けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

丸血留の道 (1)

2006年07月19日 | Weblog
 第一 キリシタンの上にペルセギサン(Perseguicao=迫害。cはフランス語のセディーユ)あるようにでうす計らい給う子細のこと。

 「どちりなきりしたん」から「丸血留の道」へ移るることにする。以下で用いさせていただくのは「 H.チースリク、土井忠生、大塚光信校注 丸血留の道 日本思想大系 25 キリシタン書 排耶書 岩波書店刊行 p. 323-360 」である。ただ原文をそのまま載せるわけにはいかないので、拙いながら私なりに口語に直してみた。

 丸血留はもちろん当て字であり、原語は Martir(ポ)、ラテン語では Martyr、殉教者のことである。殉教はMartirio(ポ)、Martyrio(ラ)である。元々はギリシャ語のμαρτυs から来ており、その意味は証人である。証人は裁判所で真理のために証拠を立てる。キリストはマテオ聖福音書において次のように言われた。「人に警戒せよ、 そは汝らを衆議所に渡し、また、その諸会堂にてむち打つべければなり。また、わがために汝ら官吏、帝王の前に引かれて、彼らおよび異邦人に証となることあ るべし」(マテオ10:17-18)。キリストはこのように弟子たちと信徒がキリストの証人となるべきことをお求めになった。日常の生活において証人とな るだけでなく、迫害の時には命をかけて証人となることがキリスト者に求められるが、この後者の場合が殉教ということである。

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 「そもそも御扶け手ゼズ・キリシトがこの世におられた間にたびたび言われたことは「われにつきてつまずかざる人は幸いなり」(マテオ11:6)ということである。ゼズ・キリシトが誕生された本当の意味は悪魔の働きと地獄への道となる悪・罪を赦し給い、でうすを 尊び奉る天の道である諸々の善を教え導き給うためである。それゆえ、諸悪の根元は三つある。一に貪欲、二に驕り高ぶる心、三に好色である。この三つが根本 となって悪が生まれる。御主ゼズ・キリシトは来世の道を教え給い、この三つの根元に救済の方法を示された。それは貧と謙と難行である。貧の善をもって貪欲 の悪を服従させ、謙遜をもって高慢を滅ぼし、難行をもって肉体的快楽追求の罪悪とそれから出てくる邪妄の悪を断ち給う。」
                          
 「世人は異教徒の幸福、高い身分、栄華を見聞きすると、巡り合わせのよい人だと言って敬うのが常である。またゼズ・キリシトの御貧賤、御パシヨン(御受難)のことを聞いてでうすに まします御扶け手の御威光には相応しくないと見、不審に思い、軽んじ奉る者がいる。たといキリシタンとなっても、ものの道理をよく弁えない者は罪を問わ れ、迫害を受けるようになると自分の宗門にしばしばこの災難があるのはなぜか、ひょっとして真実の教え、来世の救いに至る道ではないのではないかと迷うこ とも多い。それゆえ、ゼズ・キリシトが上に挙げたように「われにつきてつまずかざる人は幸いなり」と宣うたのはまったくその通りである。なぜなら、御主ゼ ズ・キリシトの御貧賤、御謙遜、御受難の御苦難は表面的に考えれば恐ろしくまた見苦しく、天地万物の御主でうすには似合わないと見えるけれども、御貧賤の下に深い御善徳、御名誉が隠れて輝いているからである。」

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 以上が冒頭の二小節である。キリスト教はキリストが「われにつきてつまずかざる人は幸いなり」と言われるように、キリストに従わないすべての人間の躓き となる宗教である。世が高く評価する富や高い地位や快楽,特に性的快楽が悪への誘いの重要な役割を果たすことを教える宗教は世間から疎まれる。貧しさ、謙 り、苦難は人が避けたがるものである。その成立以来間もなく迫害が始まり、歴史を通じて止むことなく続き、現在も世界中で迫害が起こっているのはキリスト 教に特有の事情であると言ってもよい。現世をすべてと見る人々がますます増えている。来世?そんなものは無いさ、だから来世の魂の救いを説くキリスト教は 世間から、特に無神論国家から嫌われるのだ、というわけである。

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