昨日、久しぶりにジュネーブに行って濱口竜介監督映画『偶然と想像』を観た。
スイスに来てから約25年近く、我が『勤労の舞台』となったジュネーブの街を久々に歩くと、ガイド時代、引越し屋時代
の様々な混濁した思い出が蘇がえり、そういった慌ただしい日常から解放された現在の自分が不思議に思えた。
『可愛い子には旅をさせよ』…という故事があるが、その真意はどのへんにあるのだろうか。
私の『還暦スキャン』にはそういったことも精査することができる優れた機能がある。
この突然とも言える命題『可愛い子には旅をさせよ』は、じつは先日HNK動画でみた『二人の引きこもりの面倒をみる90歳の父親』のドキュメント
が残脳していたせいに違いなく、考えるともなく『引きこもり』と対極の『旅』について私の人脳は勝手に試行錯誤していたようなのだ。
前回ブログで『感動』について書いたが、記憶に残る思い出は『ポジティブな感動』ばかりでなくむしろ『ネガティブ感動』つまり『怒り』が
より多い気がし、『娑婆』では『20%ポジティブ感動』『80%ネガティブ感動』・・・ぐらいが普通ではないだろうか。
で、先程の命題『可愛い子には旅をさせよ』であるが、その真意は?
『怒涛の旅』に出て、プラス・マイナスの感動の波にもまれもまれて、主語のない『尊厳性』に目覚めよ・・・ではないかと私は思う。
その『引きこもりドキュメント』、娘が57歳(?)息子が61歳ぐらいの時、90歳を越えた父親が他界するという状況であった。
娘も息子も一時期は社会にでて働いていたが、人が怖くなって引きこもってしまった、という。
死の間際に、父親は子供達に『引きこもり』を許したことを誰とはなしに謝罪していた場面が印象的であった。
『親切』とはよく言ったもので、子を自立させるために関係を『切る』・・・それはつまり『尊厳・性・絶対』のDNAを覚醒させる親心だ。
その点、私の父は赤ん坊の私と姉と、病身の母を見捨てて、蒸発という手段で『親切』を実行した、父としては立派であったと今は思える。
晩年をスイスのレマン湖畔の街、Veveyで暮らしたチャップリン像
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます