「嵐の前の静けさ」
The Fatima Crusader, Issue 56, Winter 1998より
ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)
この論考はミネソタ州セント・クラウドでグルーナー神父によって行われた講演に基づくものです。
今日われわれは悲劇と勝利の両方の瀬戸際にいます。悲劇について話す前に、私は聖母のメッセージが、そして私のメッセージもまた、希望のメッセージ、勝利のメッセージであるということを強調したいと思います。
われわれは聖母が次のように言われたということを思い出さなければなりません。そして彼女はそれを計画されたのであり、そしてそのことは起こるでしょう。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心し、ある期間平和が人類に与えられるでしょう。」
それが彼女の預言です。それが彼女の予言です。それはまだ起こっていませんが、にもかかわらず起こるでしょう。
希望と気分のよさ
かなり以前、1984年にロス・アンジェルスで、ある無神論者に話していたときのことを私は今でも覚えています。私がファチマのメッセージと、それが与えていた平和の約束を彼に語ったとき、彼は長い間に現代世界に対する何らかの希望のしるしを見たのはこれが始めてであると言いました。ところで彼はそのメッセージを必ずしも信じていませんでした。しかしそれは世界にとって何らかの意味を持つ-と恐らく彼は見ることができたのでしょう-最初の希望のメッセージでした。
二種類の希望があります。一つはもしわれわれが真理をわれわれ自身からまさに隠し、悪いニュースを見ないならば、という考えに基づいています。そのとき、われわれは心の中に希望のこの感情を持つことができます。
キリスト教的な希望ははるかにそれ以上のものです。それは危険があるということ、すなわち、通り抜けるのが困難な道があるが、にもかかわらず、われわれが勝利の可能性を持っているということを認めています。
ところでもちろん、キリスト教的希望はまず第一にわれわれ自身の個人的な永遠の救いに関わっています。われわれは天国への途上にわれわれ一人ひとりにとって多くの危険があるということを意識すべきです。しかしながら、もしわれわれが神の恩寵と光に従うならば、そのことは世があなたたちに信じさせたよりははるかに容易です。
世界の出来事とあなたの永遠の救い
私がここで話していることはわれわれの永遠の救いの希望です。なぜなら、われわれの永遠の希望はある程度現在の出来事と結びついているからです。ある仕方でそれは結びついており、ある仕方では結びついていません。それは古代の、ローマの時代の、あるいは他の時代の殉教者たちのようでなければならないことはありません。人々がわれわれにどんなことをするとしても、われわれは神と我らの主に忠実であり得るし、またなければなりません。
ファチマの聖母はあなたが払う税金について、結ばれる軍備協定や軍備縮小協定について、世界の状況について、そして同様にこれらすべての現世の事件について関心を持っておられます。それはそれらがあなたの永遠の救いよりももっと重要だからではなく、まさにあなたの永遠の救いがそのように重要だからです。
教皇ヨハネ・パウロ二世がファチマに行かれたとき、彼は聖母が話しかけておられる別の関心について語られました。教皇ヨハネ・パウロ二世は、彼女がわれわれの御母であり、彼女がわれわれの生活のあらゆる局面に関心を持たれるから、そのことを言われたのです。しかし、彼女は第一に、そしてとりわけ、われわれ自身の永遠の救いに対して関心を持っておられます。
政治と共通善
ある人々は、恐らく「ファチマ・クルーセイダー」あるいはグルーナー神父はあまりにも「政治的」であると考えます。もしわれわれが真にカトリック教徒であるならば、われわれはある程度政治的でなければならません。そしてそのことによって私は何を意味しているのでしょうか?もしわれわれがそうすべきであり、神によって命じられているように、われわれの隣人を愛するならば、そのときわれわれは共通善に関心を持つべきです。政治は共通善に影響を及ぼす立法に関わります。外交は共通善に関係します。今日外交はそれがしばしば実践されているように、われわれに害を与えるように働いています。というのは、それは実際に共通善に奉仕しないで、神の敵たちの協議事項にだけ奉仕しているからです。
