本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

結論

2016-10-16 15:34:42 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 しばし〝 賢治、家の光、犬田の相似性〟という観点から、あちこちうろちょろと周辺を彷徨ってみたのだったが、意を決してそろそろまとめに入りたいと思う。

1 新聞報道から見えてくる下根子桜時代の賢治
 さて、当時賢治はどのようなことを考えどのようなことを実践しようとしていたのだろうか。そのために、賢治の下根子桜時代に報道された例の新聞記事をまたぞろ見直してみたい。
(1) 大正15年4月1日付『岩手日報』の記事
 まずは、賢治が下根子桜に移り住む際に『岩手日報』の記者の取材に答えた記事。それは
  新しい農村の建設に努力する
         花巻農學校を辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同士(ママ)二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
 現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である
<大正15年4月1日付『岩手日報』より)>
というものであった。

 ということは、この記事からは下根子桜に移った当初の賢治は『新しい農村の建設に努力する』と宣言して、
 ①農村は経済的にも種々行き詰まっている。
 ②一年の半分は東京とか仙台の大学で『農村経済』を研究したい。
 ③残り半分は花巻にて耕作に従事し、生活=藝術の生がいを静に送りたい。
 ④実践としては幻燈會(毎週)、レコードコンサート(月一回位)行いたい。
 ⑤それぞれが作った農作物の物々交換をおこないたい。
ということなどを思っていたということが言えるだろう。
 しかし見出しには『新しい農村の建設に努力する』とあるものの、この記事によれば賢治が当初考えていたことは、農学校教師を辞めて自分の気の向くままに大学へ行ったり農耕したりしながら、20余名の仲間と芸術の生き甲斐が感じられる静かな生活を送りたいというような穏やかなものである。当時農村は不況等により深刻な大打撃を受けていた訳だが、近隣の農村・農家を一刻も早くなんとかしようという緊迫さも犠牲的精神の発揮もそこからはあまりは感じ取れない。また、すぐさま『農民芸術概論綱要』の完成に邁進しようとしていたのかというとその想いも同様あまり感じられない。一方で、賢治は下根子桜に移ったからといって一年中花巻に居るつもりもなかったようだし、稲作指導や肥料設計なども行いたいなどとは当時公言していなかったということにもなる(内心考えていたのかも知れぬが)。
 残念ながら、『新しい農村の建設に努力する』となってはいるものの、農民達のために教師という職業をなげうっていま困っている彼らのために直ぐさま粉骨砕身しようとしていたという想いがひしひしと伝わってくるような記事ではないような気がする。
 どうやら、大正15年4月から始めた賢治の下根子桜の営為はそれほど周到な準備をした上のものでもなければ、熟慮に熟慮を重ねた末の新たな決意の下に始めたものでもなかったような気がしてならない。

(2) 昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事
 では下根子桜に移ってから10ヶ月後の賢治はどうだったのだろうか。そのことは同じく『岩手日報』(昭和2年2月1日付)の次のような報道から窺えるようだ。
 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
 花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
<昭和2年2月1日付『岩手日報』より>
 というわけで、前年4月の見出し『新しい農村の建設に努力する…』と同様な『農村文化の創造に努む』という見出しの記事であるが、その中身に変化は起こっていたのだろうか。

 さて、昭和2年2月頃の賢治は何を考えていたか。この記事からは、賢治はあらたなる農村文化の創造に努力するために、
 ⑥羅須地人協会を設立して悪弊となっている都会文化に対抗して農民の一大復興運動を起こす。
 ⑦田園生活の愉快を味わい、原始人の自然生活たち返ろう。
 ⑧収穫時には収穫物を互いに持ち寄って物々交換を行う。
 ⑨農民劇・農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続けて行く。
ということ等を考えていたということが窺える。ちなみに、当面
  ・農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく準備中。
  ・協会員全部でオーケストラー組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画中。
である、という段階にあったことも知れる。

