G-PORT製のフィギュアキット
フィギュア造形の参考に買ったまま放置してた
当時2つ購入して 一つは白サフまで吹いてそのままになってる
胸のリボンの中心部分はクリアレンズに置き換えるつもりで削ってある
最近ならUVレジンでも作れるね
Ende;
G-PORT製のフィギュアキット
フィギュア造形の参考に買ったまま放置してた
当時2つ購入して 一つは白サフまで吹いてそのままになってる
胸のリボンの中心部分はクリアレンズに置き換えるつもりで削ってある
最近ならUVレジンでも作れるね
Ende;
勢いに任せてこさえてみたものの
何を着せるかとか何も考えていない
大きさは140ミリくらい
バンダイの30MSの手足がつけられるゴム製のトルソとか萌へないかな
の
デザイン案の一つ
Ende;
「魂とは完全な徳に基づくものである」
魂? 完全な徳?
根拠はどこにあるんだ?
「決めつけが少ない」(伊集院光)
一番重要な部分が決めつけだろ
「人間の本性」
? その基準こそがキモやろが
中庸 バランス問題 程よい
原発の危険性を放置すべきかどうかに中庸は存在しない
倫理には絶対的判断というものが存在するのであって 何でもかんでもバランス問題にすれば「ナチスに適度に迎合する」ことも正当化可能となるのである
そんな曖昧な倫理なんぞねぇだろ
Ende;
「答えのない問題」というものは一種類ではない
単に気分的に悩ましいだけで 論理客観的には答えなんぞ出しようもない 「絶対に答えが出てこないことが立証可能な問題」というのもあれば
「まだ誰も何がなのかはおろか そもそも正解が存在するのかどうかもわからない問題」というものもある
正解にたどりつくために必要な情報や知見自体が不足している場合や 単に「まだ誰も論理客観的には考えてすらいない」場合もある
つまり「まだ答えが見つかっていない問題」の場合には 答えが見つかる可能性が残されているが
気分的に悩ましいだけの問題の場合には答え自体が存在してないのであり そもそもそんな問題自体が論理客観的には「命題」ですらないのである
「トロッコ問題」が倫理的に役に立たないのは 命題自体が主観的に悩ましいだけであって そもそも倫理的責任が介在する命題ではないからである
「死んだ人数」だけで物事を判断するのであれば 死んでいなければ飲酒運転であっても事故さえ起こさなければ倫理に適ってしまうことになるのである
法手続き的な懲罰というものも意味を為さない なぜなら「バレなければ責任を問われない」からである
この世の全ての人の行動の全てを把握できるわけもなく しかもプライバシーも存在している以上は誰にもわからず無責任な「悪いこと」は可能なのである
原発事故であっても 津波に襲われて事故になるまでは非常用電源が津波に弱い地下にしかなかった無責任性も問われることはなかったのである
また 実際に刑罰による抑圧をしたところで 自律の欠落した無責任な者にとっては 「女子中学生を誘拐監禁することなど 高価な美術品を盗むよりは罪が軽いと思った」などと言い出す始末である
飲酒運転によって小学生を死傷させた大型トラック運転手においても 警察に捕まって厳しい取り調べを受けて嫌な気持ちになったから「反省」しているだけであって 飲酒運転に対する罪悪感よりも 目先の欲望の方が勝っていたから事故になるまで飲酒運転を続けたのである
他人から促されるまでは問題だとすら「思って」いない
それは 振り込め詐欺に騙されているにも関わらず頑なに「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張る人の「思い込み」と同じものであって 実際に目の前に物的証拠を見せられても「理解」しているわけではなく 「皆が言っているから」観念的に認めているに過ぎない
犯罪者の多くが懲役刑を終えて出所しても凡(およ)そ半数(英国では70%以上)が再犯してしまうのも 自分がなぜ無責任な犯罪を犯しているのかを理解していないことや そもそも無責任であることの何が悪いのかも理解してないのが原因である
刑務所の中だけなら 外見上反省しているかのような態度を採ることは可能であり だからこそ「へずまりゅう」は釈放後に「俺の涙はヨダレと一緒」などと称して司法裁判を愚弄しているのである
釈放されれば何を言っても「言論の自由」であり どんなに司法を冒涜しても罪に問われることはないのである
司法による法手続きというものは その程度の抑止力しか持っておらず 本人の自律の有無に関しては「思想信条の自由」の範疇として扱われてしまっているのである
自律的な社会的責任については 本人の意識の問題であって 法的に抑圧してどうにかなるものではない
基本的な理想としては 国民の全てが自律的に社会的責任判断選択を行うことが必要であって 国民が社会的責任を負わないのであれば役人もまた負うことはなくなるのである
警察権力任せにしておいても国民の自律を促すことにおいては逆効果であって 逆に国民が警察権力に依存しているが故に警察もまた厳罰化にばかり頼る施策しかしなくなるのである
こうした相互依存的な責任のなすりつけ合い制度だからこそ 論理客観的な犯罪の原因究明や再発防止のための施策がほとんど進まないのである
「ほとんど」は進まないのだが 少しづつは進んでいる
それは 現場の警察官や 窃盗症治療に携わる医師などの当事者の中に問題意識を持った人もいるからであって
「意識」なくしてあらゆる問題は解決しないのである
ヒトの大半は 他人から考えを促されなければ何が問題なのかすら自分では見つけることすらしないバカである
警察官も大半は自分の「業績」にしか興味はなく 警察としての社会的役割や「本当の目的」に基づいた行動選択など興味がないバカが大半である
道路交通法違反は現行犯でしか逮捕出来ないとか 整備不良は陸運局による検査が必要だとか そういった手続きの穴を理由に暴走族やルーレット族は放置されているのである
暴走族なんぞやらかすバカが なぜ自律的な責任判断をしないのかについてまで徹底的に言及しなければならないのであって これは国家権力による抑圧ではなく 学術研究機関による調査が優先しなければならない
航空機事故や原発事故であれば学術研究が優先されるが こうした方法論は犯罪においても応用可能なものであり 漫然と犯罪者の「刑事責任能力」を問うても 司法手続き上では懲罰の判決や民事による賠償金の金額しか算出しないのである
何が問題なのか見えていない「問題盲」の状態だからこそ 実効性のある論理客観的根拠に基づいた合理的施策がほとんど進まず 傍観放置状態が変わらないのである
問題自体が見えていないのであれば 問題に対する答えの有無に関わらず何もわからないのは当然の話である
それはもはや「痴呆状態」とも言えるものである
Ende;
マイケル:サンデルは認知行動療法的手法で 学生に「どうして そう思うのですか?」という問いかけによって 学生に考えを促しているのである
他人から促されないと考えないのであれば 考えを促されなければ自分からは何も考えようとはしなくなる