聖トマスは法を共同体の共通善の責任を持つ者によって与えられる理性の秩序づけと定義しています。もし法が理に適ったものでないならば、権威を持つ者によって発布されないならば、そしてもし法が共通善のためでないならば、それは法ではありません。それはそのように単純なことです。
すべての法は共通善のためでなければなりません。さもなければ、それは単純に法ではありません。われわれはすべて共通善に対する義務を持っています。共通善は単にわれわれの妻、子どもたち、兄弟たち、姉妹たち、母たち、そして父たちの善に言及するのではありません。共通善はあらゆる人々に関係します。
共通善に反する大罪
だから、共産主義者のために投票することが大罪であるのとまさに同じように、堕胎に賛成する誰かのために投票することは大罪です。共通善に対するあなたの義務は基本的な問題においてそれに注意しないためにあなたがあなたの霊魂を失い得るほどに厳しいものです。
多くの人々はわれわれの義務は単にわれわれが知っている、あるいは出会う、あるいはわれわれが特別の関係を持つ誰かある人に対するものであると理解します。そのことは真です。しかし、われわれはまたわれわれが出会わないすべての人々、そしてわれわれが決して出会わないであろうすべての人々に対する一つの義務をも持っています。
聖トマスは兄弟愛は暖炉の中の火のようなものであるとわれわれに告げています。それは最も近い人々を暖めますが、しかし誰をも排除しません。明らかに神の敵である罪人に対するわれわれの愛は聖人そして神の友である人に対するわれわれの愛とは違った風に表現されるでしょう。
われわれの敵そして神の敵に対するわれわれの愛は彼らの回心のために祈ること、あるいは少なくとも彼らが教会に対してまた霊魂たちに対して加えようと意図している害が成功しないことです。そのようにして少なくとも地獄における彼らの場所は彼らにとってよりましなものでしょう。
われわれは真理を証言しなければならない
われわれはすべての人々に対して愛を持つべきです。しかし、そのことにおいて見失われてしまったことの一つは真理に対する義務です。われわれは単にわれわれに隣人に対して嘘を言うことを止めるよう命じられているだけではなく、また私的にも、公的にも真理を語る義務を持っています
真理に対する義務は共通善に及びます。それゆえに、聖母がファチマで話されるとき、彼女はその誤謬を広めているロシアについて話されます。
カール・マルクスは、私の知る限り、一度も殺人を犯してはいません。しかし彼の誤謬は1億5000万人以上の人々をその暴力的な死へと送りました。そしてそのことは堕胎を数えていなくてさえそれだけなのです。
聖母がロシアの誤謬について話されるとき、彼女は何かある非常に重大なことを話しておられます。そしてそれゆえ、真理に対するわれわれの義務は(a)聖母が言われたことの真理を支持すること、そして(b)今日でさえ、そしてわれわれがロシアは回心しつつあると告げられている間でさえ、広められている誤謬が存在するということを指摘することです。
それと違った風にあなたに告げることは虚偽です。すなわち、それはあなたに対するひどい仕打ち、愛のない行い、そして不正です。もし私が私自身の迫害が止むようにあらゆることが申し分ないという一つのバラ色の絵を描くために、「ファチマ・クルーセイダー」を出版し、ラジオ放送やテレビ放映をするためのあなたたちの寄付金を使っているとしたら、もし私がそうするためにこれらの手段を使っているとしたら、それはあなたたちに対して公正ではないでしょう。そして私はそうするように求められてきたのです。確かに、そうすることは私にとって人間的な見地からすれば、はるかに容易であったでしょう。しかし、もし私が彼らの圧力に屈してそうしたならば、私は人々から不正にお金を取ったことのために私の魂を失うことになるでしょう。
共通善と真理に対する義務は十分に強調されていないあるものです。生活の解決と幸福は、あなたたちが気分がよいと感じている限りあらゆることがうまく行っている[と感じさせてくれる]30分のテレビ幻想の中に完全にパッケージ化されて届けられる現代には特にそうです!
