アゲ寿司を作っていて頭に浮かんだ。七歳の端午の
節句、父母がチマキを作っていた状況を。当時は土間
で竈(くど)の時代。
いつもは母親は体が弱いので父親が朝ご飯を準備。
朝食後、父は朝の始発で仕事に行き、夕方には帰った。
当時は何処にでもササの葉があった。
それが私がご飯の支度をし始めたきっかけ。息子も私の
仕草を見て男の調理が当たり前と思ったのだろう。
そんな息子を私は犠牲にした。成人させる前に亡くした。
私は成人してもインスタントのラーメンしか作れなかった。
一から妻に教わった。妻は糸球体腎炎で結婚後透析。
当時は医療費が毎月五十万円かかった。その工面に命懸け。
結果として朝から夜を徹して仕事。夜は図面をひき、昼は
その工事の指揮をした。丁度世の中は公害で大騒ぎ。
その施設の工事で押しまくられた。
今は昔の話し。会社も整理して全てを処分。全ての図面も
忘れた。何も残っていない。
頭の中は空っぽ。家族の命を守るだけに努めた。
そのツトメも終わりいつ逝ってもよい状態。ただ弾みで妹
夫婦の一人っ子、姪を預かった。居候郎としている。
これだけが悩みの種。