本来であれば サンデルなどの他人から促されなくとも日頃から自分の頭で物事を検証判断することが「意識」として重要なのであって 促されてから考えていたのでは本質的には自発性ではない
それは「やる気スイッチ」的に他人から煽られている意欲に過ぎず カルト宗教の教祖に「やる気スイッチ」を押されてしまえば地下鉄に毒ガスを撒き散らすバカにもなり得るのである
養老孟司の言っている内容の論理整合性の著しい欠落については 誰も「本当に間違っていないと言えますか」とは考えを促さない
促されていないことは 誰も考えもしないのである
更科功のような生物学権威による説明についても チャールズ:ダーウィンによる遺伝的進化のメカニズム説明をした直後に 「生きていること自体が目的」だの「生きているだけでも立派なものなのだ」などといった支離滅裂で主観に基づいた話であっても 衆愚マスコミの大半は 話の内容に論理整合性が抜け落ちていることには誰も気づかない
マルクス:ガブリエルが「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などといった荒唐無稽なデマを言っていても ヒトの大半は何の疑問も持たずに簡単に鵜呑みにし 「新時代の哲学」などと称した哲学界の称賛に疑問を持たない
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」についても 哲学権威が「近代哲学の最高峰」などと称賛していれば 大衆マスコミの誰も異論を挟まなかったのである
振り込め詐欺に騙された場合には 警察という権力や 家族から騙されたことを告げられることで 騙されたことをやむなく認めているだけであって 気分的に落ち込むだけで なぜ騙されたのかについての論理客観的原因については何の自覚もないため 何度でも騙されることを繰り返すのである
学術権威の肩書を持った者の言っている内容に間違いや嘘が混入していても 衆愚マスコミのほぼ全員は間違いや嘘には気づかない
多数が気づかなければ その多数によってもたらされる気分的安心感によって どこがどう間違っているのかなど 興味すら持たないのである
フランシス:ゴルトンの優生学に対する論理反証は 遺伝的進化に目的が存在せず 決して都合良く進化が選べるようなものではないことを理解していれば 中学生であっても説明可能なものである
実際には小学生でもできるようである
バカなタレントが「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などと言い出すのも 遺伝的進化というものを論理的には誰も理解していない証拠である
こうした予測に対し 生物学者共は「進化には何千万年もかかる」などという間違った説明をしているが 農作物や家畜の「品種改良」は数十年単位で可能なものであって 淘汰圧力さえかければヒトでも「品種改良」は可能なものである
いわずものがなヒトを「品種改良」するなどということは人権を無視した野蛮行為である
遺伝的進化という自然現象の恐ろしさを理解していないからこそ 「進化で何でも解決するんじゃないだろうか」という妄想観念が働き これが優生思想という凶悪な人権侵害の施策を推し進めた原因なのである
ある病理診断医を弁護してきたバカが 「そんなの皆知っている」などと言ってきたことがあるが 知識として「知って」はいても 論理客観的には「理解」していないからこそ 遺伝的進化における「典型的な間違い」が一向に訂正周知されないのである
NHKの番組制作者達も 同じ様に「知って」はいても 論理客観的に「理解」しているわけではないために 何が間違いで 何が正しいのかを自律的には誰も判断すらしないのである
こうした状態を無意識でバカだと言っているのである
生物学権威の説明を鵜呑みにしておけば主観的には安心満足で 間違っていても責任は全て権威が負ってくれるとでも「思って」いるのであろうが
そうした「感覚(錯覚)」こそが自律的な社会的責任判断選択能力を不具にしてしまう原因なのである
腹が減ったので昼飯だ
Ende;
白い服を着た人と 黒い服を着た人が バスケットボールをパス回ししている動画があり
「黒い服の人が何回パスをしたのかを数えてください」という課題を与えられて動画を見ていると
動画の途中で黒い熊の着ぐるみを着た人が乱入してきていても ほとんどの人はそれに気づかない
しかし パスの回数をカウントする課題を与えずに動画を見れば 大抵の人は黒い着ぐるみの乱入に気づくことができるのである
課題を与えられると それ以外のおかしな部分には気づかなくなる
マイケル:サンデルの「トロッコ問題」では 「1人殺すか5人殺すかのどちらかを選べ」という課題を与えることによって トロッコ問題の中には本当は倫理が含まれていないことには誰も気づかなくなる
トロッコ問題では どちらを選んだところで倫理的責任が問われない選択であって 「誰かが必ず死ぬ」という状況においては「死んだ人数」には倫理は含まれてなどいないのである
誰かが必ず死ぬような状況を 予め予測出来たとした場合 その危険性を予め排除するための対策をしたかどうかにまで遡れば倫理的責任の話にはなるが
他人の無責任によって誰かが死ななければならないような状況にまで陥ってから「死んだ人数」をいくら「悩んで」も 倫理の話にはならない
それは 主観的印象としての「悩み」に過ぎず 原理的に論理客観的に答えが出し様がない命題だからである
「悩み」という主観的印象に対して 「考え」というのは論理客観的に検証して答えを導き出すことであって これは全くの別物である
つまり ヒトというのは主観的な「悩み」と 論理客観的な「考え」との区別がしづらい性質があり サンデルはこの性質を利用してトロッコ問題を「倫理の話」だとすり替えたのである
こうした主観的な「悩み」と 論理客観的な「考え」との区別が困難であることを利用する手法は オウム真理教の洗脳の手法と同じものであり 「世の中は間違っている」という至極当たり前の命題に基づいて「だからオウムは正しい」という観念へと導いたのである
「世の中は間違っている」というのは当たり前の話である
ヒトが作った世の中である以上 永遠に何も間違えない社会なんぞありえないのであって 具体的にどこが間違っているのかを論理客観的に検証することによって 丹念に間違いを訂正しながらより良い社会を構築してゆくことが重要なのであって 毒ガスだの戦争だので「解決」しようとする短絡的発想に陥るのは その思考プロセスには論理客観性が伴わず 主観的感覚や印象ばかりが優先しているためである
プーチン政権のロシアでも この構造は働いており これは別にロシア人だけがバカなのではなく ナチス政権下のドイツ人でも 太平洋戦争時の日本人でも ポルポト政権下のカンボジア人でも同じ様に引き起こされた盲目性である
ヒトの意識の9割は無意識であり その9割というのは主観的感覚や印象であって 1割の本物の意識というものは主観的感覚や印象に左右されない自己客観性が必要となるのである
「9割が無意識であれば もはや論理検証なんて絶対にできないじゃないか」と言い出すバカは多いが 「難しい」とは言えるものの 「絶対にできない」ことの論拠にはならない
