拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 施無畏(セムイ)

2015年02月19日 | 観自在
  ボクは縁あって『禅』修行をしたけど・・・その動機は何だったのか? 最初に座った時、ただじっと坐って足は痛いし時間の無駄な行為に物凄く腹を立てた
  ことはよく覚えている。そう思ったすぐ後だったか、しばらくしてからだったか、ボクのこれまでの『時間』観について反省したっけ。

  たぶん、そんな当たりの『気付き』がキッカケになったのだと思う。人間として最も『美味しい』と思われる時期を『禅修行』に捧げてしまった。
  いろんな名僧の本などを読んだが『禅をしても何にもならない・・・』と誰もが言っていた通り・・・事実確かに『何にもならない』と実感している。

  もう10年ぐらい前かな?仕事で相棒のアントニオ(ポルトガル人)にトラック運転中に突然『お前は仏教徒か? それでどんな教えだ?』と聞かれて
  ボクはなんと答えていいのかわからなかった。(なんだかんだで禅に7~8年関わってきた自分なのに)

  もともと、禅を宗教・・・として捉えた事が一度もなかった。 というか、そもそも『宗教』って何?とあらためて考えなければアントニオが納得出来る
  答えは出なかったであろう。だからアントニオに尋ねられた日から、たぶん無意識の内に彼の問いはボクの『公案』になっていたと思う。

  最近、ボクは宗教としての『禅』つまり『仏教』ってなんだろうか?・・・と日々考えている。 そして今、思い浮かべているのが『施無畏』ということ。

  仏像を見るとほとんどの仏像が 右手を胸のあたりにあげて手のひらをかざしている印相を『施無畏印』といって『衆生の畏れを除く』・・・というものだ。
  ちなみに左手は『与願印』で『衆生の願いを叶える』というのがあるが、ボクはこの『施無畏』だけで宗教としては充分だと思う。

  そもそもお釈迦様が悟りを開いたのも生における『四苦八苦』からの開放であったのであるから、この施無畏は仏教の『ツボ』をついていると思う。

  ただ、ボク自身禅を始めた頃は『不安』を全く意識していなかったから、宗教観など持てるはずがなかったのだ。熱心に修行するボクを見て
  『坊さんに成る』ことを薦めてくれた人もいたが、全くその気がなかったのは『自未得度先度他』(=自分が救われる前に他人を救う)などという
  殊勝な気持ちはこれっぽっちもなかったのだから、当然であった。『禅』は自分の為にやる・・・と、それだけはハッキリ意識していた。

  さすがに、アラ還ともなると様々な『怖れや不安』というものがよく分かってきた。と同時に『施無畏』の有り難さも。

                   
                 スイスに来る少し前に骨董品屋さんで三万円ぐらい?で購入した仏様


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