(3) 4月から翌年2月までの間の進捗
 一方で、賢治が下根子桜に居を移した当初の大正15年4月頃に考えていたことは〝①~⑤〟などであったが、それから約10ヶ月経った昭和2年2月頃に考えていたことの間にはどれほどの変化や進捗があったのだろうか。
 これらの期間の間の大きな変化はもちろん「羅須地人協会」を設立したことではあろうが、その外には 
 ①→⑥:①は当時農村は疲弊した状況にあるという認識であり、⑥はその原因は専ら退廃した都会文化にあるという認識をそれぞれ述べている訳でこの二つの間における認識の程度の差はあまりなく、その変化もあまりなかったと思われる。
 ②   :何ら実行されていなかったはずである。
 ③→⑦:生活=芸術の域までは殆ど達していなかったであろうが、そう願っていたことは確かであろう。
 ⑤→⑧:収穫物の物々交換を行ったという記録や証言はないはずである。
 ④→⑨:当初は幻灯会・レコードコンサートを考えていたが、翌年2月頃になると農民劇・農民楽団の方に変化していた。
ということなどが言えるだろうか。
 ということは、先の2回の新聞報道から判断する限り、『農村文化の創造に努む』ための方法論としては〝④→⑨〟以外あまり変化も進捗もなかったということなのだろうか。

(4) 賢治は何を為したのか
 ひるがえって、賢治は下根子桜に住んで一体何をしたかったのか私にはあまりそこが見えてこないが、『岩手日報』の報道に依れば、
   『新しい農村の建設に努力する』……☆
ための方法論としてはそこへ移り住んだ当初
   ④実践としては幻燈會(毎週)、レコードコンサート(月一回位)を行いたい。
ということを考えていて、これらに類した実践を多少は行ったことであろう。
 しかし、年が明けて昭和2年の2月頃には
   『農村文化の創造に努む』……★
ために   
   ⑨農民劇・農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続けて行く。
ということを考えていたということが窺えて、その具体的な方法論としては
   ・農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演。
   ・協会員全部でオーケストラー組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す。
ことを目論んでいたということのようだ。
 ということは、この頃になると賢治は幻灯会やレコードコンサートによるよりは、『現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こす』ための方法論としては「農民劇・農民音楽」による方が効果的であろうと判断し、方向転換をし始めたということが言えそうだ。
 一方では、この方法論を支える芸術論としての『農民芸術概論綱要』もこの頃となればほぼ出来上がっていたといわれているようだ。さすれば理論も方法論も出揃った訳だから、後は実践あるのみ。ところが残念ながら、どこまで農民劇を準備をしたかはわからぬが少なくともそれを試演したということは一切なかったようだし、昭和2年2月1日のこの新聞報道を境にそれまでにある程度は練習してきた「オーケストラ」の方は急遽解散したようだ。
 つまるところ、〝☆〟や〝★〟のために賢治が下根子桜で行おうとしたことと、為したことは大体その程度のものであったということになるのではなかろうか。

(5) 松田甚次郎に強く勧めた農民劇
 とはいえ、賢治自身は下根子桜で実践できなかった農民劇を松田甚次郎に強力に勧めたことは周知の通りである。『土に叫ぶ』の中で松田甚次郎は、賢治から
 先生は厳かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。
と述べており、さらに引き続いて次のように、
 真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。
<ともに『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p~より>
と諭された語っているし、甚次郎は実際この賢治の〝訓へ〟の通りに故里新庄に帰って豪農の息子なのに小作人となり、農村劇(農民劇)を長年上演し続けた。まさしく「賢治精神」を松田甚次郎は賢治に代わって実践したと言えなくもない。

 しかし一方で私はここに至って、甚次郎がここで述べている通りにはたして賢治は諭したのだろうかという疑念を抱き初めている。この時点では賢治自身は農民劇の上演を全く諦めてしまっていて、当時賢治の実家には沢山の小作農地<*1>があるというのに自分は小作人にならずにいる賢治が、初めて賢治の許を訪れた若者に対してこんなことがはたして言えるのだろうかという疑念を。普通であればこのような〝訓へ〟方は身勝手なものであり、まして求道的な生き方をしたといわれているあの賢治なら自分に対して厳しいはずだから、なおさらそんなことは口が裂けても言わなかったのではなかろうかと私には思えるからである。
 それとも、賢治はそんなことを気にするよりは、この当時は『都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こす』ためには農民劇しかないと思ったが自分としてはその上演を諦めざるを得なかったので、若い甚次郎に己の夢を賢治は是非とも託したかったという想いの方が強かったのだろうか。