振り込め詐欺師に騙されている人が頑なに「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るのも 主観的感覚や印象ばかりが優先してしまい 冷静になって考えてみればおかしな部分は山ほど出てくるのに その冷静な論理客観的「考え」が その場における主観的感覚や印象によって阻害されることで ヒトは簡単に騙されていることに気づかなくなるのである
詐欺に騙された場合には 振り込んだ後になって警察や家族から騙されたことを指摘されるために 否応なく騙されたことを認めざるを得なくなるのだが
マイケル:サンデルの屁理屈に騙されている場合には 何せ大多数の学力偏差値の高いハーバード大学生が騙されているために 騙されていることを認めなくても「恥ずかしく」すらないのである
「恥ずかしい」かどうかは主観の問題であって 情動に過ぎない
高学力な「エリート」と認証されている多数が騙されているのであれば それは「騙されていても恥ずかしくはない」上に そもそもだまされていることすら認めなくても主観的には安心満足感が得られるために 信じ込んだままはぐらかしておいても誰も問題にはしないし したがらないのである
サンデルが「トロッコ問題」を使わなくなったのは 私が指摘したからであって 「トロッコ問題」には論理が含まれていなかったことについて サンデルは「なかったこと」にするという黙殺を平気でしている詐欺師である
ヒトは 多数から人気があって 学術権威の「肩書」さえあれば どんなに荒唐無稽な嘘やデマや間違いでも鵜呑みにし 何の問題意識も働かなくなるという頭の悪さを発揮するものなのである
養老孟司の著作を検証すれば 「脳化社会」云々に関わる話の全ては論理整合性がなく 論として全く成立していないにも関わらず 読者の大半は「何が間違いなのか 全くわからない」のである
松沢哲郎による「チンパンジーの行動習性から 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などという予測も 論理客観的に考えれば立証不可能な嘘に過ぎないことにも誰も気づかず 主観的安心満足によって文化功労賞まで獲得しているのである
「脳科学者」の大半が「自由意志などない」と称して 大脳辺縁系によって促される情動バイアスの脳電位には一切逆らうことが出来ないことの立証には全くならない
ヒトには理性というものがあり 「殴りたい」という情動による脳電位が生じたとしても 「殴っても根本的解決にはならない」という理性による抑制が働くことによって人間としての自由意志が働くのであって 必ずしも「脳電位の奴隷」ではないのである
最初に挙げた「パスの回数」を数えることを指示されたことによって 大きな違和感ですら見えなくなってしまう性質が自分も含めたヒトには普遍的に存在することを前提にしておけば より間違いには陥りづらくなることは可能なのである
原発事故を引き起こした東京電力や 日本大学の組織腐敗といったものも 組織を構成する個人が目先の利己的保身を優先して組織全体の問題点を傍観放置したことが原因であり
その言い逃れとして「組織の体質が悪い」などという屁理屈を言い出すバカが大半だが そもそも「組織の体質」を作り出しているのは組織を構成している個人によるものであって 大多数の「事なかれ主義者」の無為無策による傍観放置こそが組織腐敗を作り出す根本的原因なのである
こうした組織腐敗の構造を解明せずに ただ「ヒトラーが悪い」だとか「ポルポトが悪い」といった 目立つトップだけに責任の全てをなすりつけて「懲罰で解決」することもまた主観的満足や安心ばかりが優先しているのであって 根本的な組織腐敗のメカニズムの解明にはならず 結局プーチン政権の傍観放置にもつながったのである
ナチス政権で実際にユダヤ人殺害計画を立案したのは アドルフ:アイヒマンのような「従順な下僕」である
自分の頭で物事を判断せず ただ政権からの業績評価欲しさ故に機械のようにユダヤ人を殺害する計画書を作成立案し続けたことによって 600万とも言われる被害者を作り出したのである
大衆の多くは 「アイヒマンだけが特別に頭がおかしいキチガイに過ぎない」と分類したがるが 実際にはスタンレー:ミルグラムによる服従心理実験によって 被験者である「普通の人」の大半は権威と見なした相手の命令に従って他人に危害を加えることに抗うことができない先天的習性が存在しているのである
ヒトは 権威と見なした相手を疑うことに対する拒否反応 観念的罪悪感(自己嫌悪感)が働くことによって 権威の発言に対して盲目的に鵜呑みにしたがるバイアスが先天的に組み込まれているために自分で物事を考え判断することをしなくなるのであって こういった情動による思考バイアスが働くことによって ヒトは自分の頭で物事を考え検証することをしなくなる盲目性を発揮するのである
ミルグラムの服従心理実験において 権威の命令に逆らおうとした被験者が「怒り出す」のは 自分の中の「権威の指示には従いたい」という感情と 「他人に危害を加えるべきではない」という感情の葛藤が働くことが原因であり それでもなをヒトの多くは権威の命令に従って他人に危害を加えてしまうものなのである
それはつまり 「自分の考え」よりも「権威からの指示」の方を優先しているからである
司法裁判による刑罰の判決に対し 国民の大半は何の疑問も持たないものである
「悪いことをしたら罰が与えられる これは仕方ない(他の選択肢が一切存在しない)こと」だと諦める
「諦める」こともまた主観的な情動による思考停止であり 「仕方ない(他の選択肢の一切が存在しない)」ことの論拠が存在していなくても 気分的に思考停止をするのに都合が良いため ヒトは「絶望」して簡単に「諦め」るのである
通り魔を死刑にしたら 通り魔事件がなくなる論理的根拠は何もない
銃乱射事件でもテロでも同じことである
警察のポスターに「テロは絶対に許さない」などというスローガンが掲げてあったが 「許さなかった」らテロがなくなる合理的根拠など何もないのである
無差別殺人などに限らず 犯罪者がどうして合理性も何もない身勝手な正義を振り回して他人に多大な迷惑をかけたがるのか その論理客観的な原因究明を徹底して行わないから 再発防止にもならないのである
刑罰による抑止効果とは 所詮は主観的に「罰が怖いから」やらなくなるだけであって 自暴自棄な通り魔やテロリストや暴走族に対して罰は何の効力もないのである
むしろ「自殺ができないから 死刑にしてもらう」という身勝手な死刑制度の「利用」に用いられてしまうのであって 逆効果でもある
ワクチンの安全性が100%ではないからといって 小児科医院に闖入して妨害行為を行うなどという「力による一方的な現状変更」という一方的な正義の「押しつけ」が横行してしまうのは 「暴力で解決だ」というヒトの先天的錯覚によるものであり これはそもそも社会制度としての刑罰制度そのものの欠陥が放置されていることにも原因がある
