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辞書引く日々

辞書が好きなのだ。辞書を引くのだ。

日本外史

2005年10月05日 | 
「校刻日本外史」を買う。川越版というやつだそうで、木版の和本である。明治の普及版なり。六千数百円で十二冊(二十ニ巻)揃っていた。日本外史の漢文テキストがほしかったので買ったわけで、私は別段この手の本のコレクターというわけではない。

色々な版のものをとにかく十二冊ぶん集めたというものだから、古本としての価値はあまりなかろうが、とにかく読むのには差し支えあるまい。なかには僞刻もあるらしいので、そんなものが混ざっているかもしれぬが、気にせぬこととする。

ずいぶん汚れているものもあり、とくに一冊目などはだいぶくたびれていて、かすれて読めぬところを誰かが補って字を加えていたりする。これもまあ、前の持ち主、前々の持ち主をしのんでみれば、そう悪いとも決めつけられぬ。

面白いのは、版に刻する字を書いた人がいろいろいるために、各冊さまざまな字があるということである。なかなか上手い字もあれば、活字じみたチマチマした字もある。太いくて太細の少ない字もあれば、細くてアクセントに富んだ、いわばマッチョな字もある。

本棚の大きさを考えれば、洋装版がいいのかも知れぬが、字の大きさといい、なにより一度彫ったものとはいえ、人間の書いた字を読めるというのは、なかなか愉快なことである。

コーネル・ウールリッチ『黒い天使』(ハヤカワ文庫)

2005年09月15日 | 
1943年に出版されたミステリ小説の新訳(2005年)なり。夫の嫌疑を晴らすために、若妻が暗黒世界に足を踏み入れて奮闘する話。ウールリッチは『幻の女』の作者アイリッシュと同一人物。

けなげで、俗っぽくて、甘ったるい感じがよろしい。

解説に、決定的にストーリーが破綻しているという指摘が紹介されているので、意地悪な読者はそれを見つけ出すことを楽しむといいかもしれぬ(言われてみればなるほどという点だ)。

1943年頃の音楽といえば、チャーリー・パーカーなんぞのいわゆるバップと呼ばれるとげとげした新スタイルを思い浮かべる。しかし、たぶんレコード売り上げ的にいうと、まだまだこの時代は腐らんばかりに熟したスウィングジャズの時代なのである。

してみると、この本を読みながら聞くのがふさわしい音楽は、パーカーでもガレスピーでもなく、1944年人気絶頂の中に戦死したグレン・ミラーなのではあるまいか。

黒い天使

早川書房

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『中国の大盗賊・完全版』(高島俊男、講談社現代新書、2004)

2005年09月05日 | 
この本の内容を勝手に三つの部分に分けると、

(1) 中国の盗賊とはいかなるものぞ (序章)
(2) 中国史上の大盗賊の例 (第1章~第4章)
(3) 毛沢東は大盗賊なり (第5章)

ということになる。

(1) は、盗と偸がどうちがうかとか、中国での兵のイメージは伝統的にどんなものか、などの一般的なことが啓蒙的なタッチで書いてある。

(2) は、例であるから、忙しい向きは飛ばしてよんでも差し支えなし。

(3) は、著者がいちばん書きたかったことらしい。そして、これがこの本のタイトルに「完全版」というのがついている理由でもある。つまり、以前この本は (3) の部分を大幅にカットして出版されたことがあり、今回それを復活したうえで出版し直したということである。

なお、毛沢東が盗賊であるといっても、それは (1) の部分で定義した「盗賊」であるから、(1) を先に読まざるべからざるなり(読まなくてはいけない)。

また、(3) には、高校の世界史でも勉強する北伐とか長征とかいうあたりが、簡潔かつ面白く(水滸伝風とでも言おうか)書いてあるので、このあたりの歴史は何度読んでも頭に入らないという向きには、とっかかりとして好適かもしれぬ。

中国の大盗賊・完全版

講談社

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『地図を探偵する』(今尾恵介、新潮文庫、2004年)

2005年08月30日 | 
『地図を探偵する』(今尾恵介、新潮文庫、2004年)は、1995年『地図ざんまい・しますか』(けやき出版)の改題なり。

「ふだん宗教に興味の片鱗も持ち合わせていない人たちが外国では熱心に聖堂めぐりをするのは、特筆すべき奇観」と断ずる著者が「興味の赴くままに地図をご覧になったらいかがでしょうか」とすすめたる本にて、(1) とりとめもなく歩いた記録 (2) 地図そのものの話題 (3) 気になる場所を地図で確認した結果、などを記したるものなり 。