真理にとって重要なことは知られることです。さもなければ、聖母の勝利がやって来るとき、われわれは間違った側にいる自分自身を見出すでしょう。われわれは聖母と共に、あるいは勝利する者と共にいないでしょう。
信仰に対する明白な、近い、そして現在の危険
われわれは我らの主が、もしそれが可能であるならば、選ばれた者でさえ欺かれるであろうということについて語っておられる時代にいます。これは私の意見ではありません。
1984年に第三の秘密について話しているラッツィンガー枢機卿はこう質問されました。「あなたは第三の秘密を読みましたか?」(ファチマの第三の秘密に言及しながら)彼は言いました。「はい、読みました。」彼はこう質問されました。「それは何に関係していますか?」彼は言いました。「それはわれわれの信仰に関係しています。」
こう話しているのは信仰教義聖省長官です。彼は今日もなおその職にあります。そして彼の仕事は、数ある中で特に、報告され、そして検証された御出現を監視することです。彼は第三の秘密の実物のテキストに接した少数の人々の一人です。そして彼はこう言ました。「そうです。私はそれを読みました。それはわれわれの信仰の危険に関係しています。」
彼は続けてこう言っています。「そしてそれゆえにキリスト教徒の生活に対する、そしてそれゆえに世界の生活に対する(危険)に関係しています。」彼は第三の秘密は聖書の中に含まれている、そしてそれは「イ・ノヴィッシミ」終わりの事柄、終わりの時に関係するとわれわれに告げています。
選ばれた者でさえ....?
そこで、第三の秘密は、もしそれが終わりの時に言及しているとすれば、大棄教に言及しているのである。
聖パウロはテサロニケ人への第一の手紙、第二章において反キリストは大棄教がまず起こるまでは来ないであろうとわれわれに告げています。この棄教という言葉は何でしょうか。それは何を意味するのでしょうか?棄教は聖パウロによってばかりでなく、我らの主御自身によって予言された大脱落です。主は言われます。「人の子がふたたび来るとき、彼は地上に信仰を見出すであろうか?」我らの主はその時について話されながら、こう言われました。「もしそれが可能ならば、選ばれた者でさえ欺かれるであろう。」
近代主義に関する教皇聖ピオ十世の1907年の回勅を私が最初に読んだとき、私は驚いたと言わなければなりません。私は現在それを4、5回読んできましたが、それは少なくとも年に一度は読む価値があります。
教皇聖ピオ十世は近代主義の策略は同時にあなたがなお信仰を持っているとあなたに信じさせる一方であなたの信仰を取り去ることであるとわれわれに告げておられます。そのことを彼らはカトリックの用語と用語法を使うことによってやるのです。しかしそのとき、あなたにそのことを言うことなしに、それらの用語に別の意味を与えることによって、そうするのです。
これが1960年以来カトリック教会において大規模に起こってきたことです。その結果「もしそれが可能であるならば、選ばれた者でさえ欺かれるであろう。」それがファチマの第三の秘密の重荷です。
内部からの欺瞞
教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマに行かれたとき、このことをほのめかされました。「聖霊において育み、すべての人の救いを望まれる愛のすべての力をもった御母がその子どもたちの救いのまさに基礎そのものが堀り崩されるのをご覧になって、黙っていることがおできになるだろうか?」
教皇は彼自身の修辞的問いにこう答えられます。「いいや、彼女は黙っていることがおできにならない。」教皇はわれわれの救いの基礎が何であるかを説明される必要がありませんでした。われわれの救いの基礎はわれわれのカトリック信仰です。これはカトリック信条である聖アタナシウス信条の最初の行です。そしてあなたはこの信条がカトリック的であることを信じなければなりません。
アタナシウス信条はデンツィンガーあるいはどの標準的なカトリック神学の書物、ならびに聖務日祷のような最も公式的なカトリック祈祷書にも見出すことができます。
