けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

丸血留の道(14)

2006年08月01日 | Weblog
 丸血留の道 第三 でうすを陳じ[否定し]奉ることは如何程の重罪ぞと言うこと、並びに料簡を加ゆる事。

 「二には妻子と友人のためにキリシタンを棄教することは第一の迷いに劣らぬ迷いである。なぜかと言えば、死ぬ時に財宝を後に残して行くのと同じように、妻子と知人にも離れずにいるわけにはいかないからである。死んだ後まで見捨てず確実であるあにまの友人というのは、でうすから下されたがらさと善行をもって求めた功徳のことである。この友人こそ最後の審判の時まで伴って行き、でうすの御前で天国を与えてくださるようにいろいろと執り成しをしてくれるものである。一大事の時に及んで私のあにまをお見捨てにならないでうすがらさと、善い行いをもって求めた功徳を振り捨ててあまり頼りにならない妻子や友人のために棄教することは本当に喩えを言う方法もない。それだけでなく、上に述べた友人となるがらさ、功徳をはじめとして限りなく大きな御恩を残らず与えて御自分のあにままでも与え給い、敵となる筈のわれらのためにその御命までも捨て給うた御主イエズス・キリストに似せられた友人すなわちあにまはどこの国にいるであろうか。それなのに棄教してイエズス・キリストと自分のあにまを 捨てよと勧める悪人をあなたの友人と思うのか。これは真に愚鈍の至り、嘆きの中の嘆き、まったく言いようのないほどけしからぬことである。ほんとうにこの ような者はあなたにとって古くからの敵、現在の敵、恐ろしい悪魔である。マテオ聖福音書において「汝ら偽預言者を警戒せよ、彼らは羊の衣服を着て汝らに至 れども、内は荒き狼なり」(7:15)と言われているのは、このような者を指してのことであると心得なければならない。このように悟ったならば、その意見 を聞き入れてはならない。そうしてまた、キリシタンを棄教しないと言って親類や友人を捨てた代わりに天において数万の天使や聖人たちと一緒になるであろ う。諸々の天使、聖人の清浄潔白なこと、その人を感服させる力、その威厳のこの上なく大きいこと、あなたのために尽くされるその憐れみや愛の程度は真に言 葉や喩えでは表現できない。その大きな愛情の千万分の一でさえ誰が詳しく述べ得ようか。でうすに 対する奉仕のために親類・友人を捨てる場合には、忝ないことに天地の御主があなたの親類・兄弟となり給うのである。主御自身の言葉に「誰にもあれ、天にま しますわが父のみ旨を行う人、すなわちこれわが兄弟、姉妹、母なり」(マテオ12:50)とある。御父のみ旨を行う人を御自分の兄弟となし給うというので あるから、ましていわんや、御掟に背くまいとして親類・友人さらに自分の命までも抛つ者をそうなさるのは言うまでもないことである。」

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 棄教の第一の理由は物質的なもののためであるが、棄教の第二の理由は人間関係のためである。妻子・親類・友人のために棄教する、すなわち、人間を選んで 神を離れるということである。このこともまた、現世のはかない人間関係と永遠に続く神との親しい関係のどちらかを選ばなければならない状況に立ち至ったと きにどちらを選ぶべきかは明らかであるということを示すものである。ただこれらの二者択一は来世を信じない人々には無意味であろう。この世がすべてで死ね ば無に帰すと思う人には較べるべき神や来世や霊魂が視野に入って来ないからいずれを取るかという選択もない。信仰自体がすでに神の恩寵なのであろう。しか しカルヴィンのような予定説を取ってはならない。神はすべての人の永遠の救いを望んでおられ、そのためにこそ御子イエズス・キリストをこの世に遣わされ、 御子は十字架の苦しみを御父に捧げ給うたのである。キリストはそのことを世に伝えるために使徒をお選びになり宣教の使命を与え給うた。聞く耳を持つ人は聞 けということである。


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