黒い回転ゴミ日記

日々のあれこれ。

美術教科書。

2008-04-02 19:17:26 | インポート
もう知っている方も多いのでしょうが、横尾忠則さんのポスターが教科書から削除されたらしい。

横尾忠則さんが手掛けたポスターの中でも、代表作の一つとも言えるもので、僕はその頃の横尾作品がとても好きで強烈に憧れたポスターでもある。20年以上前、暇さえあれば作品集を眺めていた。
ポスターの中に書かれていた「私の娘展示即売会場」という言葉が不適切との事らしい。
まぁ、なんともせこい懐と言いましょうか、無菌状態でお育ちになったとしか思えない、健全なる文部科学省のお偉さん方の健全なる精神には、感覚に角度も深みもないようで、お口あんぐりですわ。

高校の教科書に載っているのかどうか知らないが、例えば、なら浮世絵やゴッホはありか?

耳を切って後に自殺した狂人の絵は、何の問題もなく教科書に載せられる高貴な芸術なんだわな、彼らにすれば。耳を切った事も美談になり、生きている間に1枚の絵も売れなかった事も美談になり、あのヌメヌメと分厚く塗られたマチエールを持つ、耳を切った自画像も歪んだ風景も美談とともに腕を組んで鑑賞させるわけだ。
目出たい話しだ。
逆に言えば、様々な背景を超えてなお存在し得るからこその美術じゃないのか。そして、そこから垣間見る自由と思いに感動するんじゃないのかね。自由なんて言葉は好きじゃないし充分な説明がないと誤解されるだろうけど、とにかく絵にもそれぞれ自由と思いがあるのなら、見る方にだって自由と思いがある。そこの出会いがスリリングで面白いんじゃないのかね。そんなもの、誰が線引き出来る?

だいたい美術に教育なんて言葉をくっつけるから、こんなおかしな事になる。美術に教育も何もない。描きたきゃ描けばイイ。見たきゃ見ればイイ。知りたきゃ勝手に勉強すればイイ。まぁ描く事だけの教育じゃないのだろうけど、もし教育という言葉がどうしても必要なら、小さな文字でガタガタ言うな。そんな無菌の美術教育ならやめときゃいい。

アレコレと書いたけど、実は声を張り上げる話しとも思っていない。またかって感じだし、そんなつまらない教育現場とは無関係に、描きたい奴は勝手に描いて、いずれ触れたりしていくだろうから。音楽なんてそうでしょ?僕はそうだった。

Yokoo