裏サイトに いじめを奨励している所が有る。
しかも 連日賑わっている。
このサイトを造った奴を 極刑にすればいいのにな。
この話し…
おれにとっても 世の中にとっても そして その当時
おれの友達にとっても もう時効だろう…
中学一年になった時 不良と言われている先輩達 優秀な先輩達 この人達に
どう言う訳だか おれは可愛がられた。
同級生の友達も これでもかって位い出来た。
それこそ これからの人生は…中学生活…バラ色だった。
うきうきしていて 二年になった。
担任は女だった。
いそやま ようこ と言う担任だ。
顔まではっきりと覚えている。
小太りで目が細くて 何時も目つきが鋭く 怒っているような顔だった。
おれ自身 おれの周りは 相も変わらずバラ色だった。
二年になると 毎日のようにテストが続いた…豆テストなど。
それでも めちゃくちゃ楽しかった。
学年でトップの奴が…男だ… どう言う訳かおれに近づき で友達になった。
と言うか 大親友になったんだ。
おれの成績は 中辺りだ。
二年になって 二ヶ月が過ぎた頃に事件は起きた。
学校中を PTAを 教育委員会を動かすほどの騒動になるなんて 誰も…
おれ自身 想像もしなかった。
親友になった成績優秀の奴は 親が同業者で おれ達の仲は親も知っていた。
毎日の様に行き来し 勉強も一緒にした。
二年になって二ヶ月位い経ち ある日の給食が終わった直後 その親友はおれの所に来ようとして近づいて来た。
その瞬間 担任が「おい たにんこ!前に来い。」と言われ 担任の前に行った。
給食が終わった直後だから しかも担任が 形相が変わるほど怒っているから
クラスの全員が見ていたんだろう。
すぐさま「お前みたいな馬鹿と付き合っているから ○○○君の成績が落ちたんだよ! 二度と付き合うなよ。
分かったか!!!!!」と言った。
時が止まった。
このブログを読んでいるおめ様達 意味が分かるか?
時が止まったんだ。
おれの中学二年生の 大切な時間が止まった。
近所の幼馴染で 恋愛中だった女の子が「随分酷いんじゃないですか!そんな言い方って無いでしょう!!!」
と怒鳴ってくれた。
他のクラスメートも「酷いなぁ…担任が言う言葉じゃないよ」とか言っている。
途端「黙れ!本当の事を言っているんだよ!!!」と怒鳴り 教室を出て行った。
おれの戦いが始まった。
この担任の女には 一切返事をせず テストは全て白紙で出した。
一回二回ならまだしも 約一年にわたって 全てのテスト用紙は白紙で出した。
三回四回目のテストが終わった時 職員室に呼び出された。
各担当の先生方に囲まれ「どう言う事だ?何を考えてるんだ!」と 口々に怒鳴られた。
おれは黙っていた。
親が…母親…が学校に呼び出され 校長室で話をすると言われた。
担任の女 各教科の先生方 校長先生 親 おれ…
何かを話しているんだ。
思い出せないんだよ。
校長先生が 先生方を退出させたんだろうな おれと親と校長先生だけになった。
校長先生は おれは大好きだった。
その校長が「とにかく何でも話してみなさい」と言うような事を言ったんだ。
言われた途端 涙が出て止まらなくなった。
全てを話した。
お袋に言われた。
「信念を貫けよ。あたしは応援するから」と言う。
この当時お袋は PTAの役員をしていた。
この事件直後 役員を辞めた。
お袋は「言いたい事も言えないから辞めた」と 後々になってから言ったんだよな。
数回に渡り 校長室に呼び出された。
校長室に呼ばれたのは覚えているけど 何を話したのかは覚えていない。
廊下ですれ違う先生の中には すれ違いざま「頑張れよ」と 小さい声で応援してくれる先生が 何人も居た。
だから おれは 今現在も生きていられる。
おれはきっと 必死だったんだろうな。
心が無い太陽のように 無意味に学校に行っていたんだろうな。
二年生の一年間 友達と 親と 何を話をして… 全ての行動が 分からないんだ。
これ以外の事は 覚えていないんだ。
中学二年の記憶は これだけなんだ。
一年生 三年生の記憶や それ以前のガキんちょの頃は 今も付き合っている友達が驚く位い
鮮明に記憶しているのに 中学二年の記憶は たったこれだけなんだよ。
きっと…嫌な事が ずっと続いたんだろうな。
勿論 楽しい事も有ったに違いないだろう。
でも これだけしか記憶が無いんだ。
ショック?…こんな言葉 文字では 到底表す事なんか出来ないよ。
だから おれは 地元には居たくなかったんだ。
中学卒業直後 友達連中に「二年の時に こう言う事が有ったろう?」と言われても 話の中に入っていけないし
思い出せない。
中学を卒業後 直ぐ宮城県の 大好きだった爺ちゃん婆ちゃんの所に行き
高校も宮城県で受験し 高校生活を宮城県で過ごした。
高校生活の中で…あの忌まわしい中学二年の時を 何度も振り返え様としたけど
駄目だった。
思い出せないからだ。
学校の先生って 何だろう?
