これまで、私自身の人生の中でこういった『問(悟りとは何か)』を私自身、自分に問うたかどうかあやしい。
『禅とは何か』とか『仏教とは何か』あるいは『宗教とは何か』・・・というようなタイトルの本は何冊か読んだ気はしている。
私の場合、そういった疑問がそれほど強烈ではないためなのか、本を読んでいるうちに、肝心な疑問が何であったか忘れたり
有耶無耶になってしまって、結局『禅とは・仏教とは・宗教とは』という問いの答えが本を読んでもよく解らない…ということが多かった。
特に『悟り』などというモノは、『言葉で説明できるようなものではない…』というのが相場であり、私はじつに素直にそうなのであろう・・・
と、何となく了解していたので、それ以上詮索することがなかった、というのが正直なところであった。
だから、禅修行をしていたときも、『悟り』のことなどまったく考えていない私は、老師などからしたら取り扱い難い弟子であったであろう。
周りの若い雲水たちは3年という年季があるので、真剣さにみなぎっている中で、特に期限のない私は、何度ダメ出しされても屁とも思わず、
『駄目でも受け入れてくれる、ここ(修行所)は、いいなぁ〜』・・・と内心ニコニコ顔で参禅していたのだから・・・。
まぁ、それは兎も角。『悟り』という言葉を聞くだけで、『いや、私は英語はデキません〜』…と、外人から逃げ隠れするオッサン、
オバサンと同様な反応をするのが一般なのではなかろうか。
私などからしたら、人間として最も大切な行為?『悟り』を、『私なんか、そんな『だいそれた』、とてもとても…』などと言って
謙遜ぶっている人々がいるが、まさに『間抜け』にしか見えない。 (*『人間』の『間』は『悟りの間』であるから)
確かに、『悟り』なるものは、言葉などでは表現できないものに違いない。
しかし、一つだけ確かなことがあり、それだけは言えると思うのは『人間は自分をごまかすことが出来ない』という真実だ。
レマン湖に浮かぶ休憩所? 小さくて見えにくいが、カモメが休憩中、その奥にモンブランが…
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