罰による恐怖によって行動抑圧しないと 自律的には社会的責任判断選択をしないバカが一定数存在しているから 刑法罰の制度が必要となるのであって 国民の全てが自律的な社会的責任判断選択が出来ているのであれば 過失によって被害が出たとしても罰ではなく再発防止のための対策を徹底することの方が社会安全性にとっては実効性や合理性が伴うのである
刑法罰というのは 自律的な社会的責任判断をしないバカがいる限りは必要になるものの これは「必要悪」でもあることを前提にして 「なぜ犯罪者は自分から社会的責任を負わないのか」についての論理客観的知見を徹底的に究明することの方が重要なのである
私は刑法廃止論者ではあるものの 即座に刑法裁判の全てを廃止することを論じているわけではなく 最終的には誰も無責任な行動を採らない社会になれば 刑法は必要なくなることを論じているのである
ノルウェーの「リゾート刑務所」による再犯率の著しい低下から学べる知見は充分にあるはずである
ヒトがなぜ他人の迷惑や 社会全体の安全性に配慮しなくなるのかについての論理客観的知見があれば 無責任なバカは確実に減らせることに間違いはない
バカをいくら殴っても バカは治らないのである
バカがなぜバカなのか その根本的原因を究明し バカが1人でも減れば社会安全性が高まるというのは 必然である
そのためには 先ず 刑罰というものが無責任なバカを従わせるためだけの国家権力を用いた行動抑圧に過ぎないという暫定的な制度であることを国民の大半が自覚し 教育においても盲目的な「規範意識」に頼らず「自分の住む社会への責任」としての行動判断ができる主体性を育むことが必要であり
漫然と「規範意識」などと称して機械的に法手続きに服従するだけの従順さばかりを発揮させてしまえば 「飲食店内で客が踊っていたから 店長を逮捕」という法律手続きの主旨を逸脱した適用も可能となってしまうのである
そんな「未来世紀ブラジル」みたいな不条理社会など 誰も望んでなどいないのである
社会的責任を負わずに身勝手な行動をするバカを 刑法制度で間接的に「殴って」おけば ヒトの大半は主観的に安心満足できるものではあるが その主観的安心満足が優先してしまうことによって 論理客観的な「本当の目的」が見えなくなってしまうのである
「問題盲」とは 主観的感情が優先することによって論理客観的根拠のある「真実の解決策「本当の目的)」を多くのヒトが見えなくなってしまうことで生ずるのである
ヒトは 被害があまりに甚大だと 感情が優先して「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして満足しがちである
そもそも大きな被害の陰には無数の小さな迷惑が存在しているのであって 迷惑が小さい時点で罰ではなく徹底した原因究明と再発防止をしておけば 大きな事象への発展を大幅に防ぐことになるのである
脳科学者の界隈では 「自由意志など存在しない」と言われる程に ヒトには自発的論理客観的検証性(本質的な人間としての意識)が働きづらいのは事実ではある
だが 「働きづらい」からといって「存在しない」などと決めつけるのは科学を逸脱した身勝手な実証不能の観念である
ヒトの意識の9割 状況によってはそれ以上が無意識になってしまうことが充分にありえることを自覚しておくことによって 詐欺やデマや学術権威の間違いや嘘にも気づくことは可能である
更科功による「生きているだけでも立派なものなのだ」などという主観的感想を科学的論証と混同した論説も 自分の頭でちょっと考えれば「これははぐらかしやごまかしだな」と気づくことは大抵の人なら可能である
ましてや養老孟司による「客観的事実などない」などという話も 主観と客観の混同による支離滅裂なはぐらかしであることは明らかである
それでもなを養老孟司が学術権威扱いにされ続けているのは 振り込め詐欺に騙されてた状態とは異なり 多数の大衆マスコミによる観念的「人気」が維持されていることによる安心感が働いているからである
カール:ライムンド:ポパーによる「白いスワン」の喩えとは 「数」はそれだけでは論理客観的な根拠にはならないという意味であって 統計的証拠というものは統計のデータの中からでしか立証されない偏りが存在していることを忘れてはならない
何千年読み継がれた古典であるとしてもその年数も 読んだ人数も内容の確証の根拠にはならない
実証不能の神が何千年信じ込まれているとしても 実証不能であることに変わりはないのである
天動説であっても 地動説が知れ渡るまでの期間の長さがいくら永くても 天動説の方が正しいことの論拠にはならない
「いままでずっと そうだった」ことは それだけでは何の確証にもならないのである
「将来的には刑法を廃止すべき」という話をすると ヒトの大半は「いままでずっと そうだった」刑法制度への主観的安心感を喪失する恐怖によって 内容を理解する前に観念的拒絶反応しか示さないものである
スタンレー:ミルグラムの服従心理実験を読んだ人の中には 何の根拠も示さずに「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと勝手な決めつけをして満足しているバカは多いものである
ヒトという種の生物は 実証不能の神でも学術権威の肩書でも何でも構わないから盲目的に信頼し続けられる絶対的存在に頼りたがる先天的習性があるため この本能的習性を満足させるために論理客観的根拠をすっ飛ばしてでも権威に服従することを正当化しようとしたがるものなのである
ロシア兵や 香港警察や ミャンマー政府軍や イスラエル軍などによる野蛮行為というものは 「上官」という「権威」に対する盲目的服従が根本的原因であり あらゆる組織腐敗においても その組織を構成する個人の主体的判断としての「意識」の欠如が組織の腐敗体質を作り出すのであって こうした盲目性というものは日本大学のような学府においても生ずるものであって ヒトであれば如何なる組織においても起こりうる普遍的性質だと認識自覚しておく必要がある
NHKは未だにマイケル:サンデルを垂れ流し 養老孟司を学術権威として扱い 生物学における遺伝的進化に対する「典型的な間違い」に基づいた説明をも垂れ流し続けて 何とも「思って」いないのである
にも関わらず自分達を「信頼出来るメディア」だとでも「思って」いるのであろう
こうした自信過剰による傲慢こそが 自分の頭で物事を判断しない頭の悪さによる盲目性の原因なのであり 別にNHKに限ったことではなく あらゆるヒトにおいて生ずる普遍的な「先天的な認知上の欠陥」なのである
ヒトの意識の9割を占めると言われる無意識な情動バイアスを 客観的に検証する「自分の考え」というものを明確に持つことが人間性形成にとって最も重要であり
誰も自分の遺伝子を選べないし 選べない遺伝子によって作り出された大脳辺縁系から出てくる情動バイアスも 産まれ育った環境から受けた「常識」的知識も それだけでは主体的選択を介さぬ「自分の自由意志」とは言えないのである
自分の主観的安心満足感に惑わされずに 徹底して論理客観的根拠に基づいた「本当の目的」を見極めることこそが 本当の自分の「自由意志」だと言うことができるのである
