拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   禅と警策(棒)

2024年07月02日 | 東洋自分なり研究所

  『命』という字が、『𠆢』(ひとやね)+『一叩』・・・ということに気付いてから、禅における『叩打』の意義を考察。

 

  禅の修行というと坐禅だが、その坐禅中、和尚さんや雲水が警策という平たい棒を持って、堂内を監視している様子は

  禅修行風景として、知らぬ人はいないのでは。

 

  スズキ大拙の本を読むと、禅の祖師がたの『公案』が沢山紹介され、その中にしばしば、『すなわち打つ』・・・といった表現が頻繁に現れ

  それらの禅問答が、その師の『打つ』によって峻厳に終焉する事を知らされるなど、『棒』、『喝』を用いて指導してきた痕跡をみる。

 

  臨済宗の祖師、臨済禅師が悟りに至るエピソードにしても・・・2022年10月25日のブログ記事〜慈悲と華

  三度師匠に『仏法の真意』を聞きに行って、そのたびにぶっ叩かれ、意気消沈して他の師匠に相談に行くと、『お前の老師は、なんと親切なんだ…』

  と言われ、その言葉に、忽然と『悟った』・・・と言われている。 (その臨済禅師は後に『一喝』の禅師として著名になる。)

 

  『警策』をググってみると〜 『警策(きょうさく、けいさく)は、坐禅の際に修行者の肩に打ちつけて、注意を与えたり、眠気を払ったりするために用いられる法具』

  とあり、私の修行時代の認識もそんなものであったように思う。

  ことに、臨済宗では『坐』は面壁ではなく、互いに向き合う形で坐るので、警策を持った雲水が目の前をゆっくりと通り過ぎる一瞬は緊張が走り、

  道場内に緊張感を与える・・・という意味では警策はまさに『警覚策励』の重要な役割を果たしている。

 

  『叩く』・・・といえば、『徳山の三十棒』・・・といって、『言い得るも三十棒、言い得ざるもまた三十棒』と、・・・

  どちらにしても『ぶっ叩く』徳山禅師(中国唐代)の出現は、本を読んでいるだけで恐ろしさを感じたものだが、

  眠気を覚ますだけの『警策』と『徳山の三十棒』とでは、おなじ『叩く』でもその意味合いには雲泥の差があることに、私は今日まで気付いていなかった。

 

              

                  ぶっ叩く のちの無空に 目覚めれば 仮想実相 観自在かな  馬骨

 

  『命』という字が・・・一叩く、ということであれば、『警策』の意味もかなり違っていたのではないかと、遥か昔、自分が警策を弄していた頃を思いだす図

  

 

 

 

 

  



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