  1. 取手、藤代間に直流、交流かわるは、筑波山東麓にある地磁気観測所地図)に影響を及ぼさぬために、これを交流にしたるものなり(p.21)
  2. 水準点は旧国道に多し。(p.57)
  3. 二万五千分の一の地形図には鉄道の軌道幅(軌間といふなり)通常の1067ミリに外れるものは特に記してあるなり。(p.88)
  4. 地形図に道路を表現するとき、実際の縮尺通りだとほとんどの道が細すぎて見にくいので、実際には縮尺通りより広く」し、「これを地図業界用語では『記号道路』という」。それに対して縮尺通りに描かれているものを「真幅道路」という。(p.113)
  5. 道路と鉄道の並走せる箇所は重なりを排して表示することありてこれを「転移」といふ。道路に面した建物もまたこれにともない地図上を移動させられるなり。(p.121)


など私の興味あるところなり。

地図を探偵する

新潮社





遠野物語の遠野とはいずこなりや

2005年08月29日 | 
『遠野物語』を読まんとす。まず、そもそも遠野とはいずこなりや。

岩手県の山中、花巻と釜石の中ほどなり。遠野の北25キロほどのところに、早池峰(はやちね)山あり。

遠野物語はこの地方の話を聞書したものなれど、柳田國男は直接取材したるものに非ず。又聞きしたるところを記せしものなりと、初版まえがきにあり。

(図は国土地理院200万分の1地図およびメッシュ地図をもとにカシミール3Dにて作成したるものなり)

遠野物語―付・遠野物語拾遺

角川書店



言海と大言海

2005年08月25日 | 
言海大言海はともに有名な国語辞典であり、いまさら説明をするほどのことは何もないようである。

明治時代に大槻文彦が官命を受けて作りはじめ、この時代を代表する高級辞典となりたるのが言海で、昭和のはじめにこれを増強して編んだのが大言海ということになっている。

がいして辞書ファンには言海のファンが多いようで、これは一つには漱石などの有名人が愛用していたという事情があるのかもしれぬし、大言海は、言海と比べたときに増してある部分が存外いいかげんだとされるところ(語源などはそのさいたるものなり)が、敬遠される理由なのかもしれない。

私も辞書ファンには違いないが、辞書は正確であるべしという崇高な理想がすぐ目の前で実現しなくても一向に落胆しない。したがって、かなり怪しげな辞書でも、「怪しいなあ」とつぶやきながら、使うのを常としていて、まずこれは検索エンジンで知りたいことを調べたときに「ほんまかいな」といいながら、その場の用がふたがればまずは満足するというのに似ている。

そんなわけだから、大言海のここが怪しいとかあそこが怪しいとかいうのを耳にしても、これを米櫃(こめびつ)にわいた虫のごとくに憎む気にはならぬし、ぎゃくに私があまり愛着を感じない有名な辞典の誤りをあげつらうのを聞いても、べつだんたいしてうれしくは思わないのである。

私にとって大事なのは、ようは楽しめるかどうか、ということの一点である。そして、楽しみの最大のものが用例にあることに間違いがない。となると、言海はほとんど用例というものが載っていないのに比べて、大言海は出典を示した用例をたいへん多く載せているから、やはり大言海のほうが楽しめるということになる。

ちなみに、現在手軽に手に入る大言海と呼ばれている辞書は、新編というやつで、見出語を新仮名に改めたものである。これなんぞも旧来の言海ファンには我慢ならぬところなのかもしれないが、便利なことには間違いがない。大いに支持するところである。


『国語辞書事件簿』

2005年08月24日 | 
辞書ファンというのは結構あるもので、辞書にかんする本もまた多い。昨年読んだものに『国語辞書事件簿』(石山茂利夫、草思社、2004年)というのがある。

事件簿とはいってもこれはレトリックであり、この本はミステリー小説ではなくてエッセイである。このタイトルは、著者が元新聞記者であるとういことをいくらか示唆しているのかもしれない。

最も愉快なところは、広辞苑のルーツさがしである。広辞苑の「前身」は博文館から出ていた辞苑であり、岩波書店がこれを買い取って、広辞苑をつくったという。その辞苑という辞書は、「『広辞林』と『言泉』『大日本国語辞典』の三種をおもな親辞書とし、糊とハサミで作った辞書と言っていい」(p.173)とのとである。