急に言われても そんなに簡単には出来ないかも知れないが 簡単なことばかりに流されているからバカが治らないのであって 難しいことをやってこそ「頭が良くなる」のである
「バカが治れば 頭は良くなる」
それは極めて必然的帰結である
それは学力偏差値や権威肩書や多数人気とは無関係である
Ende;
ヒトがなぜ嘘やデマや間違いを鵜呑みにしてしまうのか
その原因はいくつかあるが 基本的に全て先天的な情動に起因するものである
原因の一つは 自己過信である
「自分だけは絶対に間違えない」という過剰な自信は それ自体が満足感を得られる快楽(脳内麻薬)であるため ヒトはすぐに自己客観性を喪失して錯覚などの間違った認識を信じ込み また 気分的満足感故に「考え直してみる」ことをしなくなるのである
洗脳の話でよく取り上げられる「認知的不協和」とは 要するに「気分が悪くなる」ことであって 主観が論理客観性を阻害する先天的なメカニズムを論じているのである
自己過信による満足感というものは 一度自分が信じ込んだ内容を否定された時には 既に信じ込んだ過去の自分の頭の悪さを自覚したくないというバイアスが働くことによって 条件反射的に拒絶反応を示し 益々頑なに「自分は間違っていない」と盲目的に信じ込むようにもなるのである
これはもう ヒトの脳に先天的に組み込まれたシーケンシャルな反射的情動であって ヒトである以上は避けることができないものでもある
だが 情動そのものは選択不可能ではあるものの 情動に無為に無意識に流されることなく自己客観的に「考え」 「本当の目的」に則って行動選択をすること「も」可能である
主観的に「信じたい」という「思い(情動)」の強度程度だけで無意識に行動が決定してしまうのではなく 「信じるに価するだけの論理客観的根拠や証拠が存在している話なのか」を「考え」る理性によって ヒトはデマや嘘や間違った情報にも無為に流されないようにすること「も」可能となるのである
ところがヒトというのは どうしても自分の主観的印象の方を優先してしまい どんなに論理客観的論証を並べても内容を「理解」することなく ただ漫然と「知って」いることを自慢するばかりで 何が本当の真実なのかを自分の頭で「考え」て判断することは極めて稀である
ヒトがカルト宗教はエコーチェンバーや詐欺に引っかかってしまうのは 嘘やデマを主観的に「信じたい」と「思い」の強さを 自分の意識の中核だと錯覚していることが原因である
「意識の9割は無意識」と言われるように ヒトの感覚的意識の大半は実は大脳辺縁系によって促される無意識なバイアス(偏り)に過ぎず だからこそ「お茶くみは女子社員の仕事」などという因習を漫然と続けてしまう原因ともなる
「運動中は水を飲むな」といった非合理な話も 数々の不条理で根拠のない学校の規則が温存され続けてしまうのも 既存の「常識」という刷り込み学習された話に対する客観的検証性が全く働かないというヒトの脳の性質によるものである
2つ目として挙げられるのが 権威に対する盲目性である
ヒトは哺乳類であるため 産まれてくれば初期的には親を盲目的に信頼し 服従忖度迎合するものである
この盲目性が血縁続柄を超えて集団の中の統率者に転移したのが「権威」というものであり 権威を盲目的に信じておくことができれば安心満足という快楽が促されるようなバイアス(本能的な行動の偏り)が組み込まれているのである
左側頭葉の一部に強力な時期刺激を与えると 「神を感じる」ことがあるというが これは哺乳類としての「親に対する盲目的信頼」がコラムとして組み込まれているからであると考えられる
つまり ヒトというのは自分で物事の真偽を判断するよりも 短絡的に親や権威の指示命令を唯々諾々と鵜呑みにしておいた方が気分的に楽で 安心満足感が得られる仕組みが存在しているため スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験のような結果も引き起こされるのである
○「サイバネティクスの観点から」
ミルグラムによる「服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)では 「サイバネティクスの観点から」と題して進化的有用性の論証をしているが この書籍が書かれた時代にはまだ遺伝的進化というものが目的に則って都合良く引き起こされるかのような錯覚に基づいていた時代であって こうした「解釈」は根本的に間違いである
進化的にはヒトは限られた環境資源の奪い合い競争を勝ち抜くのに都合の良い習性を持った変異個体への収斂進化が促された結果として 封建的な序列による集団統率的協調性を発揮するようになったのであって こうした先天的な本能習性が暴走することによってヒトはデマや嘘を鵜呑みにして一方的な暴力によって物事を解決しようとするのである
ワクチンの安全性が100%確実なわけではないものの 喘息などの基礎疾患がある場合にはワクチンを接種しておいた方が打たないよりはリスクが低いとは言えるため 打つか打たないかは個人の裁量に任せているのであって それをワクチン反対派で集団になって暴力的に小児科医院に闖入して妨害するなどというのは 典型的なバカのヒステリックで無意識な情動行動である
なぜ こうした非合理な行動に陥るのかといえば 自分達の主観的な感覚を 短絡的に「正しい」と錯覚している慢心の共有(共感)に起因するものである
学校でのイジメにおいてもメカニズムは同じであり イジメをすることで得られる目先の快楽を複数で共有(共感)することによって得られる仲間意識の安心感ばかりが追及されてしまい 最終的には暴力が殺人にまで発展するほどに自制心が全く働かなくなってしまうこともある
他人に危害を加えることが仲間内での評価基準になってしまえば 必然的に危害が過激化しかしないのは当たり前の話である
他人を貶めている間は 相手との比較によって「自分の方が優位」だという感覚が得られ この快楽の中毒症状に陥ることで他人(被害者)を貶め暴力を振るう競争が始まってしまい 仲間内でより危害を加えられることが「評価」基準となることにより より酷い危害を加える者がヒエラルキーの統率者としての評価も得られるために イジメは殺人にまで発展してしまうこともある
それが大人なら自制心が働くかといえば ワクチン反対派の小児科医院闖入事件のようなバカげたことが起きることからも 年齢さえ重ねれば自制心が働くわけではなく 日本大学の組織腐敗が温存されていたことからも 学力偏差値の高い学府においても洗脳的エコーチェンバーは簡単に生ずるものなのである
東京大学医学部の学生が地下鉄サリン事件を引き起こしたのも 学力偏差値は知能や「認知的ワクチン」としては機能しないのである
「博士ちゃん」達というのは 将来のさかなクンや加藤英明や千住真理子のようなものであり 主体的に純粋に自分が突き詰めたいと思っているものがあれば イジメなんぞしている暇なんぞなくなるのである
