けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年09月15日 | Weblog
司祭がすることができること(続き)

The Fatima Crusader Issue 84, Winter 2006

パトリック・ペレス神父

「キリストの愛がわれわれを強いる」

次に、ファチマ使徒職のための諸々の動機 - グルーナー神父がなぜこのことのために彼が持っているすべてのものを犠牲にしてきたか、そしてなぜわれわれがここにいるのか - が存在するということを思い起こしてください。親愛なる司教閣下、同僚である司祭たち、そして親愛なる平信徒の皆さん、私はすべての人がここにいるのは聖母マリアを愛しているからだということを疑いません。今日は聖母の祝日、マリアの御母たること、マリアの母性の祝日です。私はそのことについて今朝祈っていました。私は、われわれの背景、あるいはわれわれの特定の場所が何であれ、あなたたちすべてがここにおられるのは聖母に対する愛のためであることに何の疑いも持ちません。[グルーナー]神父がしたことをした理由、そしてわれわれがしていることをしている理由は諸々の徳のうちの最大のものに要約されます。そしてそれは愛です。思い起こしてください、三つのものがあります:すなわち、信仰、希望そして愛です。そしてこれらのうちで最大のもの、それは愛です。

ところで、愛[charity]とは何でしょうか?われわれは英語という言語においてこれらのものについてたいへん良くない翻訳を持っています。英語では信仰、希望、愛を faith, hope and love と言っています。それは faith, hope and love ではなくて、faith, hope and charity です。ラテン語には両方があります。amor は love であり、そして caritas が charity です。そしてそれらは、caritas が amor のある特別な種類ではありますけれども、異なっています。Charity は信仰、希望、愛という三つのもののうちの一つである神学上の徳です。それは神を神御自身のために、精神を尽くし、魂を尽くし、心を尽くして、すべてのものに越えて、愛することをわれわれに可能にする神学上の徳です。そして神の愛のためにわれわれ自身と同じようにわれわれの隣人を愛することです。

charity には常に神の次元が存在します。あなたはチョコレートに対する charity を持つことはできません。あなたはチョコレートに対する love を持つことができます。あなたはチョコレートを愛する[love]ことができます。私はある仕方で、英語がそうする仕方で、そのことを認めるでしょう。それが、あなたが love と charity を混同することができない理由です。なぜなら、charity は神の次元を持っているからです。あなたはあなたの全存在をかけて神がそうであられるもののゆえに神を愛します。そしてあなたは、それがあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいという神の命令であるがゆえに、そしてその命令に対する従順のために、あなたの隣人を愛します。それがわれわれのしていることです。

すべての人に対する愛

それゆえ、グルーナー神父はこの愛のために、地上にある人々のために、彼がしていることをしています。それがわれわれがしていることをしている理由です。このことを考えてください。もし聖母とわれらの主の望みが従われないならば、もしロシアが教皇と司教たちによって聖母の汚れなき御心に奉献されないならば、このことはわれわれの拡大された人類家族における多くの人々にとって大きな災難、苦痛そして霊魂の喪失を意味するでしょう。われわれは、実際にその charity の次元をそれに与えるために人類における家族のこの意味を持たなければなりません。あなたは、私は人々に会うとき、私がいつも意識しているということをご存じです。彼らは遠い従兄弟です。私は最も近い関係にある家族を愛しています。そして私は家族を愛することが何であるかを知っています。

それゆえ私にとって、私があなたたちが遠い従兄弟たちである - なぜならわれわれはアダムとエヴァの子どもであり、われわれすべてが同じ両親から生まれたからです - ということ、私があなたたちに対するこの神の愛に基づいた愛を - あなたたちに対する自然的な愛さえ - 持っているということ - なぜならあなたたちは私の家族の一員ですから - は非常に自然的なことです。ある人が困難であるとき、彼らはわれわれの一風変わった従兄弟たちです。あなたたちは、われわれが皆家族のうちにそのような人を持っているということを知っています。しかしわれわれは決して彼らに対して愛のない者ではありません。なぜなら、ある人は困難であるからです。

緊急性

そしてそれゆえわれわれ自身に対する愛と同じようにわれわれの隣人に対する愛はあるのです。なぜなら、神の愛はわれわれが、シスター・ルチアや他の人々に対して表明されたような聖母とわれらの主の望みが満たされないならば起こるであろう差し迫った災難を避けるためにわれわれがすることができることをしなければならないということを意味するからです。このことには愛において一つの緊急性があります。そしてそれがわれわれがそれをしている理由です。われわれは、われわれがなすべき何かある事柄を必要としているがゆえにそれをしているのではありません。グルーナー神父はなすべきことを持っていないのではありません。グルーナー神父について言えば、「さて、私は針編みや鈎編みをしようか、それともファチマのことをしようか?」ということではありませんでした。そうではありません。彼は聖母が、彼であるところのもの、そしてこの使徒職のため、そして地上におけるすべての人、聖母そしてとりわけわれらの主の愛のために彼があるところのものによって彼を形成なさったということを理解しました。彼はそれに自らを与えました。