アタナシウス信条はわれわれにこう告げています。「救われることを望む者は誰でも、どんなよい働きをも為す前にまず第一にカトリック信仰に全体的かつ完全にすがりつかなければならない。」それはカトリック教会の教えです。
聖母はわれわれの信仰が掘り崩されているのをご覧になります。そしてそれゆえに彼女は沈黙したままでいることがおできになりません。そしてそれが彼女がファチマに来られた理由です。われわれの信仰は堀り崩されています。「掘り崩される」という言葉の使用によって教皇はその掘り崩しが教会の内部から為されているということを示唆しておられるのです。
あなたがそれを内部からしているのでないならば、あなたは掘り崩しているのではありません。そしてそれは一つの転覆行為です。もしそれが単に攻撃であったならば、教皇はそれを攻撃と言われたでしょう。しかし、彼は掘り崩されるという言葉を明らかにそして意図して使われたのです。
あなたの自由な、強力な後援
それが聖母がファチマに来られたたびにいつもわれわれがロザリオを祈るように強調された理由です。彼女は聖ドミニコに、もしあなたが毎日ロザリオを祈るならば、あなたは異端に陥ることはなく、またあなたの信仰を掘り崩させないであろうと約束されました。もしあなたが異端に陥るという不幸を持っても、しかしロザリオを祈り続けたならば、聖母は異端から抜け出すのに必要とされる恵みをあなたにお与えになるでしょう。
私の友人、「鳩男」として知られているハーミッシュ・フレーザーは共産主義者でした。彼は1947年に回心しました。1950年に彼はファチマ会議に出席しました。そして鳩が放たれたとき普通は巡礼聖母像と共にとどまっていましたが、一匹が彼の頭の上に止まり、長い間去ろうとしませんでした。それはあたかもファチマの聖母を讃える彼のスピーチが特別に強調されたかのようでした。
ハーミッシュはロシアが回心させられ得るということを彼がどのように知っているかについて話しました。彼は言いました。「私はまさにそのことを信じませんでした。私は私がそれを生き抜いたからそれを知っています。」しかし彼はその自伝の中で、共産主義者にとって彼らがその中にいる精神的な霧から逃れることがどのように不可能であるかを記述しています。彼らの全精神がどのように歪められ、ねじ曲げられているか、その結果ある特別な恵みなしには彼らにとってその精神状態を変え、カトリック信仰の恵みと真理に対して開かれることが不可能であるかを述べています。
精神がどのように働くか、そして階級全体が、そして人々の集団が真理に対してどのように閉ざされ得るかを知りたい人々にはそれは興味あるものです。しかし、始めから嘘つきであり殺人者である悪魔の計略はロザリオの単純な実行によって克服されます。それがどのように強力であるかをわれわれが理解すればいいのですが。しかしある地域ではロザリオはどのように軽蔑されていることでしょうか。
カトリック信仰は絶対的に必要なものである
信仰なしにはあなたは適切に秘蹟を受けることができません。信仰なしにはあなたはどんなよい働きもすることはできません。信仰なしにはあなたは愛を持つことはできません。あるいはそのことに関するかぎりでは希望を持つことはできません。あなたはまやかしの希望そしてまやかしの愛を持つことはできます。しかし、信仰なしにはあなたは真の愛あるいは真の希望を持つことはできないのです。
聖パウロは愛はそのいずれよりも大きいとわれわれに告げています。しかし信仰はにもかかわらず希望および愛の両者の基礎です。
聖母はわれわれに勝利を約束しておられます。第一に、そしてとりわけそれは信仰の敵ども、教会の敵どもに対する勝利です。しかし、われわれがそうすべきであるように、これらの霊的なことがらに集中している一方で、われわれは聖書においてか、あるいはファチマの公的な預言的啓示においてかのいずれかで、啓示の他の局面を見失ってはなりません。
聖トマスは、神は新しい教義を与えるためではなく、信者に彼らがその霊魂を救うためには何を為さなければならないかを思い起こさせるために、あらゆる世代に預言者たちを送られるとわれわれに告げています。
