「パパは知っていたの? もう、ずっと前からママが若い男と数か月に一度、会っていたこと・・・?」
パパが亡くなる数日前、地面に叩きつける大粒の雨の音を暗闇で聴きながら、目を伏せたまま聞いてみたことがある。
35歳のママがハタチの男に会う― 何も知らずに ただ、純な青年のようにママだけを愛しているパパ。 パパの命は、そう長くは無いとお医者様から告げられた時、私はパパの残された時間を本人に告げることよりも、ママの密会を打ち明けるべきかどうか、ずっと考えていた。 このまま信じさせてあげた方がいいの? 知ったらパパは苦しい? でも、何も知らずに逝ってしまうパパを思うと・・・・今夜も許しがたい感情でいっぱいになる。雨は光線のように斜めから病室の窓をめがけて更に激しく降っていた。
パパは疲れたように、それでも残された力を振り絞って身を起こそうとする。私は慌ててパパの枕元へ駆け寄る。 無理しちゃ駄目よ、パパ。 あっ、ごめんなさい。私よね。パパの心を乱したのは・・・。 パパは顔を上げ、私に 「すまない」と、言ったまま、病室の天井を見あげた。 その目は目薬を差したあとのように、赤く滲んでいる。 娘の前で一滴も涙をこぼすまいと上を向いたまま必死に瞬きするパパ。 男にしては長いまつ毛が しんなりと濡れている。 私はパパに似たんだ・・・・。 この目も、まつ毛も・・・パパ似で良かった・・・・ママじゃなくて良かった・・・・。
「知っていた・・・よ。加奈が知っているのに、パパが気が付かないとでも、思ったのか?」
「・・・・・」
全身に電気が走る。パパを支える腕がぴくぴくっと動くたび、私の動揺が病床にあるパパに伝わってしまうんじゃないかと、不安が押し寄せる。でも、駄目だ、私。普通の表情って、どうやって作るんだった? どんな顔をすればいいんだっけ? 男の子をターゲットにして、これまでずっと鏡の前で特訓してきたのに。肝心なときに役に立たない・・・。
パパ! パパ! 大好きなパパ!! パパは知っていたんだ。 知っていて、知らんぷりしてきたんだね。 でも、どうして? ママはいつも、パパが出張の日に、若い男と会っていた。
「今夜は仕事でママも遅くなるから。 夕飯は、レンジで温めて一人で食べて頂戴。先に寝ていて」
小学生の私には何も気付かれてはいない。 ママは、そう信じて疑わなかったようだ。でも、大人が思うより、子供は勘が鋭いのよ。 職場の後輩ってごまかしても、特別な仲だって、会った瞬間に分かった。 ママは朝にならないと帰宅しなかったこともー。こんな嵐の真夜中に目が覚めて、空っぽのママのベットに潜り込んだことだってあるの・・・。
私が考えていることを見透かしたように、パパは口を開いた。
「パパだって分かるさ。 愛しているひとが誰を想い、見ているかくらい。ごめんな、加奈。 誰よりも加奈に寂しい思いをさせてしまった・・・・すまない」
すまない・・・すまない・・・・すまない・・・・。
本当に「すまない」ことをしたママは何故、一度も私達に謝らなかったの?
パパが逝ってしまう前に、どうして?
私は中学から寄宿舎に入った。時々会うと、ママはいつも私を褒めてくれる。
「ほら! あの外人さん、貴方を見ているわ。きっと加奈が日本人離れして目鼻立ちが整っているし、可愛いからよ! ママに似たのね。 あの人に似なくて良かったわ」
「・・・そう?」
私は すまして頷く。 そうかも・・・知れない。 私は確かに可愛い。時々、鏡を見て、自分の姿に惚れぼれするほどだ。 どの角度で笑うと、どの付近にエクボが出来るか、ちゃんと計算済みだ。実際、私に微笑みかけられて私を好きにならない男なんて・・・いない、と思う。 でもね、ママ。この長いまつ毛だけは・・・パパ譲りよ。貴方に似なくて良かった。すべて似なくて良かった・・・。 ほんとに・・・・良かった・・・・。
パパの死後、私が親元を離れ、中学で寄宿舎に入り、一年もしない頃、ママは再婚した。
相手は あの若い男だ。
ママには、「パパと私」っていう家族がいることを知っていて、ママを誘惑した若い男!
大人は勝手だ。 想像力が著しく欠落している。
ソウゾウリョク・・・・!
ケ・ツ・ラ・ク・・・・!!!
家族持ちのママをパパから奪って何が残るの? ママの子供はどうでもいいの? 私とパパが泣いても、苦しんでも平気なのね?
