辞書引く日々

辞書が好きなのだ。辞書を引くのだ。

古文・文語文に憧れるわけ

2012年05月25日 | 言葉
古語で文を書けたら面白そうだと思うことがある。せめて文語で書きたいとも
思う。実際には、自分の古典文法に対する知識が乏しかったり、新しい文物の
表現に難があったりするので、取り組んだことはない。それどころか、自分は
日本の古典が好きなのかというと、そうとも限らない。たしかに、あれも読ん
でない、これも読んでないというプレッシャーを感じてはいるが、そのために
時間を割くまでには至っていないのだから、真剣な古典愛好者でないことは確
かである。

それにもかかわらず、自分が古文・文語文の魅力を感じているのは何故か。毎
日口語文のお世話になっている身としては、これを一度くらいは考えてみるの
が義理というものかもしれない。

言葉を発すれば、必ず何かの影響が現れる。これには、契約が成立するとか、
ブログが炎上するとかいう客観的にわかる形だけでなく、人の心の中に何らか
の気分を生じさせるということも含まれる。

たとえば、「○○原発は××県にあります」という一文を読んだとき、何を考
えるだろうか。少なからぬ人が、「この論者は原子力発電所の稼働に賛成なの
か反対なのか」ということを読み取ろうとするのではあるまいか。もちろん、
この一文から、それが読みとれるわけもない。

しかし、そうなると、読み取りパワーは増大して、そこに書いていないさまざ
まなことを読み取りはじめる。「結局、こいつは原発についてのハッキリとし
た意見を持っていないのだ」とか「このブログは、政治的な問題に何らかの意
見を述べるようとしているのだ」とかいう印象を得る人があるとすると、それ
はこうした読み取りの結果だろう。

これが、「○○原発は××県にあり」と書いてあったらどうだろう。これなら、
江戸時代の紀行文を読むときのように、ちょっと離れた視点から読めるような
気がする。

もちろん「ひとごとみたいな書き方で、ムカつく」という人もあるだろう。し
かし考えようによっては「離れた視点から読める」も「ひとごとみたい」も、
さして変わりはない。同じことを、好意を持って、あるいはその反対の気持ち
を持って言っているだけだ。「客観的→問題と自己の利益を区別する→語るに
足る」という道順も、「客観的→ひとごとみたい→偉そう→ムカつく」という
道順も、同じところに端を発する。

もっとも、文語文を日常的に読んでいた時代の人や、歴史的文献を職業的に読
んでいる人は、こうした「遠い」印象を文語文から受けないにちがいない。
かつて、文語文は客観的であるどころか、感情を盛り込むメインの器であり、
しばしば扇動にも用いられたわけである。文語文に空しい虚飾という印象を受
けている人も少なくないのも、うなずける。また、楽しいからという以上のは
っきりした主張をもって文語文の復活を願う人にとっても、文語文は「遠く」
ないのだろう。(ただ、完全な古文となると、さすがに話は別だろうが)

ともかくここまで考えて、私は一応の結論らしきものにたどり着いた。現代に
生活している自分が擬古文に憧れているのは、ちょっと離れたところから物事
を見る瞬間を持ちたいかららしい。

そして、忘れてはならないのは、そうやって混み入った状況からふっと抜け出
してしまうというのは、すごくユーモラスだということだ。寄ってたかって殴
られている男が、なぐっている男たちの股の間からのこのこ這い出てくる様子
を想像してみるといい。これは、死語~半死語になったがゆえに、古文・文語
文が持ち合わせることになった魅力だと思う。
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