となって働くとは,そういうことだと私は認識している。

なお,「気」「剣」「体」をそれぞれ「心」「技」「体」に置き換えると,剣道に限らずあらゆる職業や芸術活動にも通用するのではないか。
これが,剣道の理念にある「人間形成の道」に通じることであると,私は解釈している。

<参考資料>
*1 全日本剣道連盟:剣道学科審査の問題例と解答例,2005年
*2 中村民雄 監修:「剣道」高野佐三郎著 現代語訳,島津書房,2013年

子どもに教えるべき試合の目的

2018-04-09 00:27:59 | 剣道
先日,とある市民剣道大会の審判を依頼された。
この半年ほどほとんど稽古ができていなかったので,あまり自信はなかったが,人手不足は分かっていたので引き受けた。

対象は小・中・高生であり,小学生のみ団体戦も行われた。
中・高生になると体の大小はあっても体力の差はそんなに大きくはないが,小学生では学年が違うと体力差は大きく感じる。
団体戦では3年生と6年生が対戦する場面があったが,体力差は歴然としており,その時の審判は難しかった。

小学生でも,基礎ができている子は打突もしっかりしており,試合運びも巧みであった。
本人の素質や努力もあるだろうが,どのように指導したらこんなに上手に試合ができるのだろう,と指導方法に思いを巡らした。
中・高生になると,なまじ体力がついてくるので,スピードに頼ったり,打つよりも打たれない受け方に徹したりして,面白味に欠ける試合が多かったような気がする。

試合では必ず勝敗が決する。(団体戦で引き分けが規定されている場合を除く)
試合をする以上,勝ちを目指すのはもっともではあるが,勝つことが試合の目的なのだろうか?

勝つためには,相手より先に2本,有効打突を繰り出すことができればよい。
1本勝ちもあるので,まず相手より先に有効打突を出すことを心がけるべきである。

ただ,どのような打突が有効と判定されるのか,小学生に教えることは難しい。
「有効打突」とは,充実した気勢,適正な姿勢,竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し,残心あるものをいうが,「気剣体一致」の打突と言う方がまだ分かりやすいかもしれない。
「気剣体一致」の詳細については稿を改めるが,要は気力,竹刀操作,体さばき・体勢が,タイミングよく調和がとれて一体となっていることであり,このように働くことで有効打突になる。

つまり,試合中に「気剣体一致」の打突を出せるかどうかが重要であって,出せたらそれは1本となり,それが2本あれば(あるいはそのまま時間になれば),勝ちである。
「勝ち」とは,結果であって,目的ではないのである。

したがって,試合で勝つために大事なことは,どんなときでも「気剣体一致」の打突を出せるような稽古を積むことである。
元立ちが打たせてくれる基本打ちで,竹刀が流れるようではお話にならない。
以前,講習会で「木刀による剣道基本技稽古法」を,防具をつけて竹刀でやったことがあるが,体さばきと竹刀さばき(手の内)が同時に体得でき,充実した気勢がともなえば,これは実に良い稽古法だと思った。

冒頭の大会で常勝の道場の稽古を拝見したことがあるが,子どもが大人に混じって稽古をしていた。
と言うか,大人が元に立って,子どもの「気剣体一致」の打突を上手く引き出していた。
逆に,子どもが元に立って大人の打突を受ける場面もあった。
どの大人も熟練者と見受けられた。
大人と対等に稽古する子ども達の気概に驚嘆したが,なるほど,これなら巧いはずだと思った。

「礼に始まり礼に終わる」の意味

2017-01-12 16:11:42 | 剣道
「礼に始まり礼に終わる」

とは,剣道でよく言われる言葉である。

これは,剣道の精神・あり方について,試合においては作法を守り,また相手への敬意を示すことが,何よりも重んじられるべきである,ということを述べる表現であり,礼儀・礼節をもって試合に臨むことは勝敗よりも重要であるという考え方をともなっている*。

「礼」については先に考察したが,この言葉からは,剣道においては終始「礼」を大切にせよ,と諭しているように思われる。
つまり,常に「礼」を意識し実践することが,剣道を修錬する上で重要なのだ,と述べられているのであろう。

もっともであり,実に高尚である。
しかし,常に精神が張り詰めているようで,これを要求することは,特に子どもや初心者に対しては難しいのではないだろうか。

私は,言葉どおり捉えればよいのではないかと考えている。
つまり,動作としての「礼」をすることが剣道の始まりであり,「礼」をすることで終わりになる。
四六時中,剣道するわけではないので,「礼」をすることが,剣道スイッチのON/OFFだと思ってもらってもよい。
ただし,スイッチONになったら,まじめに剣道に向き合うこと。
(スイッチOFFまでは気を抜かないこと)

通常,剣道では「礼」をするタイミングが3回ある。
①道場に出入りするとき
②稽古全体の始めと終わり(指導者や正面に対して)
③基本技や地稽古などの,個々の稽古の始めと終わり(相手に対して)

①は,剣道の世界の外から中へ入るというスイッチ
②は,剣道を自ら学ぶという意識のスイッチ
③は,剣道を自らの力で行う(試す)という実践のスイッチ
であり,「これから剣道をやるんだ」という気持ちを段階的に高めていくための所作である。
「礼」に敬意や謝意を込めることはもちろんだが,動作に表すことで,自分自身に活を入れるのだ。

試合や審査でも同様である。
①会場に出入りするとき
②試合(審査)全体の始めと終わり
③個々の試合(審査)の始めと終わり

ここで,特に重要なのは,③である。
試合(審査)では,審判(立会人)が「はじめ」と声を発するときが始まりではなく,その前の「礼」から始まっているのである。
始めの「礼」から気を充実させ,蹲踞までの間に風格を示し,隙を見せないことで,「はじめ」の前から勝負がついている。
少なくとも精神的にそうなれば,優位に立てるはず。
その風格を終わりの「礼」まで持続することで,結果はどうあれ「この人はできる」と,相手も周囲も納得するのだ。

剣道とは,まさに「礼に始まり礼に終わる」のである。

<参考資料>
*実用日本語表現辞典,http://www.weblio.jp/cat/dictionary/jtnhj