他者のためにあなたが持つことができる愛の最大の行為は同様にまた、もしそれらが信仰のうちにあるならば、彼らに成聖の恩寵を正しく評価させることであるということを心に留めてください。もし彼らが信仰の外にあるならば、彼らに対する愛の最大の行為は彼らを教会へ、カトリック信仰へと回心させることです。

キリストは御自分の一つの真の教会を設立するために死なれた

われわれは皆「ロシアは回心するでしょう」という言葉をよく知っています。しかし私は実際はある人はこれが何を意味すると考えているか、疑問を持っています。ある人々はロシアが何に回心すると考えているのでしょうか?厳格な菜食主義と平和愛好のエコロジカルな意識への回心ですか?そうではないでしょう?聖母がお話しになった回心は一つの真の教会への回心です。ただ一つの真の教会だけが存在します。それはわれわれの教会です。われわれが属している教会です。聖母は、そしてわれらの主はカトリック信仰へのロシアの回心を望んでおられます。なぜなら聖母はそれが彼女の御子がそれを設立するために死なれた教会であるということを知っておられるからです。聖母の神である御子はその教会のために、聖母が見守っておられたときに、その最後の血の一滴をお捧げになりました。教会を廻って回避策を採るというこのプロテスタントの考え方に従わないでください。

キリストは教会を設立なさいました。そして教会に霊魂たちを救う仕事をお与えになりました。人々は直接的に行って「ここに私は聖書を持っている。私は自分自身を救うつもりである」と言うことを許されていません。それはキリストが決定なさった仕方ではありません。霊魂たちを救うことを委ねられているのは教会です。そしてあなたはそれを廻って回避策を採ることはできないのです。

そしてそれゆえ聖母がそしてわれらの主がロシアについて話しておられる回心は他ならずカトリック信仰への回心です。カトリック信仰の外ではユダヤ教徒もヒンドゥー教徒もイスラム教徒も正教徒もプロテスタントも救われることはできませんし、あるいは救われないでしょう。再び、感傷的な行為や偽りのエキュメニズムに注意してください。それらは最近われわれの教会のあらゆる段階で至る所に広がりました。真のエキュメニズムが存在します。

感傷的な行為に注意しなさい

ここに真のエキュメニズムの精神があります。われわれの大陸に猛威を振るっている一つの伝染病があると想像してください。それは100%致命的なものです。今われわれはそれを世俗的なあり方そして大罪と呼ぶことができます。しかしそれは細菌によって引き起こされた一つの伝染病であると言いましょう。そして一人の科学者はその治療法を見つけています。彼はその伝染病のための治療法を持っているただ一人の人物です。そして彼は世界にこう告げます:「私はあなたにこの治療法を与えます。しかしあなたはそれを得るために私のところへ来なければなりません。それは一つの単純な事実です。私は横柄な者ではありません。」もし彼がその伝染病のための唯一の治療法を持っているならば、人々にそれがその通りであると告げることはその医師が横柄であるということでしょうか?いいえ、それは真理であり、そしてそれは愛です。それが真のエキュメニズムです。キリストによって設立された教会は治療法、解決、他の誰も所有していない永遠の生命の手段を持っています。そして教会はそれを自由に与えます。実際、ある意味において自由に与えます。しかしその宣教師たちや殉教者たちの代価を払って与えるのです。

それゆえ、感傷的な行為に注意してください。私の生涯の中で私がかつて経験した最悪の事柄の一つはニュースで教皇ヨハネ・パウロ二世を見たことでした。私はそれの一つの切り抜きをインタネット・サービスの上で見ました。彼はエルサレムで飛行機から降りられそしてこう言われます:「私はあなたたちを回心させるためにここにいるのではありません。」ところで、私はこう言ったでしょう。「教皇聖下、それではあなたはなぜ帰国なさらないのですか?なぜなら、これらの人々を回心させることはあなたの任務であるからです。これらの人々を回心させることは愛[charity]です。」そしてもし教皇御自身が「私はあなたたちを回心させるためにここにいるのではありません」というようなつまらないことを言われるとするならば、その他のわれわれについてはどうなのでしょうか?もしそれが単純に、私はよろしい、あなたはよろしい、地獄に行く人々が実際にはいないという振りをしましょう、ということであるわれわれの位階はどうなるのかということであるならば、それは愛でしょうか?いいえ、それは愛ではありません。聖母は教会が長い間教えてきたこと、すなわち唯一の真の平和はカトリック社会秩序におけるキリストの平和であるということを主張しておられます。

カトリック的社会秩序

カトリックの社会的な教えはどうなったでしょうか?先の世紀じゅうずっとわれわれは Quas Primas のような諸々の偉大な回勅を持っていました。そしてこれらの回勅は一つのカトリック的社会秩序における世界のための一つの計画を決定しました。ところでなぜ社会秩序は今言及されるべきものとして重要なのでしょうか?それはあなたがカトリック的な社会的教えを知るべきであるからです。それはロシアが回心したときにそれが世界のためのモデルとなるはずだからです。聖にして母なるロシアが世界中に広めるであろうのは一つのカトリック的な社会秩序であり、カトリック的な社会的教えであるでしょう。そしてそれがどのように働くと考えられているかを知ることはよいことであるでしょう。