他人からの評価に左右されずに 純粋に自発的探究心や好奇心を持てるものがあることによって 試行錯誤もできるようになるのであって 「教えられたこと」をただ「知っている」だけの知識でしかないから応用性が著しく欠如してしまうのである
遺伝的進化が生ずる過程には 膨大な「失敗(絶滅)」が伴う可能性の方が圧倒的に高いということも 遺伝的進化のアルゴリズムやプロセスを自分の頭で考えればわかるにも関わらず 「○○のために進化を選んだ」などという話まで鵜呑みにして あたかも遺伝的進化の全てが都合良く「成功」するかのような解釈まで鵜呑みにしてしまうことになるのである
これは 現状の学校教育における「教えられたことを 教えられた通りに答えられる」能力しか測っていない学力偏差値評価基準の欠陥によるものであり 教えられた内容に間違いや嘘があっても 権威と見なした相手の言っている内容を盲目的に鵜呑みにすることしか出来ないバカの大量生産システムが蔓延しているからである
学力成績という抽象化された「脳への報酬」に対する条件反射的行動バイアスしか働いていないからこそ 自分の頭で物事を論理客観的に判断しなくなり 教えられたことを「知っている」だけであって 内容に論理整合性が欠如していても 誰も気づかないという頭の悪さを大多数の大衆は存分に発揮しているのである
遺伝的進化というものは 「拡がりやすい遺伝子」への収斂進化が促されるだけであって バカの方が有利な環境であるならば ヒトはバカにしか「進化」は促されることはないのである
物事を論理客観的に検証しなくなる原因とは 本質的自発性による試行錯誤を経験せず 権威と見なした相手の言っていることを鵜呑みにすることだけが評価基準になっているため 情動が短絡的に行動に直結してしまい 自己客観的な論理検証性が損なわれてしまうのである
「他人から褒められると 気分が良くなる」 これはシーケンシャルなヒトの情動であり 快楽を感じる情動バイアスである
しかし ヒトは権威に逆らうことに対しての根拠のない罪悪感のような忌避感を抱いてしまう習性があるため 権威と見なした相手の言うことを安易に鵜呑みにしておく安心感(主観)の方を優先してしまい 権威と見なした相手の言っている内容を自発的に論理客観的根拠が伴う真実かどうかを検証しなくなる思考バイアスとして働くことで 権威と見なした相手に対する批判の全てを「間違っている」と錯覚するようになるのである
相手が京都大学学長だろうが 日本医科大学の特任教授だろうが 東京大学名誉教授だろうが ヒトである以上は間違えることもあれば 卑劣な嘘つきに過ぎないこともある
京都大学の松沢哲郎は 総額11億円もの研究費不正流用をやらかすという 約束事すら守れないバカであるにも関わらず 「チンパンジーの行動習性から 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などという 実際には何の論理的根拠もないデマで大衆マスコミから人気を集め 文化功労賞まで獲っているのである
既に残虐行為を行ったロシア兵を チンパンジーの代わりに鋼鉄製のケージに押し込めて 彼らが一体どのような行動を採ったとしたら 既に行われてしまった残虐行為の反証(人間としての社会性の立証)になると言うのであろうか
いちいち説明しなければ誰も自分の頭では考えない上に 何度説明しても理解しないというのは もはや「バカ」としか言いようがないのである
面倒くせぇ(個人の主観的感想です)
ウクライナ軍への軍事支援をいくらしても 戦争そのものの再発防止にはならない
フィンランドやスェーデンのNATO加盟も同じことである
プーチン政権のような腐敗したバカ閣僚しかいない組織が出来上がってしまうメカニズム原因を解明しないことには 非合理な行動に陥るバカの再発防止にはならない
ウクライナ侵攻が起きる前にも 腐敗組織や洗脳によるエコーチェンバー現象は幾度も起きていたのであり 事象が小さな段階において徹底した原因究明によって 「ヒトがバカになる原因」がわかっていれば ウクライナ侵攻はもとより パレスチナやミャンマーでの野蛮行為にも応用できた可能性はある
「一つの大きな事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている」のであって 小さな事象の段階で合理性のある対策を採ってこなかった多数の無責任さこそが 重大事象への発展を防げなかったのである
Ende;
スタンレーミルグラムによる服従心理実験では 被験者は権威と見なした相手の言っていることを鵜呑みにして 疑うということをしなくなり 他人に危害を及ぼす行動を促されても唯々諾々と従ってしまう性質がヒトには普遍的に存在していることを立証している
実験室以外においても 「哲学者」という肩書さえあれば イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容を説明されて その内容に論理の飛躍や実証不能の謎の観念が混入していることについては 100年以上も誰も指摘せず 「近代哲学の最高峰」などと形容して唯々諾々と鵜呑みにしてきたのである
ヒトの大半は自分の頭で物事を論理客観的に「本当の話なのか」を識別しようとすらせず 権威に言われた内容を盲目的に信用して 何の疑いも持たずに鵜呑みにする先天的な認知上の欠陥が存在しているのである
この認知上の欠陥を 平たく言えば「バカ」と言う
ヒトは先天的にはバカなので チャールズ:ダーウィンによる遺伝的進化のメカニズムを説明されて「知って」いるとしても 知識として「知って」いるだけで論理的には誰も「理解」はしておらず 「○○のために進化した」といった合目的的な進化の説明であっても何の疑いも持たずに鵜呑みにするのである
今現在 学校において遺伝的進化をどのように説明しているのかは知らないが 「遺伝的進化には目的がない」と説明しておきながらも 一方では「○○のために進化した 進化を選んだ」といった論理整合性のない説明を続けているのである
遺伝的進化というものは 死なずに生き残った生物の結果に過ぎず 「目的のために進化した」のではなく 「拡がりやすい遺伝子だけが遺った」だけの話に過ぎない
ブチハイエナのメスの義陰茎による6割も死産しているとしても 結果的にそれを上回る繁殖をすることによって 個体数が維持できてさえいれば現存生物として成立するのであり 実際に成立している
個体がどんなに苦しもうとも 一定数が死のうとも 絶滅せずに個体数さえ安定的に維持できれば「環境に適応して繁殖を維持」できていることになり これが遺伝的進化というものの実相である
ヒトの男の浮気症も 出来る限り多くの女性と子供を作りたがる習性を持った男の遺伝子の方が「拡がりやすい」結果として進化的に組み込まれた習性であって それは誰の「目的」に基づいたものでもなく ただの自然現象の「結果」でしかない
生態系も含めて恒常安定性への収斂進化も 恒常安定性が得られなかった個体種や生態系の全てが死滅した結果であって 決して個体や生態系の全てが常に恒常安定性を獲得するような変異以外が生じないわけではない