 それはさておき、松田甚次郎のこの証言があってもなくとも、「農民劇」というものは農村文化の創造のためにはすこぶる重要で有効な方法論であると当時の賢治は思っていたということは間違いなかろう。
 そして、当時『家の光』等を通じて「農民劇」の普及を強く押し進めていた代表的な人物が他ならぬ犬田卯であり、犬田卯が実質主導していたと考えられる『農民文芸会』である。
 したがって「農民劇」に対する賢治と犬田との、賢治と犬田(あるいは『農民文芸会』)の捉え方はかなり相似性があったということが言えだろう。

2 「農民芸術概論綱要」
 さてでは先の新聞報道以外で、大雑把に言えば「農民劇」以外で賢治が下根子桜で行っていた農民芸術に直接関連するものは何か。それはほぼ、農民芸術の理論化と文学の創作の二つではなかろうか。つまり、「農民芸術概論綱要」と「農民詩」ではなかろうか。
 さて、時代が大正に入るとおびただしい数の雑誌が多くの大衆芸術を生み、「民衆芸術論」をより一層発展せしめた。農民文学運動はそのような時代背景の下に発生してきた(『犬田卯の思想と文学』(筑波書林)49p~より)、と安藤義道氏は指摘している。
 一方、板垣邦子氏は『昭和戦前・戦中期の農村生活』において次のように
 農村文化建設の提唱
 創刊号以降昭和三年頃までの『家の光』は、芸術・娯楽を主な内容とした農村文化問題に力を入れている。この時期、この問題の占める比重は大きく、農民文学・農民美術・農民劇に関する記事は、農民芸術運動を盛り上げようとする意欲を感じさせる。家庭雑誌といいながら、農村青年層を対象とした文芸雑誌的傾向さえある。
 農村の経済的不振、青年男女の都会集中、小作争議の頻発にみられる農村良風俗の荒廃を憂うという立場から、『家の光』は農村文化の建設を提唱する。その趣旨は、農村が独自の立場を堅持し、なおかつ現代文明を摂取して農村にふさわしい文化を建設し、生活の豊かさをとりもどさねばならないというものである。退廃に堕した都会文化への憧憬を捨て、健全な農村文化を築くべきであるという。
<『昭和戦前・戦中期の農村生活』(板垣邦子著、三嶺書房)18p~>
と語っている。
 これらのことから次のようなことが言えないだろうか。この時代は「民衆芸術」が勃興し、それに伴って「農民文学運動」や「農民芸術運動」も盛り上がっていった。そしてそれらは、第一次世界大戦後の不況により農村は経済的な打撃を受けた上に、青年男女の都会集中て農村は荒廃する一方だったから、退廃に堕した都会文化への憧憬を捨てて健全な農村文化を築くべく盛り上がった運動だったということなのだろう、と。そしてそのような運動を進めていったのが『農民文芸会』や雑誌『家の光』であった、と。
 また、この「農民文学運動」や「農民芸術運動」を体系化・理論化しようとした一つが『農民文芸会』の『農民文芸十六講』であり、他の一つが賢治の「農民芸術概論綱要」であると見ることもできるのではなかろうか。もしそうであるならば、この点でも賢治と『農民文芸会』は似ていることになる。
 なお、調べてみると『家の光』のは1925年(大正14年)4月に創刊されているから、賢治が下根子桜に移り住む1年前に既に創刊されていたことになる。また、「農民文芸研究会」は大正13年に結成され、大正15年に『農民文芸会』と改称され、犬田卯が中心となって活動していたというし、『農民文芸十六講』が出版されたのは大正15年10月である。

3 「農民詩」
 さて、下根子桜時代の賢治の創作活動はどのような分野でのそれであったのだろうか。『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)によればその時代に執筆された童話は殆どなく、せいぜいあったとしても〔ある農学性の日誌〕(昭2・8・21日付以後の執筆か)と『なめとこ山の熊』(昭2頃の執筆か)の2作品しかないということになりそうだ。
 一方詩に関しては、詩の創作数を「新校本年譜」を基にして月別に数え上げてみ見ると次のようになる。