一つの単純な提案

ところでまさに可能なところで私が提案したい最後の一つの事柄は小さな事柄ですが、しかしそれは有益であろうと私は考えています。そしてもう一度言えばそれはあらゆる状況において可能であるものではありません。それはあなたの状況においてもしそれが可能であればそのための一つの提案です。そしてそれは、われわれが一つの復活に影響を及ぼす必要があるということです。私はミサの後のレオ教皇の祈りの復活を提案します。それらの祈りについて聞いたことがない人々のために、教皇レオ十三世は1884年1月6日にローマ問題に対する一つの解決に向かって読誦ミサの後にどこでも唱えられるべきいくつかの祈りを布告されました。ローマ問題とは何だったのでしょうか?そうですね、フリー・メーソンたちは教皇国家の奪取とヴァチカンへの教皇の監禁を画策していました。そしてこれは幾分緊急の状況のものでした。あなたたちはヴァチカンの囚人であった諸教皇について聴いたことがありますか?

それゆえ当時のイタリアのフリー・メーソンの政府とのある種の解決を見出すために教皇はこれらの特別の祈りを提案されたのです。1929年2月11日にヴァチカンと政府との間でうまく一つの合意が達成されました。それで、そのとき教皇 - 教皇ピオ十一世でしたが - は1930年6月30日に祈りの意向をロシアの回心のための祈りへと変えられました。

さてこれはとりわけファチマ・メッセージとは何の関係もありません。それは、われわれが昨日、ロシアにおいて進行していた大きな迫害についての話の一つにおいて聴いたように、そこで彼らが司祭たちや司教たち、カトリック教徒たちを集めそして彼らを撃ち殺していたからです。そしてこの大きな迫害のゆえにピオ十一世はこの意向のためにレオ教皇の祈りを提案されました。というのはローマ問題が解決され、この問題に引き継がれたからです。

ところで1964年9月26日に、第二ヴァチカン公会議が終わる以前にさえ、レオ教皇の祈りはパウロ六世によって抑圧されていました。それゆえそれらの祈りは強制的にもはや存在しませんでした。しかしわれわれはこれらの祈りを復活させることができます。そしてそれらの祈りをミサの後に唱えることができます。あなたがすることは次のことです:ミサを捧げ終わったら祭壇の前に跪き、次の祈りを唱えます。あなたは望む言語でその祈りを唱えることができます:天使祝詞3回、Hail Holy Queen、そして次の祈りです:

おお、われらの避難所、われらの力にまします神よ、御身に向かって叫び奉る御身の民の上に好意もて御目を注ぎ給え。また栄光の、汚れなきおとめマリア、神の御母、彼女の配偶者祝せられた聖ヨゼフ、祝せられた使徒ペトロとパウロ、そしてすべての聖人の執り成しによりて、同じわれらの主キリストを通じて、罪人たちの回心のため、聖にして母なるわれらの教会の自由と賞賛のために献げるこの祈りを憐れみと慈悲とをもて聴き入れ給え。アーメン。

そしてそれから聖ミカエルに対する祈りを唱えます。

もしわれわれがこれらの祈りを聖母の汚れなき御心にロシアを奉献なさる教皇の意向のために献げるならば、それは、単にその祈りの復活であるばかりでなく、1964年以来それらが持っていなかった一つの更新された目的の復活であるでしょう。

ところで、このことには一つの先例があります。合衆国において私がよく知っている司教区の一つ、アラバマ州モーバイルでそこの司教様はすべてのミサの後に神の賞賛の祈りを唱えるよう要求なさっていました。神の賞賛の祈りは「神は祝せられますように、神の聖なる御名は祝せられますように、そしてハリケーンからの保護を求める祈りのようなことを含んでいました。さて第二ヴァチカン公会議の新しい司教様がそこへ来られました。そして自分はその先任者たちがときどきそうすることを好まれたように、その先任者たちよりももっとよく知っていると考えられました。それでその司教様はそれらの祈りを撤回されました。彼がそれらの祈りを撤回された一年後に都市はハリケーンによって壊滅させられました。生ける記憶における最初としてハリケーンによって荒廃させられました。完全に倒壊させられたのではないが、荒廃させられました。それで彼はすぐにかつてそうであったようにそれらの祈りを回復しました。そしてそれ以来その都市はハリケーンの打撃を蒙っていません。しかしこの種の事柄をすることには先例があります。司祭たちはそれをすることを許されています。司教たちは彼らの司祭たちにある特別の意向のためにミサの後にこの種の事柄をするように告げることを許されています。

親愛なる友人の皆さん、これらの事柄を行ってください。そうすればわれわれは解決の部分となるでしょう。これらの事柄を拒否なさい、そうすればわれわれは問題の部分となるでしょう。それはそのように簡単なことです。

ファチマの聖母われらのために祈り給え。神の御母われらのために祈り給え。父と子と聖霊との御名によりて。アーメン。

最新の画像もっと見る