拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『自分』 は 『人間』

2022年06月09日 | 観自在

  『考えるな、漢字ろ!』・・・と、悟学的『漢字』解読に目覚めたのが、5年前の退職後のことであると思い込んでいたら

  『坐禅日記』と称した私の1988年の三日坊主日記のノートの1月15日付けページに

  『人間』と題し、人間の『間』は心の働きを意味し、それは『悟り』を意味する…という一文を発見した。

 

  今私は70歳だから、ちょうどその半分の35歳の時から私は『人間』の『間』にこだわっていたことがわかって驚いた。

  解ったからそう書き印したのではなく、ただ直感的にそう感じ、結論が先に出てしまった・・・のだろう。

  『禅』のなんたるかも解らない時期に、どういった経過からそこに疑義を抱いたのか、今では解らない。

  言えることは、自分の中で『人間』という言葉を禅の公案のように30年以上無意識に温めていた…ということだと思う。

 

  自分:『自ずと分かれ、自ずと分かる』・・・この『分かれて、分かる』ところが『間』で、それを『観る』人が『人間』なのだ。

  古人は『自分』という言葉、『人間』という言葉に『郷里・サトリ』である『不二の法門』へいざなう『呪(祈)』を込めたに違いない。

        



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1 コメント

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Unknown (桂蓮)
2022-06-10 00:06:57
まー
今ころの言い方だと
Social distanceのことですかね。

人との間の距離、アメリカ的な見方ですが、
馬骨さまは
心の動きとしてとらえてましたね。
内側に巻く動き、
内側への渦巻き、みたいな感じですかね。
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