拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  清静 (しょうじょう)…について

2022年12月20日 | 観自在

  『禅修行』について語るとき、『坐禅』そのもの、或いは『禅問答』について語られることが大半であると思う。

  雲水として禅寺の僧堂で修行した者であれば、半端ない『作務』について語る人もいるだろう。

  私のように居士(一般人の修行者)として土日坐禅会などで修行した者でも、早朝の道場内外、寺境内の掃除の作務の

  思い出があり、夏は蚊の出現、冬は寒い中、素足に下駄姿で境内を掃き清めるのも楽ではなかった。

 

 

  当時、禅修行の一環として『掃除』をすることは当たり前の事として受け止めていたので、無心で掃除をしていたが

  だからといって、プライベートでもアパートをキレイにすることを心がけていたかどうか?疑問である。

  ただ、そういった修行を7,8年ほど続けているといわゆる『熏習』というやつで、自然と綺麗好き・・・というか

  『清静』を好む人間になっていた事は間違いないようだ。

  そして今思うのであるが、この『清静』の体得もまた禅修行において『悟り』同様に重要事項であった…ということだ。

 

  仏教には五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)があるが、

  禅修行中そういった『戎』についてあらためて薫陶を受けた覚えがないし、 円覚寺から頂いた簡素な『修養聖典』にも

  『諸悪莫作』の一語のみで、『五戒』は見当たらない。

  しかし、禅修行で『清静』という言葉を用いずとも、作務を徹底することで、『清静』を体得すれば

  自ずと『戎』を犯す行為から人は遠のいていくものだ。

  私が普段から『カッコいい』のを好むのは、人間の『性』であり、『清静』という『美しい戒め』が

  人をして仏道に導く基本であるからではないだろうか。

 

          

               古池や ゆるく環を描く 金魚たち : 一撮

         この写真は2006年に、初めて買った『デジタル一眼レフカメラ』で、初めてカラー写真を撮った作品。

         (それまで、白黒、人物をテーマにしていた) デジタルで色が誇張されているが『色』が美しいと初めて思った瞬間だった。

  

  

 

 

  

  



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