■炎のクリエイター日記

美味しいもの・史跡が持つ歴史のご紹介。お料理はプロ・自作を問わず鮮明な画像で、どんな素材も関西仕立てにクリエイトします。

「■炎のクリエイター日記」フォトチャンネル一覧

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上田城 ~真田色は残っているのか仙石上田城~
信州の「上田城」は、真田昌幸によって築城(1583年)された、難攻不落の城として知られている。太郎山・大峯山・虚空蔵山などを背に、南面は千曲川を堀に見立てた自然の要害となっているが、いざ戦になると敵の進入路である神川沿いまでせり出し陣を張り、神川の上流の堰を切る作戦も使って迎え撃ったようだ。 千曲川の緩やかで深い分流があった南面は、崖面がもろく崩れやすい性質だったことから、築城以来は常に石垣補強や保護対策が行われ、結果的に見事な石垣が設置されて残る形となった。この厄介な場所を「尼ヶ淵」と称したことから、上田城は別名「尼ヶ淵城」とも呼ばれ、江戸時代から残る「西櫓」と、明治に復元された「南櫓」が防御の要だったようだ。 二度に渡って攻め入った徳川軍を凌ぎ切った「第一次上田合戦(1585年)」と「第二次上田合戦(1600年)」は、知っておきたい実戦の歴史である。この戦の采配は、父「真田昌幸」が、長男「信幸(信之)」・次男「信繁(幸村)」の、二人の息子を従えて戦勝したとある。但し第二次には、信幸は徳川に加勢したものの、それは昌幸の真田家を守る策だったと伝わる。 関ヶ原の合戦後「真田上田城」は、徳川の腹癒せで徹底的に破却され、残念ながら真田色はお城の縄張り以外は一掃されたとある。その後の城主には、徳川に加勢した長男 真田信幸となり、さらに豊臣系出身の仙石氏が三代に渡り城主を務めたようで、仙石氏時代に昌幸時代の備えに沿って、7基の櫓と2基の櫓門で防御力を高め、仙石上田城を完成させ現在に残る。しかし、当時の櫓でさえ「西櫓」のみが残っただけで、残念ながら真田色は更に薄くなった。
更新日時2018-07-07 14:41:42
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タグ 上田城   真田昌幸   難攻不落   千曲川   尼ヶ淵城   第一次上田合戦   第二次上田合戦   真田信幸   真田信繁   幸村  
ch 415191
松本城(国宝)~現存する連結複合式天守閣の持つ意味~
長野県松本市には、現存天守閣を有する「松本城(まつもとじょう)」が、日本アルプスの山々を背景に、戦国時代特有の黒色を基調としたコントラストが映えて、見事な景観を披露している。五重六階建造の連結複合式天守閣としては、日本最古の安土桃山時代末期~江戸時代初期の建造と見られている。 建造当時から永年にわたり「深志城(ふかしじょう)」と呼ばれていた松本城は、国内現存天守閣12城の中でも、姫路城・犬山城・彦根城・松江城などと共に、国宝五城に指定されている。感無量な心境で「連結複合式天守閣」を眺めれば、大天守に寄り添う乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の総合的な雄姿は、実にアンバランスだ。 お城の象徴である天守閣は連結複合式で、敵を迎え撃つ実践的な「櫓」や「各種狭間」や「石落とし」など、戦国時代の騒乱の渦中を守り抜く工夫が施されているにも拘わらず、一切の防御に不向きで窓などが開放的な風流な遊興じみた部分での工夫がある「月見櫓」が両立されている。従って乱世から泰平の世の中へ移り変わる中で、時代の流れに応じて活躍したお城だと推測できる。 松本城の歴史は、信濃の守護だった小笠原氏によって深志城が築城され、武田家馬場氏、織田家木曾氏、上杉景勝氏、徳川家小笠原氏にいったん戻るも、松本城と名を改めてからは、豊臣家石川氏、初代の小笠原氏、徳川家松平氏・水野氏らが、転々と城主を入れ代わり立ち代わりで担ったとある。 明治30年頃に、天守閣が大きく傾いて「松本城」最大の危機を迎えたが、地元保存会の尽力で明治と昭和の大修理を経て、堂々とした天守閣を今に残す歴史がある
更新日時2018-07-06 14:18:57
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タグ 松本城   安土桃山時代   現存天守閣12城   国宝五城   連結複合式天守閣   乾小天守   辰巳附櫓   月見櫓   深志城   小笠原氏  
ch 397066
丹波亀山城~光秀の夢が渦巻く城址