遺伝的進化による現存生物や生態系だけを見れば 結果的には恒常安定性が獲得できた個体や生態系だけしか残っていないからといって 進化の過程で常に恒常安定性にとって都合の良い変異しか起きなかったわけではない
あくまで変異というのはランダムなものであって 遺伝的進化というものは膨大な失敗(絶滅)の果てに偶発的に生じる「結果」であって 決して進化の全てが向上安定性を獲得して存続可能になることが保証されているわけではないのである
オミクロン株はデルタ株よりかは重症化しづらいとは言え 一旦重症化した場合の死亡率はあまり下がっていないため 治療現場の医師によって「弱毒化はしていない」という見解もある
現状ではオミクロン株はBA.1~BA.5まで変異が確認されているが これからどのような変異が起きるのかは誰にも予測は出来ない
「拡がりやすい」という「感染力が強くなる」結果以外においては 遺伝的進化によって何が起こるのかは誰にも予測がつかないのである
何せ遺伝的進化というものは バクテリアがヒトにまで進化することもある奇妙奇天烈なものであって それこそヒトの体内で起きている生理現象の全てをコンピューター上でシミュレーションでもしなければ ウイルスの変異がどのような影響を及ぼすのかは予測がつかない
現状では世界最速のスーパーコンピューターを使ったとしても そもそもヒトの生理現象の全てが解明されているわけではないため シミュレーションのしようすらないのである
富嶽で計算できるのは 精々飛沫の飛散予測程度しか現状ではできないのである
ウイルスが弱毒化するプロセスとは 弱毒変異株以外に感染した宿主ごとウイルスも死滅し 弱毒変異株だけへの収斂進化によって引き起こされるものであって 大手町の医師が言うような「環境に適した変異がどんどん起こる」だとか「毒性が強すぎると弱毒化しない」などという話には科学的根拠が全くないのである
実際に弱毒収斂進化が起きたアナウサギにおけるミクソーマウイルスは当初95%もの致死率があり ヒトに対するエボラ出血熱ウイルスも当初の死亡率は70%を超えていたのであり 「毒性が強すぎると弱毒化しない」などというのは大手町の医師による根拠のないデマである
ミクソーマもエボラも 当初よりは弱毒化が起きているものの その致死率や死亡率は50%前後にしか低下しておらず 宿主を完全に絶滅させない限りは「繁殖の継続」にはなるため 別にそれ以上の弱毒収斂進化をする「必要性」すらないのである
それは ブチハイエナの死産が60%もあっても種として存続可能なのと同じで 後天的にどんなに苦痛であろうと困難であろうとも 種として絶滅さえしていなければ「生物」として存続し続けられるのである
ましてや「月経の痛みが進化でなくならないのかしら」などという予測は 遺伝的進化のメカニズムやプロセスを全く理解していないバカげた妄想観念に過ぎない
こうした衆愚の妄想観念に対し 生物学者は「進化には何千万年もかかる」などという「説明」しかしていないが 実際には収斂を促すような淘汰圧力が働かなければ進化は全く起きることはなく 逆に断種や殺害をすれば数世代で「品種改良」することも可能ではある
要するに遺伝的進化というものは 自然に生ずる「品種改良」に過ぎず 環境に適さない個体種の全てを死滅に追いやる淘汰圧力の結果しかもたらすことはないのである
ヒトが権威の命令に服従する習性が働くことによって 限られた環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いた個体種への収斂進化が働き 「遺伝子が拡がった」結果として ヒトは懲罰的暴力という正義を振り回す習性を持った変異種への収斂進化が促されているのである
客観的統計からは 懲罰とは全く真逆の措置を採ることの方が犯罪者の更生や再犯率低下にとっては有効性が立証されているにも関わらず 衆愚の多数決によって刑法懲罰ばかりが優先され続け 結果的にヒトの先天的暴力性や危険性や無責任性といったものの原因分析が全く進まないことにより 結果的にロシアによるウクライナ侵攻やミャンマー政府軍による民衆弾圧といった「暴力で解決」する蛮行が全く収まらないのである
Ende;
「美しい」という主観的感覚に対して ヒトは短絡的に「正しい」という錯覚が促される性質がある
振り込め詐欺師の話し方が「丁寧」だったことから信用したという主観的印象は 「丁寧」な話し方に対する美的感覚から促されるものである
盲目的洗脳の要因においても 「信じたい話」に対する主観的美的印象が「正しい」という錯覚を促すのである
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験においても 被験者が権威の命令に服従する原因である権威への盲目性とは 権威を盲目的に信頼することへの美的感覚が促すものである
「美」とは すなはち「脳の快楽」であり 大脳辺縁系によって作り出されるバイアスであり ヒトの祖先の生息環境による淘汰圧力による収斂進化の結果的なものに過ぎない
ヒトという種の生物の脳は 所詮は野生動物と情動自体は同じものであり 必ずしも「人間」として論理客観的根拠に基づいて真実かどうかを「考え」検証しようとするとは限らないものなのである
ヒトの大脳辺縁系というものは 他の動物と比較しても特に大きな違いはなく ヒト特有の脳の特徴とは大脳新皮質の「容積(量)」だけであって 大脳辺縁系によって促される情動自体には他の動物との有意な違いは見られない
過酷な自然環境の収斂進化によって作り出されたヒトとチンパンジーの大脳辺縁系に有意な差など存在しないのであって 情動そのものは野獣のチンパンジーのそれと基本的には同じものなのである
*:「チンパンジーとヒトとの遺伝子の違いは1%もない」という説があったが 最近では随分話が違っているそうで 同じ基準を適用するとヒトとバナナは50%しか違わないことになるという
最近になってチンパンジーの生息環境資源の枯渇が原因と見られる チンパンジーによるゴリラ襲撃殺害が観測されている
一時期「猿は同族を殺さない」という大衆観念が信じられてた時期があったが 環境資源が枯渇して空腹になれば 普段は普通に接していたヒヒを襲うことも観測されたことがある
チンパンジーは子供の頃には従順で暴力性はほとんどないが 一定の年齢に達すると危険性が高まることから 人と直接接触するようなことはせずに完全にケージに隔離しなければならない
ヒトもまた 祖先は環境資源が枯渇した際にはヒト同士での奪い合い競争に勝ち抜いてきたのであって 文明を築いて環境資源を大量消費できるようなってからは数千から数百年程度しか経っていないのであり これはヒトの進化過程においてごく最近の出来事であって ヒトの進化過程の大部分は過酷な野生環境下でのサヴァイバルによって培われたものである
実際に文明から隔絶された環境の少数民族では 部族間による紛争によって年間1%もの死者が出ると言われており 地域によっても偏りはあるものの むしろ他の動物よりも同種族同士での殺し合いの傾向はヒトの方が強い傾向にあると言える