人間って 何なんだろう?
中学一年までは 親 先生は おれにとっては雲の上の存在…だった。
中学二年以降 親は大親友となり 先生っていうものは 単なる一人間だけになった。
つまり 一般のそこいらの人間と 変わらない目で見るようになっていた。
いじめと言うのは 同級生などにされる物…
違うよ。
おれ達の その当時の考え方 先輩諸氏から教わったのは「やられたら やり返せ」だった。
ただし 限度と言う物も しっかりと教わっていた。
だからこそ いじめ と言う物は 存在しないに等しかった。
「こう言う担任に出会ったのも 偶然じゃなく 必然だったんだよ」
と言う奴も 居るに違いないだろう。
そんなカッコいい 受け売り言葉で 誰が「あぁ そうなんだ」って納得するかよ。
許す 許さない…こう言う言葉があるなら おれは絶対許さない。
中学一年までは 先生と言うのは「何でも相談出来る 偉い人」と思っていたし
「学校生活の中で 正しく道標をつけてくれる人」とも思っていた。
だからそれ以降は 中学三年の担任や 他の教科の先生 高校の先生方…
聞かれても 余計な事は一切話さなかったし おれから…当たり前だけど…進んで話す事なんかはなかった。
こう言った話には 勿論賛否両論有る。
が…遠い遠い遠い話で終わる…
それも良いが ちょっとは考えて欲しいもんだよ。
しかも 連日賑わっている。
このサイトを造った奴を 極刑にすればいいのにな。
この話し…
おれにとっても 世の中にとっても そして その当時
おれの友達にとっても もう時効だろう…
中学一年になった時 不良と言われている先輩達 優秀な先輩達 この人達に
どう言う訳だか おれは可愛がられた。
同級生の友達も これでもかって位い出来た。
それこそ これからの人生は…中学生活…バラ色だった。
うきうきしていて 二年になった。
担任は女だった。
いそやま ようこ と言う担任だ。
顔まではっきりと覚えている。
小太りで目が細くて 何時も目つきが鋭く 怒っているような顔だった。
おれ自身 おれの周りは 相も変わらずバラ色だった。
二年になると 毎日のようにテストが続いた…豆テストなど。
それでも めちゃくちゃ楽しかった。
学年でトップの奴が…男だ… どう言う訳かおれに近づき で友達になった。
と言うか 大親友になったんだ。
おれの成績は 中辺りだ。
二年になって 二ヶ月が過ぎた頃に事件は起きた。
学校中を PTAを 教育委員会を動かすほどの騒動になるなんて 誰も…
おれ自身 想像もしなかった。
親友になった成績優秀の奴は 親が同業者で おれ達の仲は親も知っていた。
毎日の様に行き来し 勉強も一緒にした。
二年になって二ヶ月位い経ち ある日の給食が終わった直後 その親友はおれの所に来ようとして近づいて来た。
その瞬間 担任が「おい たにんこ!前に来い。」と言われ 担任の前に行った。
給食が終わった直後だから しかも担任が 形相が変わるほど怒っているから
クラスの全員が見ていたんだろう。
すぐさま「お前みたいな馬鹿と付き合っているから ○○○君の成績が落ちたんだよ! 二度と付き合うなよ。
分かったか!!!!!」と言った。
時が止まった。
このブログを読んでいるおめ様達 意味が分かるか?