信長の天下布武の号令に合わせ、明智光秀が丹波攻略の拠点として「丹波亀山城(現亀岡)」は築城された。本能寺の変の際には、光秀の軍勢はここから中国毛利攻めに向かって進軍する予定を、「敵は本能寺にあり」と本能寺へ向かったことで有名だ‥‥って、あの名言はNHKの大河ドラマが創作したものだが、妙に解りやすいので敢えて引用した。 信長没後は、豊臣の支配を経て、徳川の江戸時代には天下普請により、藤堂高虎の縄張りで大修築が行われたのが今も姿を残す「丹波亀山城」で、天守閣は3層から5層5階の立派なものに改築され、3重の堀を持つ城下町が整備された記述がある。明治の廃城令で建物は破却、土地は新興宗教団体が買収し、石垣の積み直しなどが行われ、当時の遺構は壊された。 本丸の方角へ進もうとすると、掘り切りの名残を残す石垣を発見。尾根を仕切るように作られた堀を堀り切りと呼んで、敵側の攻撃をここで防ごうという仕掛けである。丹波亀山城跡の天守閣や石垣は、明治の廃城令に従った破壊などがあって失われているも、いま見られる石垣は、藤堂高虎の監修によるものが僅かに残るのと、戦後に新興宗教の信徒達の手により復元・積み直されたとある。 本丸から更に奥へ進むと、天守台の石垣が待ち受けている。下3段程度は築城当時の石積みが残っていたというが、最上段のそっくり返る藤堂高虎積みは、古さや馴染み具合から、当時の現存石垣積みであると推測できる。素人衆の信徒達が積めるものって、この庫裏の珍妙な石垣くらいだろう。天守台跡には、明智光秀手植えのイチョウがあるというが、新興宗教の聖域とやらに阻まれて確認はできなかった。 亀山城の本筋とは逸れるが、皆さんはどうも「明智光秀公」を勘違いされている節がある。信長への謀反も、冷遇されたからと思っている方が多いと思うが、ワシの見解は信長による比叡山に続く「高野山の焼き討ち」と、四国を制圧し下積み時代は光秀と親交もあった「長曾我部元親への四国攻め」を阻止したかったのが真の狙いだったと思う。それを実証される記述もチラホラ発見されているにも拘わらず、大河ドラマには反映されない。
更新日時2017-07-13 13:11:53
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タグ 丹波亀山城   亀山城   藤堂高虎   新興宗教   明智光秀   謀反   高野山焼き討ち   長曾我部元親   四国攻め   亀岡  
ch 370372
玉城(たまぐすく)城跡 ~残された一枚岩を刳り抜いて造られた城門~
沖縄では、お城のことを「ぐすく」と読むが、あの甲子園で有名になった豊見城高校も、実際の市となれば「豊見城市(とみぐすくし)」と読むのは、こちら本土の方にはあまり知られていない。沖縄本島南部に位置する「玉城(たまぐすく)城跡」に寄ってみると、規模こそ小さいが自然と目を引く本丸への城壁は、ほぼ完全に近い形で残っており、自然の一枚岩を刳り抜いて造られた城門が特におもしろい。そんな主郭跡の城壁・石敷などの遺構も石垣フェチとしては見どころ充分だ。 台地上のさらに高い天然の要害に築かれた「玉城(たまぐすく)城跡」は、石垣の積み方から約600年前のものと推定されている。主郭跡だけは完全な形で残っているが、沖縄地上戦後の米軍統治下で、二の郭・三の郭の石垣を荒らされ、建築用石材に崩され利用されてしまっているのが残念で、米軍は沖縄の心や人だけでなく史跡も破壊していったのだ。 唯一残されている本丸跡には、琉球開闢の七岳の一つとされる「あまつぎ御嶽(うたき)」があり、玉城城跡は別名アマツヅ城とも呼ばれ、巡礼行事の聖地となっている。沖縄のぐすくと呼ばれるお城は、単に琉球国の軍事的なものと言うより、祭祀的な性格も兼ね備わっていて、宗教的要素が特に強かったと考えらる。本土のお城とは少々違った観点での城づくり・・・ワシ自身、常識にあてはまらない「沖縄式ぐすく」には少々戸惑った感じもある。
更新日時2016-06-08 02:10:36
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タグ たまぐすく   玉城城跡   自然の一枚岩を刳り抜いて造られた城門   天然の要害   あまつぎ御嶽   アマツヅ城   宗教的   沖縄式ぐすく  
ch 364089
沖縄 中城跡(なかぐすくあと)~石垣に見る技術水準の高さに驚嘆~