<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
特に昭和2年における創作数はかなり多いことが一目瞭然である。
 よって、下根子桜時代の賢治の創作活動は童話にではなくてほぼ詩に限られていたということが言えよう。そしてこれらの多くの詩についてだが、以前述べたようにこの時期の賢治は自分のことを少なくとも「農民詩人」に近いと考えていたと思われるし、私からみればこれらの賢治の詩は、賢治がそう考えたか否かはわからぬが「農民詩」と見ることも出来ると判断している。そしてそれは私だけでなく、佐伯郁郎だってそう認識していたに違いない。なぜならば賢治の詠んだ『春と修羅第三集』所収の詩の多くは、佐伯郁郎が論じている「農民詩」に当てはまると私には思えるからである。そして、佐伯郁郎の論ずる「農民詩」は『農民文芸会』の唱える「農民詩」に他ならないことにも注意せねばならない。なお、賢治の詠んだ心象スケッチや詩がすべて「農民詩」でないことは勿論である。あくまでも下根子桜時代に詠んだ詩の多くが「農民詩」と見られないこともないという意味である。
 一方このことに関しては、以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#40)〟でも触れた次のような伊藤克己の証言からもある程度裏付けられるのではなかろうか。
 ある日、午後から芸術講座(そう名称づけたわけではない)を開いたことがある。トルストイやゲーテの芸術や、農民詩について語られた。したがって私達はその当時のノートへ、羅須地人協会と書かず、農民芸術学校と書いて、自称していたものである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版、昭和14年発行)396pより>
この証言によれば、少なくとも協会員の伊藤克己としては、下根子桜で賢治から「農民詩」についての講義を受けたと認識していたことになるからである。
 よって、下根子桜時代の賢治の文芸における創作活動は、傍から見れば少なくとも『農民文芸会』の唱えるところの「農民詩」を多く詠んでいたと見ることができそうだ。

4 まとめ
(1) 結論
 さてここまで辿って来てみると、賢治の下根子桜時代における文芸活動については次のようなことが言えないだろうか。
 (ア) 「農民劇」に対する賢治と『農民文芸会』の捉え方はかなり似ていた。
 (イ) 賢治の創作の殆どは、『農民文芸会』の唱えるところの「農民詩」とも見ることができる詩の創作であった。
 (ウ) 『農民文芸会』の『農民文芸十六講』と賢治の「農民芸術概論綱要」は通底している。
 (エ) 『農民文芸会』の提唱する「農民文学運動」の有する反マルクス的性格等と当時の賢治のプチブル的思想等は通底している。
     e.t.c.
したがって、もしこのようなことが言えるとすれば、『農民文芸会』の提唱する「農民文学運動」と賢治が〝農村文化の創造に努む〟ために実践しようとしていた事柄とは似ている部分が多いので、
   〝下根子桜時代の賢治〟∽〝『農民文芸会』の提唱する「農民文芸運動」家〟
であると考えられる。簡潔にいえば、
   賢治と『農民文芸会』は相似である。
もう少し丁寧にいえば、
   「羅須地人協会時代」の賢治は実質的には『農民文芸会』の提唱する「農民文芸運動」家の一人であったと見なすこともできる。……♂
のではなかろうか。これが現時点でのこのシリーズの私の結論である。 