あの男が憎い。 ママが・・・誰よりも憎い。
私は、ママの再婚後、全く自宅には近付かなくなった。寄宿舎生活、大学の寮生活、そして都会での就職・・・・。ママにも男にも会わないまま、十数年という歳月が流れていた・・・・。
小学生だった私は やがて22歳になり、男は35歳の中年に差し掛かっていた。
あの男は覚えているだろうか? 私のママの旧姓を? いや、パパの苗字を__?
私は今もパパの苗字を名乗っている。旧姓に戻ったママの苗字ではなく・・・。
田中加奈。パパの娘・・・。
「加奈ちゃん! 仕事のことで何か困ったことがあったら、何でもオレに言ってくれよ。力になるから! オレにまかせて!」
「はーい!」
(ママにも、きっと、こんな風に、相談を持ちかけて欲しいって言ったんだ。彼を信用するように・・・・?)
「加奈ちゃん、今度、美味しいものでも食べに行こう。いつも頑張って仕事をしてくれる御礼だよ」
「う~ん・・・・。 じゃぁ・・・お言葉に甘えて!」
(ママのことも、きっと、こうやって誘ったのね?)
「加奈・・・オレは加奈を愛してる・・・」
「私も・・・よ」
(ママにも、こんなキスをしたんだろうか?)
「加奈・・・・・。 結婚しようか。 今の妻とは別れるから」
(今の妻って・・・ママのこと? 裏切るのね。 ママが私達を裏切ったように)
「いいわよ。 結婚しましょう。早速だけど、私のママに会ってくれる? 貴方の事、紹介したいの。もう何年も連絡とってないんだけど・・・・。貴方との結婚を機に、ママともう一度、仲良くなりたいのよ」
「そりゃ良かった。オレとの結婚で、絶縁状態だった母娘が再び仲良くなってくれたら・・・言う事 無いな!」
彼は上機嫌で笑う。
そうなの? 本当に言うこと、無いの? 何も?
「でも、貴方の奥様には何て言うの? ちゃんと別れられるの?」
「別れられるさ。妻はもう、50近い年齢なんだよ! オレだってまだ、35だ。男の35は現役だよ。しかも君は若くて綺麗だ。妻は引くべきなんだ。オレと君の幸せのために・・・ね!」
オレの幸せを願うなら、黙って別れてくれ! この一言で、片付くと本気で思っているらしい。
この男の欠点だ。
想像力が著しく欠けている!
この決定的な欠点は、あの頃と ちっとも変わってはいない。 哀しいほどに。
ママにパパを裏切らせ、私とパパを不幸にした男。 心底、憎い男。 この男に抱かれた私・・・。 ただ、復讐の為だけに・・・。
この不幸な男は、自分が一つの家族の平凡な幸せをすべて奪い取った結果、パパと私には何が残ったかなんて、これっぽっちも想像出来ないらしい。
私が分からせてあげる。
密会を黙殺してきたパパと私の辛さを今、分からせてあげる。
黙って死んでいったパパの苦しみと悲しみを・・・
分からせてあげる。
この日の為にだけ、生きてきた私の・・・・
憎しみを今こそ貴方に ぶつけてあげる・・・・
ママとは十数年ぶりに九州の叔母の家で落ち合うことになっていた。この近くまで来る用事があるから・・・・と。ギーッと軋む玄関の戸。赤茶けて、さび付いている。かみ締めるように石段を登る。網戸だわ。座敷の奥に人の気配がする。あの輪郭は・・・叔母じゃない。
「ただいま~! ママ、お久しぶりね。約束した彼を連れて来たわ。結婚するのよ、私達」
ママは・・・
エプロンを外しながら玄関口へ現れたママは、年齢にしては相変わらず美しかった。
娘の私でも、一瞬、息を呑むほどだ。
ママは懐かしさで いっぱいといったような、ほころんだ笑顔を見せた。
タクシーから降りてくる彼に気付くまでは・・・・!
「あっ・・・・」
どちらが先に声を上げたのだろう・・・?
私が一つの点となり、彼とママの中間に立っている。
三角関係・・・・不倫・・・・・世間では何とでも言うだろう。
ママ・・・・。
ずっとママに言いたかった。
たった一言。
貴方は 「バカ」だって。
男にも 言いたかった。
「バカ」 私は貴方なんか愛しちゃいない。
パパと私とママの関係をぶち壊した貴方に仕返しする為にだけ・・・
今日まで生きてきたのだから。
これから、どうする?
ママと不倫して結婚して。
あれから十年以上が経って・・・。
今度は私を誘惑して結婚するの?
ママに教えてあげる。
不倫して結婚しても、相手に再び不倫されるってこと。
知らなかったの?
いい年齢(トシ)して。
意外と幼いのね!
あなた達・・・二人共・・・・ほんとに 「バカ」なんだから!
おわり