一時的流行の危険
癌の研究者であった私の祖父は医師たちでさえ一時的流行に走るということを指摘しました。しばらくの間大抵の医師は外科が行くべき道である、次ぎにピル、次ぎにこれ、次ぎにあれ、と言ました。これは医療実践を軽蔑しているのではありません。私が単純に言いたいことは、いろいろな職業において、そして聖職者の間でさえ、物事が一時的流行に向かうということです。
さて、ある真理がある職業に持ち出され、そしてしばらくの間強調され、発展するということには何ら問題はありません。それにはある種の論理があります。しかし起こっていることはある時代にある他の真理が忘れられるということです。
これらの真理のあるものはあなたの救いのために必要です。(それが神が信者に彼らがその霊魂を救うためには何を為さなければならないかを思い起こさせるために預言者たちを送られる理由です。)
使徒たちと預言者たち。教会の基礎
そしてそのように教会はただ司祭、司教そして教皇の基礎の上にだけ建てられているのではありません。このことはたとえあなたたちには異端的に聞こえるとしても、真です。聖書は、教会はまた預言者たちの基礎の上にも建てられているとわれわれに告げています。エフェソ人への手紙、第2章第20節は教会が使徒と預言者という土台の上に、キリスト・イエズスご自身を要石として築き上げられている、と言っています。そしてもしあなたが新約聖書の中で使徒行伝を読むならば、初代教会は使徒たちによって導かれていただけでなく、また預言者たちによって導かれていたということを見るでしょう。
そのことの最も大きな例は聖パウロの司教としての選任です。使徒たちが聖パウロが選任の選ばれた器である、彼がとっておかれるべきである、そして彼が司教とされるべきであると認めたのは預言の声を通してでした。彼は聖別されるべきでした。
このメッセージが与えられたとき、バルナバとパウロは、そして他の人々も同様に、祈りにおいて一緒に集まっていました。しかし、この集会の始めに呼び求められた聖霊が話され、そして言われました。「私はパウロとバルナバをとっておくことを望む。」
神のためにとっておくこと
それゆえ、奉献するという語はとっておくこと、そしてもっと正確には、聖なる目的のためにとっておくことを意味します。このことはその集会に出席している他のカトリック信者が聖霊にとって重要ではなかったということを意味しません。彼らもまた、彼ら自身の仕方で、彼らの洗礼によって奉献されていました。しかし、これは特殊的な奉献であり、そしてそれは聖パウロとバルナバを部屋にいた他の人々から区別しました。
それゆえ、奉献するという語はその文脈において理解されなければなりません。というのは、その語のまさに目的がとっておくことを意味しているからです。あなたはあるものを他のあるものからとっておきます。あるいはある人を他の人々からとっておきます。もしあなたが奉献するという語をその文脈において理解しないならば、確かに非常に容易にそれを誤解し、誤って解釈することがあり得ます。
私がこのことに言及するのは、ロシアの奉献について話が及ぶときに、今日この語が非常に誤用されるからです。聖母はロシアの奉献について話されました。そして同じ節で、同時に、彼女は「世界の司教たち」と言われました。それゆえ、彼女は「世界の司教たち」という表現を用いられたのですから、世界が何であるかを知っておられます。彼女は世界のカトリック司教たちが一つの国、ロシアを奉献することを望んでおられます。彼女はロシアという国を世界の他の国々から区別しておられます。それゆえ、世界の一般的奉献は彼女が命じられたようにロシアを特別にとっておくのではありません。
希望を決して失わないように