親辞書を突き止めるという作業がこの本の白眉なわけだが、これがなかなか大変なものらしい。一つの辞書を写すのならネタがすぐに割れるが、複数の辞書を親辞書に使われると、なかなかわからないという。

辞書が相互に類似している指標を機械的に作成できれば面白いだろうなどということを考えてしまった次第である。

しかし、統計学的にこれをやるのにはさまざまな難しい点があるだろう。たとえば、辞書 a, b, c, d が a, b, c, d の順に刊行されていたとする。d が a, b, c でどれだけ説明できるかを調べることになろうが、もし、b, c が a を親辞書にしていたらどうか。d を説明する三つの説明変数に独立性がなくなってしまうので、うまく結果が出ないにちがいない。

こうなると、通り一遍の統計学しか知らぬ身にはいかんともしがたいが、なにかいい手がどこかにあるのではないか。だれかやってみませんか、とそそのかしておこう。

国語辞書事件簿

草思社

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へんな字引きは好きですか?

2005年08月23日 | 
辞書に網羅性を求めるのは当然である。ポケット辞書といえども、紙幅の許す限り網羅的な見出しに正確な語義がついていてほしいと願うのは、当り前のことで
ある。

しかし、それではどうも詰まらない。辞書というのは楽しくなくてはいけない。使えなくってもよい、楽しくあってほしい。それが私の基準である。もっとも、
何を楽しいと思うかが問題になる。

たとえば、『ポケット新字典』(高橋書店)は楽しいポケット字引である。変な字引といってもいい。

これは、一見珍しくもない、数百円で売っているその場しのぎの国語辞典である。何が面白いかというとその見出しの配列である。たとえば、「給料」のあとに「厩舎(きゅうしゃ)」がのっている。五十音順でいけば厩舎のほうが先にくるはずであるが、違う。

これは、一文字目の「きゅう」が「給」であるものをまとめて載せているからそうなっているのだ。一文字目の「きゅう」が「給」と書かれる熟語がすべて並び
終わると、やっと「きゅう」を「厩」と書く熟語がくる。なお、「給」が「厩」より先に並ぶのは画数が少ないからである。帯ではこの配列を「同一漢字別配列」と称
している。

収録されている語彙は漢語が多い。なにしろ、あてる漢字がないとこの辞書に載せることは不可能なのだ。巻末にカタカナ語辞典が付属しているのはそのせいで
あろう。ただし、見出しが漢字ばかりなので、レイアウトはこのうえなく簡潔な印象を与えて好ましい。見出語に使う活字の大きさもかなり大きいので読みやす
い。

さて、この辞書が実用になるかというと、どうだろうか。

たとえば、ソテツを引いてみよう。これが「蘇鉄」と表記することを知らないと「蘇」が一文字目を「そ」と読む言葉が並んだペ-ジのどのあたりをさがしたら
いいのかわからない。はっきりいってこれは不便である。

送りがなも基本的には名詞には送っていないから、「共稼ぎ」などは「共稼」となっていて、現代の習慣にはあまり適合しない。

収録語数もけっして誇れるようなものではないし、新語など載っているわけもない。だいいち、いつ初版が出たのか、いつ改訂したのか、奥付を見ても書いてい
ない。

それにもかかわらず、私はこの字引が好きである。持っていると楽しくなるのだ。

この辞書を買ってみようという強者のために一言いっておくと、同じ出版社から似た名前の字引がいくつか出ていて、たいへん間違いやすい。気を付けていただ
きたい。

結局なぜ、さおだけ屋はつぶれないのか

2005年08月19日 | 
竹や竿竹の呼び声とともに町内に回って来る竿竹屋、なぜ商売が成り立つのだろうかと以前から不思議に思っていた。同じことを考えていた人が多いのか、そんな疑問に答えてくれそうなタイトルの本『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がしばらく前にベストセラーになった。

竿竹屋のことを延々と書いてくれたのかと思いきや、これは会計学の入門書で、肝心の竿竹屋はちょっとだけしか出てこない。なぜつぶれないかという疑問には、二つの例が載っているに過ぎない。

一つ目の例は、竿竹を買った老婦人宅に乗り込み、30万円する竿竹スタンドを売りつけた例。もう一つは、金物屋が配達の途中、竿竹屋を名乗っている例。

もうちょっと竿竹屋のミステリーを追いかけてほしかったなあと思う。