時が止まったんだ。
おれの中学二年生の 大切な時間が止まった。
近所の幼馴染で 恋愛中だった女の子が「随分酷いんじゃないですか!そんな言い方って無いでしょう!!!」
と怒鳴ってくれた。
他のクラスメートも「酷いなぁ…担任が言う言葉じゃないよ」とか言っている。
途端「黙れ!本当の事を言っているんだよ!!!」と怒鳴り 教室を出て行った。
おれの戦いが始まった。
この担任の女には 一切返事をせず テストは全て白紙で出した。
一回二回ならまだしも 約一年にわたって 全てのテスト用紙は白紙で出した。
三回四回目のテストが終わった時 職員室に呼び出された。
各担当の先生方に囲まれ「どう言う事だ?何を考えてるんだ!」と 口々に怒鳴られた。
おれは黙っていた。
親が…母親…が学校に呼び出され 校長室で話をすると言われた。
担任の女 各教科の先生方 校長先生 親 おれ…
何かを話しているんだ。
思い出せないんだよ。
校長先生が 先生方を退出させたんだろうな おれと親と校長先生だけになった。
校長先生は おれは大好きだった。
その校長が「とにかく何でも話してみなさい」と言うような事を言ったんだ。
言われた途端 涙が出て止まらなくなった。
全てを話した。
お袋に言われた。
「信念を貫けよ。あたしは応援するから」と言う。
この当時お袋は PTAの役員をしていた。
この事件直後 役員を辞めた。
お袋は「言いたい事も言えないから辞めた」と 後々になってから言ったんだよな。
数回に渡り 校長室に呼び出された。
校長室に呼ばれたのは覚えているけど 何を話したのかは覚えていない。
廊下ですれ違う先生の中には すれ違いざま「頑張れよ」と 小さい声で応援してくれる先生が 何人も居た。
だから おれは 今現在も生きていられる。
おれはきっと 必死だったんだろうな。
心が無い太陽のように 無意味に学校に行っていたんだろうな。
二年生の一年間 友達と 親と 何を話をして… 全ての行動が 分からないんだ。
これ以外の事は 覚えていないんだ。
中学二年の記憶は これだけなんだ。
一年生 三年生の記憶や それ以前のガキんちょの頃は 今も付き合っている友達が驚く位い
鮮明に記憶しているのに 中学二年の記憶は たったこれだけなんだよ。
きっと…嫌な事が ずっと続いたんだろうな。
勿論 楽しい事も有ったに違いないだろう。
でも これだけしか記憶が無いんだ。
ショック?…こんな言葉 文字では 到底表す事なんか出来ないよ。
だから おれは 地元には居たくなかったんだ。
中学卒業直後 友達連中に「二年の時に こう言う事が有ったろう?」と言われても 話の中に入っていけないし
思い出せない。
中学を卒業後 直ぐ宮城県の 大好きだった爺ちゃん婆ちゃんの所に行き
高校も宮城県で受験し 高校生活を宮城県で過ごした。
高校生活の中で…あの忌まわしい中学二年の時を 何度も振り返え様としたけど
駄目だった。
思い出せないからだ。
学校の先生って 何だろう?
人間って 何なんだろう?
中学一年までは 親 先生は おれにとっては雲の上の存在…だった。
中学二年以降 親は大親友となり 先生っていうものは 単なる一人間だけになった。
つまり 一般のそこいらの人間と 変わらない目で見るようになっていた。
いじめと言うのは 同級生などにされる物…
違うよ。
おれ達の その当時の考え方 先輩諸氏から教わったのは「やられたら やり返せ」だった。
ただし 限度と言う物も しっかりと教わっていた。
だからこそ いじめ と言う物は 存在しないに等しかった。
「こう言う担任に出会ったのも 偶然じゃなく 必然だったんだよ」
と言う奴も 居るに違いないだろう。
そんなカッコいい 受け売り言葉で 誰が「あぁ そうなんだ」って納得するかよ。
許す 許さない…こう言う言葉があるなら おれは絶対許さない。
中学一年までは 先生と言うのは「何でも相談出来る 偉い人」と思っていたし
「学校生活の中で 正しく道標をつけてくれる人」とも思っていた。
だからそれ以降は 中学三年の担任や 他の教科の先生 高校の先生方…
聞かれても 余計な事は一切話さなかったし おれから…当たり前だけど…進んで話す事なんかはなかった。
こう言った話には 勿論賛否両論有る。
が…遠い遠い遠い話で終わる…
それも良いが ちょっとは考えて欲しいもんだよ。