次ぎに、私はファチマのメッセージが希望のメッセージであるという点に戻りたいと思います。私はあなたたちがこのことを数年のうちに見るであろうと信じています。そしてあなたたちは以前には決してしなかったような仕方でその約束にすがりつかなければならないでしょう。われわれは今、しかしそのときには特に、聖母が「彼女の愛する人々を守られるであろう」ということ、ロザリオと茶のスカプラリオが聖母の守護をわれわれの上に引き下ろすということを思い起こさなければなりません。彼女に対するわれわれの個人的な奉献を新たにし、ますます熱心に生きるようにしましょう。これは現在、そしてこれからの危険におけるわれわれの大きな護りとなるでしょう。「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。」最後に、です。聖母は一つの戦い、大きな戦いがあるということをわれわれに理解するよう望んでおられます。さもなければ、彼女は「最後に」とはおっしゃらなかったでしょう。
もし事態が、そうなるであろうと私が信じているように、悪くなるならば、「最後に」という聖母のこの約束を、そして彼女が勝利なさるということを思い起こしなさい。彼女が単に勝利されるばかりでなく、ロシアがカトリックになる、不可知論的な、あるいはそれほど戦闘的でないカトリックではなく、戦闘的なカトリックになるでしょう。
ファチマと聖パウロ
聖パウロが初代教会の最大の敵であり、そして彼が最も偉大な使徒に変わったように、そのことは幾分ロシアに、少なくとも生き残るある部分に、起こるであろう光景です。ファチマの聖母が世界の差し迫っている懲罰(それをわれわれは今日もなお生き抜いている)について与えられた大きなしるしが聖パウロの回心の祝日に起こったということは偶然の一致ではありません。
1938年1月25日に大きなしるしが見られました。私はカリフォルニア、東部アメリカ、カナダの人々からそう告げられました。そしてもちろん、それは全ヨーロッパでよく見えました。
北部アメリカではそれは非常に明るい白色の光として見られました。ある人々はそれはオーロラ・ボレアーリス、北極光であると考えました。しかし、そうではありませんでした。その光はスイスの空を非常に照らしたので、夜の11時に新聞を読むことができました。
私は1938年にオーストリアで神学生であった一人の司祭と話しました。そして彼は、空が日没後非常に明るい赤色だったので、神学校の司祭たちは大火で苦しんだ人々に秘蹟を授けるために呼び出されるだろうと考えた、と私に言ました。彼らは大災害が町で起こったに違いないと考えました。空を照らしている明るい光のために、彼らは来てくれるようにという救援の呼びかけを待ちながら、彼らの祈りを省略しました。それは決して来ませんでした。
これがそのしるしが与えた印象でした。それは都市全体が朝の3時頃まで燃え続けたこの明るい光を伴って燃えていたと思われました。 それは世界が見るであろうと聖母がルシアに約束なさった大きなしるしでした。「未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。」
ある人々はそれを単に第二次世界大戦を意味するものとだけ解釈しました。しかし、それはその時から今日まで続いている進行中の諸々の戦争、迫害、そして広範な飢餓に言及しているのです。
戦争、戦争、戦争
いたるところでの戦争。あなたたちはそれらすべてについて読みませんが、しかしジョージアにあるカーター・センターによれば、今日世界には110の武力紛争があります。私はそのことについての政治学の中には入って行きません。私はただ、あなたたちがこれを平和と呼ぶことは明らかにできないということを述べるだけです。
聖母は世界、人類は平和を持つでしょうと約束なさいました。そして彼女は平和について話されるとき、その御子がそれを用いられるのと同じ仕方でその言葉を用いておられます。それは単に、われわれがこれまで以上にもっと自由奔放に罪を犯し続けることができるような、戦争の欠如ではありません。教皇ヨハネ・パウロ二世がファチマで言われたように、それは単に罪がわれわれの諸々の制度の中で、そしてわれわれの社会の中で王座につかせられ得るような戦争の欠如ではありません。
平和、カトリック的な平和は単に戦争の欠如ではなくて、平和の王、平和の君であるキリストの君臨です。(続く)