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ロータリーエンジン開発物語 その3

2010-01-03 06:03:59 | 車・バイク
2.NSUと技術提携

マツダにとって幸運だったののは、1960年5月、駐日西ドイツ大使ウィルヘルム・ハース博士の本社訪問を得たことであった。
大使は、工場見学に続くレセプションなどマツダ側のもてなしに感謝し、返礼にマツダ側の要望を尋ねた。
松田恒次社長は、バンケル・ロータリーエンジン・ライセンス取得の激烈な競争で、マツダは苦闘しているという話題を出した。大使はマツダのライセンス取得の力になることを約して辞した。

マツダを辞した大使は、当時のマツダ役員と関係の深かった、広島エリザベト音楽大学初代学長エルネスト・ゴーセンス神父に会った。
広島エリザベト音楽大学は、幟町広島平和記念聖堂に隣接するカトリック系の学校であった。幟町広島平和記念聖堂は、原爆の復興の象徴として世界からの支援で建造された。その教会鐘楼の「平和の鐘」が西ドイツのアデナウワー首相を通して送られてきて、その世話を大使がしたという経緯からの再会であった。
マツダ役員の依頼で、アデナウワー首相と親交のあるエルネスト・ゴーセンス神父が、マツダのバンケル・ロータリーエンジン・ライセンス取得の協力を手紙にし、大使に託した。
西ドイツのアデナウワー首相が仲立ちとなり、NSU社に話が伝わった。
その2か月後の1960年7月、ハース博士は、NSU社が契約について話し合う用意があるというネッカースルムからの吉報を届けてくれた。

松田恒次社長は仮契約調印のため直ちに西ドイツに飛んだ。そして、それは、生涯初めての海外旅行であった。

1961年2月、NSU社とライセンス契約結んだ。

しかし、当時の日本政府は、海外のメーカーとの資本提携や技術提携に慎重で、マツダのバンケル・ロータリーエンジン・ライセンス契約の政府認可をもらうのには難しい問題があったが、広島出身の時の総理、池田勇人の尽力で、1961年7月本契約の政府認可が下った。

120社の候補者の中から、マツダがライセンシーの一つに選ばれた。
日本で選ばれたのはマツダとヤンマーディーゼルであった。ヤンマーディーゼルは汎用エンジンとしてロータリーエンジンを導入するという契約を結んだ。第一次ライセンシーとしては、自動車関係、汎用関係、それから航空機など21社が選ばれた。まだ、バンケル・ロータリーエンジンというのがまだ完成されているわけではなので、21社が力を合わせて共同開発をスタートさせることになった。
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