1963年の秋、チャターマーク発生のメカニズムを研究していたこのグループから頂点シールの形状を工夫して周波数特性を変えてみてはどうかというアイデアが出された。
金属シールの先端近くにヨコ孔をあけ、さらにこれと交差してタテ孔をあけた。
早速、試作されてエンジンに組み込まれ、テストベンチで回した。
クロスホロー(cross hollow)と呼ばれるこのシールの成果を、固唾をのみながら見守る一同の前 . . . 本文を読む
松田恒次社長がいかにロータリーエンジンに熱を入れているかは、月に一回は報告会を設けさせたことで明白であった。
山本健一は、「途中でイヤになって、もううまくいかないので換えてほしかったわけで、どっか左遷でもいいから。だけどボクも意地っ張りだから、社長、どうもうまくいきませんから、職を変えてくださいなんて、言いたくない。社長が怒鳴って、なにやっとるんだオイだったら、そうですか、じゃあって相手の責任に . . . 本文を読む
毎週、月曜日の朝、山本健一ロータリーエンジン研究部長と幹部とのミーティングが行われる。
実験は土曜日から徹夜でズーッとアペックスシールの試作品を回わして、その結果を月曜日のミーティングで技術報告。どう?って言ったら、いやダメでしたと言う。これの繰り返しであった。何をやっても結果がでない。これの連続で、四十七士は、こんなことをいつまでやればいいのだろうかと思った。
新しいことに挑戦する以上は、こう . . . 本文を読む
広島大学付属高等学校を卒業、上京して早稲田、慶応を受験、見事に失敗。翌日から予備校の受験にはんそうした。有名受験校である駿河台予備校、城北予備校はへたな大学より難しい、駿河台予備校は主に東京大学や東京工業大学などの国立大学を狙う学生、城北予備校は早稲田・慶応といった私学を狙う学生に人気があった。両方に受かったが城北予備校にした。入学手続を終えて予備校の校庭に出たとき、さくら美しく咲き誇っているのに . . . 本文を読む
7.悪魔の爪あと チャターマーク
ロータリーエンジン実用化開発の初期、四十七士の前に立ちはだかった最大の難関は、例のチャターマークであった。
ローターの三つの項点シールが常にまゆ型のローターハウジングの内面に密着し、その壁面をこすりながら、ものすごい速度でまわる。
ハウジングの内面は硬質のクロームメッキがほどこされているが、ものの数時間の運転でその表面がガタガタになる。初め鏡の様な表面がまるで . . . 本文を読む
そうした苦労をしていたとき、ロータリーエンジンが東大の富塚名誉教授の批判を受けた。開発陣が現実にチャターマークに悩んでいたとき、それをズバっと富塚名誉教授は言った。
出来たばかりのロータリーエンジン研究部は若い連中が多かった。富塚名誉教授は当時、内燃機関の神様的存在で、あの人がああ言っているんだから、これはモノにならんのではないか、大丈夫かな、と右往左往はじめた。
そこで、山本健一は、「富塚名 . . . 本文を読む
6.会社の独立のためという志
そうした時期、松田恒次社長がやってきて、「山本君、このロータリーエンジンっていうのは、うちだけじゃできんと思う、協力メーカー、部品メーカーさんの協力がいると思うので、お願いしたいんだ、君の考える、エンジン関係の協力メーカー、部品メーカーの主だったところの役員の方々に集まってもらって、懇談会を持ちたいので、購買の方と話をして段取りしてくれ」と指示した。
三菱電気、電 . . . 本文を読む
ロータリーエンジンの開発が本格的に始まった。当時の開発は未知のものへの挑戦から来る苦しさ、油まみれで汚い、残業・徹夜のきつい疲れ、いわゆる3Kである。現代の若者から嫌われる3Kも当時の若者にとっては苦ではなかった。こうした未知へチャレンジが面白くてたまらななったのである。
そこには、良い地位えて沢山の給料を得るという考え方は存在していなかった。
未知のものへの挑戦が己を高ぶり、高揚させていく。
. . . 本文を読む
「材料、これが非常に大きかった。材料屋に修羅場に入れといったときに、材料の連中がエンジンの勉強をする。そして提案をする。ここはこうしたほうがいいんじゃないかと。部品の材料以外を含めて。こんどは機械屋が、電気屋が、材料を研究して、材料はどうだ、これはどうだとかやりだす。これは非常に日本的だ、自分のカテゴリーを超えて、内政干渉というか、お互い提案しあう。そういう雰囲気ができてきたことが、非常によかった . . . 本文を読む
当時、設計部の次長であった山本健一に、松田恒次社長より西ドイツ NSU社出張の声が掛かった。
1960年 8月のことである。
山本健一は、ロータリーエンジン開発委員会に名を連ね、半ばオブザーバー的な存在であった。
「確かに高速高馬力のすばらしさは認められるが、低回転におけるじゃじゃ馬のような振動、白煙をもうもうとあげ常識はずれのオイル消費、チャターマークによってハウジング内面のメッキが剥離して傷 . . . 本文を読む
4.研究開発開始
技術団は、帰国すると、チャターマーク問題を抱えたロータリーエンジンを導入したことに対応するため、設計、材料研究、生産技術、生産、実験部門から人材を集め、ロータリーエンジン開発委員会を設置し本格的な研究開発に入った。
委員会活動の総括者は、技術担当副社長の村尾時之助、実務の長は設計部長の河野良雄だった。
こうした時期、一人の青年、達富が「マツダがNSUとロータリーエンジンで技術 . . . 本文を読む
3.技術団NSU社訪問
1961年7月、本契約の政府認可が下りるや、副社長松田耕平をチームリーダーとするメンバー8名の技術団がNSUに派遣された。
黒田は、バンケル・ロータリーエンジン(以降ロータリーエンジン)が運転台で運転されているのを見せてもらった。新聞の断面作動図しか見てなくて、どちらかと言えば非常にネガティブな感じを持っていたのだが、運転台の上で回っているエンジンを見て、ショックを受け . . . 本文を読む
2.NSUと技術提携
マツダにとって幸運だったののは、1960年5月、駐日西ドイツ大使ウィルヘルム・ハース博士の本社訪問を得たことであった。
大使は、工場見学に続くレセプションなどマツダ側のもてなしに感謝し、返礼にマツダ側の要望を尋ねた。
松田恒次社長は、バンケル・ロータリーエンジン・ライセンス取得の激烈な競争で、マツダは苦闘しているという話題を出した。大使はマツダのライセンス取得の力になること . . . 本文を読む
黒田はエンジン担当者として、従来の往復エンジンの良い点、悪い点もよく理解しており、このロータリーエンジンの断面作動図面を見て、まゆ型をした空間の中に三角形のおむすびが回っていて、しかもエンジンといえば、気密ということが一番重要な課題であるのだが、それがこの三角形の頂点で、高圧縮されたときに、はたして気密が保てるのかどうか疑問に思った。
それがエンジンとして、大きな宿命的な大きな問題を抱えているとい . . . 本文を読む
世の中はリーマンショックによって引き起こされた100年に1度の大不況の真っ只中である。高度成長、ジャパンアズナンバーワン、バブル経済などで、日本の若者は己の目指す道を見失ったようである。日本は明治の開国依頼、輸出すべき資源を持たない国で、国民の知恵で輸入した原材料を加工して輸出して高度成長をとげるといった技術立国が、国の基本であった。
ロータリーエンジン物語の始まる昭和30年代は、もはや戦後は終 . . . 本文を読む