沖縄本島の城は「ぐすく」と呼んで、あの高校野球で有名だった豊見城(とみしろ)高校などを始めとする市は、豊見城市(とみぐすくし)と読む。前置きはこのあたりにして、石垣の積み方が素晴らしく世界遺産にも指定されている「中城跡(なかぐすくあと)」は・・・沖縄を見渡せる立地の、標高約160メートルの丘陵上にあり、南側丘陵を天然の要害とし「ぐすく」の中でも遺構が特に残っていることで知られている。一の郭に立つと西に東シナ海、更に東に中城湾(太平洋)まで見渡せる眺望は素晴らしい。 14世紀後半頃までに「先中城按司(さちなかぐずくあじ)」が、数世代にわたり南の郭・西の郭・一の郭・二の郭の主要部分を築き上げ、後に「護佐丸盛春(ごさまる せいしゅん)」によって、三の郭・北の郭を増築され現在の形が完成したようだ。増築された部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で、裏門以外に一の郭の城門がアーチ式となっている。 中城城は、連郭式の山城で六つの郭で構成されている。城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、石垣には野面積み(南の郭)・布積み(豆腐積み)・あいかた積み(亀甲乱れ積み)が見られるような、石垣ファンにすれば一の郭は城内で最も広い郭。正殿(せいでん)や、護佐丸が宴を催した観月台があり、西の郭は東西に120mある広場で兵馬の訓練をしたといわれる。南の郭は古い城郭の一つ。二の郭は布積みの城壁で、三の郭は新城(みーぐすく)とも呼ばれ、石積技術の最も進んだ積み方(あいかた積み)によって積まれていて、北の郭は井戸を確保し城郭内に水を確保してあるのが特徴。 薩摩藩の植民地時代を経て、日本に開国を迫った米国のペリー提督が「中城」を見て、建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いたという。そのため、太平洋戦争の沖縄戦でも中城城は被害が少なく、城の石積みが良好に残った城だと言われているが戦後に補修が行われた。お城ファンにとっては、紹介の通り一見の価値があると締めくくりたい。
更新日時2016-03-30 13:42:43
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タグ 先中城按司   護佐丸盛春   相方積み   中城城跡   連郭式山城   野面積み   布積み   豆腐積み   亀甲乱れ積み   観月台  
ch 346969
首里城は・・・琉球国王の屋敷。
首里城は二次大戦の沖縄戦で、米軍の攻撃により重要な建物の、正殿・北殿・南殿などが総て全焼後、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元復旧事業が進められ現在に至っている。世界遺産に「首里城跡」として登録(2000年)され、鮮やかな朱色に彩られたその姿は、沖縄のシンボルといえるだろう。 発掘調査の結果で首里城の建築は、14世紀前半頃と言われ、琉球王国支配のための国王居城として以来、中国・日本・東南アジアなどとの交易から栄華を誇って、18世紀に明治政府に明け渡すまで約500年に渡って栄えた。 周囲の地形を活用した首里城は、強固な城壁が琉球石灰岩の切石で築かれ、規模は総延長約1,080m、高さ6~15m、厚さ約3mは頑丈そのもの。まずは礼節を守るという意味の「守礼門(しゅれいもん)」から「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」を経て、歓んで迎える意味の「歓会門(かんかいもん)」は、首里城の正門。中国皇帝の使者など、訪れる人への歓迎の意で名前がつけられている。別名「あまへ御門」とも言い、沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味している。門の両側のシーサーは威厳がある。 瑞泉門手前右の階段を下ると、国王一族の大切な飲料水の水源「龍樋(りゅうひ)」があり、その先には櫓の中の水時計で時刻を計った「漏刻門(ろうこくもん)」では、身分の高い人も国王に敬意を表したと言う。「広福門(こうふくもん)」と「奉神門(ほうしんもん)」を経て、城内にはいると礼拝所のひとつ「首里森御嶽(すいむいうたき)」がある。 南殿と番所の建物から、黄金御殿・寄満・近習詰所を見学しながら首里城正殿へと進むと、2階の御差床は国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。正面に1対の金龍柱が立ち、その他の建材には黒漆に沈金が施されていた。正殿から出たところに、本州の城の鯱(しゃちほこ)にあたる竜頭が見える。沖縄の龍は、中国に敬意を表して指が1本少ない4本であるのも奥ゆかしい点だろうし、本州の龍は3本の場合もある。 帰り道順は、左側の城壁を見ながら、下側の遺構石積・上側の復元石積にロマンを見て、石垣フェチのワシは石畳道を歩きながら、遥か古の琉球王朝を空想するのに忙しくて足が前へ進まなかった。