(2) 反省
 当初このシリーズは、賢治と『家の光』そして犬田卯の間にはかなり強い相似性があるのではなかろうかと閃いたので、タイトルを「賢治、家の光、犬田の相似性」としてスタートした。ただしいまさらここに至ってこんなことを言うのも恥ずかしい限りだが、このタイトルは不適切だったということをいまは悟りかつ反省している。当初の見通しでは、賢治と犬田卯はかなり相似な点があり、その間を繋ぐチャネルが雑誌『家の光』だと思っていたのだが、そのチャネルは他にもあり、雑誌『早稲田文学』や宮澤安太郎等もあったであろうということを知ったいま、このタイトルの中に『家の光』を入れたのは適切ではなかったからである。
 それではタイトルを「賢治と犬田卯の相似性」とすればよかったのかというと、またそうとも言えなさそうである。それは前述の結論が〝♂〟であるとしたことからも言えるように、下根子桜時代に賢治が行った「農民芸術活動」は『農民文芸会』の提唱する「農民文学運動」そのものであると見ることもできるということがまず第一であり、一番相似性の強かったのは賢治と『農民文芸会』だと私は受け止めたからである。
 もちろん、賢治と犬田卯との間の相似性も強いとは感じたがそれは賢治と『農民文芸会』との間の相似性ほどではないようだ。なぜなら、当時の賢治の創作は殆どが詩であるのに対して犬田卯の創作は小説だったからである。そしてそれ以上に、『農民文芸会』やその提唱する「農民文学運動」は犬田卯が実質的リーダーとして八面六臂の活躍をしていたとはいえ、犬田卯自身は「土の芸術」をその上位に掲げ、「土の芸術」を担うことが出来るのは農民しかいないという強い主張があったからである。当然、この犬田卯に言わせれば賢治は「土の芸術」を担うことはできないことになる。そのような犬田卯だから、当時の賢治の詩を犬田卯は「農民詩」とは見なさなかったではなかろうかと思うからである。もちろん佐伯郁郎や組織としての『農民文芸会』であれば賢治の詩を「農民詩」として認めたであろうが。

(3) 総括 
 さて、今回の結論は〝♂〟となったが、なにもそれは『農民文芸会』の提唱する「農民文学運動」を賢治が換骨奪胎しようとしたということでもないし、またその逆であるということを言いたい訳でももちろんない。また、実際いずれの場合もなかったはずである。あくまでもこれらの二者は、あの時代にあって同じようなことを別々の離れた場所でそれぞれが思い付いて行っていたということであり、そのようなことは過去の歴史でもいくらでもあったことである。そんなことよりは、賢治といえども時代の子であるということを免れられないということを言いたいだけである。
 とかく、賢治は天才だから、あれもこれも皆彼のオリジナリティのなせる技であると思われがちだが、すべてのことがそうであった訳ではなくて中には大なり小なり先人の肩に乗っかっていたところもあるということを言いたいことがまず第一である。そしてその第二は、あることを生み出すとか新たな概念を作るということと、それを体系化したり理論化したりすることとを比べると日本の場合は後者の方が尊敬されがちだが、敬意を表されるのは前者の方であるという国も少なくないということである。例えば、あの当時澎湃として起こった農民文芸運動そのものの方が、その理論を作ることよりも評価されるという見方が存在するということを私は主張したいのである。

 最後に、タイトルを「賢治、家の光、犬田の相似性」としたことは羊頭狗肉の誹りを免れられないが、私自身は内心今ほっとしている。それは下根子桜時代の賢治は『農民文芸会』の提唱する「農民文芸運動」家の一人として見ることも出来るということを確信したので、当時の賢治は室伏高信や土田杏村からの影響を受けていたということも指摘されているようだが、そこまでの影響はないにしても、白鳥省吾に対してよりは『農民文芸会』や佐伯郁郎に対して、そしてそれ以上に犬田卯に対して賢治はかなり意識せざるを得なかったのであろうことも確信できたからである。そしてもしかすると、この意識があの「面会謝絶事件」に繋がったのではなかろうかという一つの可能性が見つかったからである。賢治が会うことを約束しておきながら直前に面会を謝絶したくなったのは、実は白鳥省吾に対してではなくてそれよりは佐伯郁郎に対してであり、そしてそれ以上に犬田卯に対してであったのではなかろうか、という。

 以上でこのシリーズ〝賢治、家の光、犬田の相似性〟も終わりにしたい。

<*1:投稿者註>
 「岩手県大地主調査表(昭和12年)」
       所有耕地田(町)、同畑(町)、 合計(町)、小作人数(人) 、 職業
 宮沢商店     24.6  、 26.8 、   51.4 、   57   、 商業
 宮沢善治     46.9  、 13.2 、   60.1 、   100  、 旅館業
 宮沢直治     62.9  、 23.7 、   86.6 、   102  、 商業 
   <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学研究会、昭和42年11月)16p~より>

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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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