更新日時2015-09-09 01:28:24
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タグ 首里城   沖縄戦   沖縄の本土復帰20周年   首里城跡   守礼門   歓会門   あまへ御門   龍樋   漏刻門   首里森御嶽  
ch 344871
大和郡山城 ~目的が変わる城~
奈良の中心部に「大和郡山城」があるが、天守閣は残っていないし当時のものは石垣くらいしかないので、お故郷自慢(おくにじまん)とは行けないところが残念だ。しかし、敢えて郡山城の凄いところを紹介しておきたい。当初は奈良一帯に数多くある城の一つに過ぎなかったのだが、織田信長の命によって筒井順慶が城郭を築いたのが発端だという。 豊臣全盛期の頃は、秀吉の実弟「羽柴秀長」を100万石で据え、大坂城を援護するための城だったはずが、徳川に権力が移行してからは、大坂城を攻撃するための城と変わり果てた経歴を持つ。事実、大坂夏の陣が起こると、豊臣軍は徳川軍を抑えるために大和郡山城に攻め込み落城させた記録が残っている。水野・松平・本多を経て、徳川の家老「柳沢吉保」が15万石の大名とされ、柳沢家で明治維新を迎える。 現在では、追手門・追手東隅櫓・多聞櫓・追手向櫓と復元されているし、次の石垣は天守閣の土台となっている石垣だが、現在は2年計画で改修中で、立ち入り禁止状態であった。この向こうに側に迂回すると、当時の石不足を補う手段として、お地蔵さまが「逆さ地蔵」として組み込まれているのが見れるのだが。 城跡内に二校の奈良県立高校「郡山高校」と「城内高校」があるのは、全国的に見ても珍しいだろう。
更新日時2015-08-14 19:53:49
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タグ 筒井順慶   羽柴秀長   100万石   大坂夏の陣   柳沢吉保   追手門   追手東隅櫓   多聞櫓   追手向櫓   逆さ地蔵  
ch 344528
松江城 ~国宝に認定された現存天守閣・乱世の要塞型~
山陰地方では、唯一の現存天守閣が残るお城「松江城」は、平成27年5月15日に従来の姫路城・彦根城・犬山城・松本城に続き、国宝4城への仲間入りし、全国で計5城が国宝天守閣となった。松江城天守閣の外壁の大部分が黒塗りの豊臣風で、夜間に天守閣が発見され難いような実践的な造りとなっている。 天守閣は重厚な5層6階で、城内からは松江の城下が一望出来るように、最上階は望楼式になっている‥‥‥順に東西南北。木彫りで銅張りの高さ約2mあるシャチホコは、現存しているシャチホコでは最も大きなもので、名古屋城の金のシャチホコが思い浮かぶけれど、希少価値ではこちらに軍配があがる。 豊臣政権の三中老であった「堀尾吉晴(ほりおよしはる)」は、武闘派武将の草分けであったが、秀吉亡きあとは徳川に寝返って功績を挙げたため、領地拝領~築城開始(1606年)で、5年の歳月をかけ完成した。「松江城(千鳥城)」は山陰で唯一の現存天守閣が今に残る城となった。 本丸にそびえる天守閣は桃山初期の城郭を思わせ、華やかさこそ無いが実戦本意の造りとして知られている。これは同時に乱世では、敵を迎え撃つ鉄砲狭間を始め、石落としの仕掛け、武者隠しの間など、実質的な要塞型と言うことだ。床には残念ながら穴ぼこが空いていて、修理中の立入禁止の張り紙が異様に目立っていた。 堀尾公から京極公を経て、徳川家康の孫にあたる松平直政公から松平家に、7代藩主「松平不昧公」は、茶の湯の精神を元に和菓子の発展にも貢献しており、城下における文化を担ったほど茶道に精通していたという。以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎えることとなる。しかし、城内の建物は天守を除きすべて取り壊され、天守も米100俵(180円)で売却される寸前に、有志の保存運動で救われたという。
更新日時2018-04-11 15:14:27
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タグ 堀尾吉晴   千鳥城   現存天守閣   堀尾公   国宝   徳川家康の孫   松平直政   松平不昧公   茶の湯   松江城  
ch 342517
越前大野城 ~朝霧の中にそびえる天空の城~
これまで「天空の城」と呼ばれる類のものには過敏に反応してきた城好きのワシであったが、かつて制覇した中には、一気にブレイクした「竹田城(兵庫県)」、実際にもっとも標高が高い「備中松山城(岡山)」と、足を棒にして山城を登ってきた。今回訪れた「越前大野城(福井)」は、大野盆地にある標高約249mの亀山に築かれた平山城で、残念ながら現在の天守閣は、絵図や同時代の城を参考に再建(1968年)された模擬天守であって、内部には猫の目のようにコロコロ変わった歴代城主の遺品が展示されている。 もともとは織田方の参謀であった「金森長近」が、石山本願寺誘導の一向一揆を制圧した恩賞として、亀山に城郭を築くことを許されたのが越前大野城の始まりであった。四方を山々に囲まれた盆地のひと際小高いところにあって、北陸の城下を望め、朝霧の中にそびえる越前大野城は、まさに「天空の城」と呼ぶにふさわしい雄姿であった。 麓には城下町が広がり、この城下町が雲海に包まれて亀山だけが浮かんで見える日に限り「天空の城 越前大野城」が現れる。 11月頃が最も出現する時期と言われていて、 明け方から午前9時頃までの時間帯で、①前日に雨が降ったなど湿度が高かった次の朝 ②放射冷却現象が起こるような日中と翌日朝方の気温差が大きかった次の朝 ③風が弱いこと こんな条件を総て満たさないと現れないと言うから、ワシが気まぐれで撮影できるものでもない。雲海が広がって次第に城下町が隠れて行くようすや、逆に晴れて姿を現して行くようすを目の当たりにすると、タイムスリップして戦国時代の大野に迷い込んだかのような幻想的な気分になるのだろう。 天守閣は当時のものではないが、土台となる「野面積み(牛蒡積み)」は正真正銘当時のもので、今にも崩れそうな感じの石垣ヨコに「崩落注意の立て札」があるくらいだ。従って、ワシの毎度の石垣修復作業も念入りにおこなったが、こいつは危険な状態だとひと見で理解できた。天守の最上階から東西南北を見渡す・・・確かに北陸の城下を一望できる立地であることが理解できるだろう。
更新日時2015-07-13 00:20:02
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タグ 天空の城   平山城   金森長近   雲海   亀山   越前大野城   野面積み   牛蒡積み   北陸の城下   土井利忠  
ch 342209
一乗谷は、戦国大名「朝倉氏」遺跡復元町並み
戦国大名五代に渡って越前を治めた「朝倉氏」の本拠地「一乗谷」を訪れた。国の、特別史跡・特別名勝・重要文化財と三重指定を受けた中世最大の文化遺産が遺構として存在した。応仁の乱からの朝倉孝景~朝倉義景の滅亡まで五代103年間にわたって繁栄した朝倉氏が栄華を極めたという。 一乗谷城がある山と、隣の山に挟まれた谷間が、かつて城主・重臣・武家の屋敷などが密集していた「一乗谷遺構」である。谷の狭い地形を選んで築かれた二箇所の城門である「上城戸(うえきど)」と「下城戸しもきど)」を、石垣・堀・土塁などの守りで固めていた。その防御施設二箇所の内側全長1.7キロを「城戸ノ内(きどのうち)」と呼び、安全地帯のように存在したのが朝倉氏の本拠「一乗谷」であったのだ。 天正元年(1573年)織田信長に攻められた「浅井長政」との約定により近江へ出兵したが、形勢悪しとみて「刀根坂」を撤退した時に、信長に「追い討ち(刀根坂の戦い)」をかけられ、戦国大名朝倉氏はついに滅亡、柴田勝家率いる織田軍に一乗谷の町を焼き払われ焼土と化したようだ。この戦いが歴史的に重要なのは、戦に於いて敵側の本拠をも滅亡させる戦術を使われたのは、我が国の歴史上初めてのことだったからだ。 朝倉氏の「黄金の甲冑」ということだが、織田軍は甲冑の軽量化・機能性に主眼を置いた時代に、贅を尽くし高価な重量級の甲冑とは・・・・西洋で連射銃や大砲を作っているときに、飾り職人の仕事だった鎖国の徳川江戸時代に作った火縄銃のようだ。ただ栄華を極めた朝倉でも、お正月の雑煮は餅を食べるのに主眼を置いた白味噌仕立ての質素なものだったようだ。
更新日時2015-07-09 08:34:05
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タグ 戦国大名   一乗谷   朝倉孝景   朝倉義景   一乗谷遺構   上城戸   下城戸   城戸ノ内   刀根坂の戦い   黄金の甲冑