チンパンジーとは進化の過程の生息環境が異なるとは言え むしろ過酷な淘汰圧力が働く環境だったからこそ大きな違いとしての「進化」が促されたのであって 環境資源が潤沢だった環境だからこそ チンパンジーやゴリラは進化が滞ったとも言えるのであり また決してヒトの方が暴力性が低いとは限らず
実際にヒトも生活資源が枯渇した途端に簡単に暴動に発展することも珍しいことではなく ヒトが平穏でいられるのはむしろ文明社会によって潤沢な生活資源が得られているという環境要因の結果に過ぎないとも言えるのであり 個人が自律的な社会的責任能力を持っている先天的人間性が存在しているから暴力的にはならないわけではない
エサが潤沢に与えられていれば 猛獣であっても暴力的にはなりにくいだけの話に過ぎない
ヒトは 犯罪者に対して刑罰を与えることで「解決」したという主観的感覚を持つ先天的習性があるが これには客観的な合理性はなく 主観的気分としての満足感によって促される快楽(美)による錯覚に過ぎない
実際に事故などが起きた際にも 「過失」と称して懲罰処分を加えることで「解決」したかのような感覚に陥っているヒトが大半だが ヒトである以上は間違える可能性なら誰にでも存在しているのであって 被害の程度に関わらず 無責任性の程度の方を問題視すべきであって たとえ何の被害が出なかったとしても 自律的な社会的責任判断能力の程度を問題とし 罰ではなく 「なぜ自律的な社会的責任判断をしなかったのか」についての徹底した検証が必要であり 再発防止にとっては最も有効な知見であることに間違いはないのである
ところがヒトという種の生物は 先天的な本能習性として懲罰などの暴力的威圧を加えておかないと満足感が得られず また主観的満足さえしてしまえば再発防止のための論理客観的な原因究明になど興味を全く持たなくなる認知上の重大な欠陥によって 合理性のある行動を全くしなくなってしまうのである
懲罰に対する快楽を「正しい」ものとして主観的に感じてしまうことによって 社会安全性という「本当の目的」を簡単に忘れてしまうのである
懲罰による社会安全性を後回しにしてしまう性質に限らず 他にも様々な「錯覚」によって論理客観的合理性のな行動や社会制度にも全く疑問を持たずに鵜呑みにし安心してしまうのである
既存の根拠のない「常識」に囚われることを 「潜在知」などと称して正当化しようとするバカも多いが 主観的に無意識なバイアスである以上は「知能」とは言えず 意識(論理客観)的根拠に基づいた真理かどうかを見分けらえるかどうかが本当の知能だと言えるのである
プラトンは美的感覚を短絡的に真理だと決めつけたが 言うまでもなくこれはプラトンの主観的「決めつけ」に過ぎず 論理客観的根拠が伴わない
そもそも「イデア界」って何だよ
イマヌエル:カントの「叡智界」同様に意味わかんねぇよ
誰か根拠を示したことあんのかよ
糞しょうもな
Ende;
学校イジメにおいて8割の生徒が傍観放置するのは
事なかれ主義に基づいた利己的な判断選択によるものであり
結果的には「沈黙の賛同者」になっているため
イジメが一向になくならないのである
ヒトは 怖いと感じる相手には逆らわず 逆らわなかった自分を事後正当化して満足するためのこじつけ(エピソード記憶)をでっち上げて言い逃れが出来ていると勝手に勘違いするのである
情動という大脳辺縁系が勝手に促してくる脳電位に対し その行動バイアスに無意識に流されていても気分的には安心で満足でいることが可能となる
自分の頭で自発的に考え 論理客観的に鑑みて本来社会的責任としての行動を主体的に選択しなくても ヒトは何とも「思わ」ないのである
意識の内の9割を占める情動バイアスによって 1割にも満たない主体的選択可能性が不具にされていても ヒトは「自分には自由意志に基づいて選択をしている」と勘違いすることが可能なのである
原発の危険性が長年放置されたのも 日本大学の組織腐敗が長年放置されたのも プーチン独裁政権の組織腐敗が長年放置され続けたのも ヒトの大半が自分の意思で主体的に物事を判断して行動しなかった「ツケ」が回ってきているからである
ウクライナに軍事支援をいくらしても 戦争そのものがどうして起きるのかについての原因究明にも 再発防止にもならない
軍事支援や経済的制裁というのは「懲罰」に過ぎず 戦争の再発防止にはならない
ソ連がナチスを撃退した功績がある一方で 自国民をも大量に虐殺し ソ連自体も他国への侵攻を幾度もやらかしているのであって ナチス撃退だけを根拠にロシアの正義を振り回しておいて良い理由になどならない
全裸で包丁を振り回している薬物中毒の男に対し 拳銃で応戦しても どうして薬物中毒になどなったのかについての原因究明にも再発防止にもならないのである
ウクライナ軍事支援というのは 被害者側に拳銃を供与しているだけであって プーチンがバカになったプロセス過程や構造の究明によって再発防止につながるわけではない
別にプーチンだけが特別にイカれているわけではなく 通り魔やテロリストや薬物中毒患者や日本大学の組織腐敗のようなものは世界中に掃いて棄てる程存在しており それらに対して刑法懲罰だけで「解決」だと勝手に勘違い錯覚していた大衆マスコミによる無為な傍観性こそが バカが発生する根源的原因究明に重大な害を為していたのである
ヒトは「罰で解決」だと主観的に「思って」おけば 気分的には安心満足感が得られるために その安心感という情動(無意識)によって本来論理客観的に社会安全性にとって最も重要な施策を採ってこなかった原因であり 民主主義制度下においては有権者全員にその無責任の罪は存在しているのである
また ヒトは多数でありさえすれば「正常」だと勝手に勘違いし 多数が「罰で解決」だと信じて疑わなければ むしろそれを疑わないことの方が主観的には安心満足であるため 社会安全性にとってより合理的で実効性のある施策の提案については誰も言及も賛同もしてこなかった上に その「罪」については「多数によって薄まっている」と勝手に勘違いしているのである
いうなれば パレスチナやウクライナの戦争被害というのは 彼ら自身も含めて具体的実効性のあるヒトの残虐性や危険性についての検証を誰も自覚認識しようとしなかった精神的怠慢が招いたものでもある
NHKが典型だが 被害者の情報を漏洩しておけば「再発防止だ」などと主張しているが 国会原発事故調査委員会報告書にも 航空機事故の解析情報にも 被害者の個人情報などどこにも掲載されてなどいないのである
以前に人質立てこもり事件が発生した際に 報道記者が警察から要請されて報道機関の腕章を貸したことが報道されたことがあったが これが報道された際に腕章を貸し出した報道機関が「被害者の人命を優先したとは言え 倫理的に問題があった」などと謝罪していたことがある
「人命を優先しない倫理」などというものが 一体どこに存在するというのか 意味が全くわからない
警察の要請に応じて報道管制を敷くこともあり 現場の状況に応じて人命を優先するというのは何ら倫理的瑕疵などどこにもないにも関わらず 衆愚多数から批判されたことに対して その観念的恐怖や罪悪感から根拠のない謝罪を「してしまった」のである
どんなに多数からバッシングされようとも 論理客観的に鑑みて 倫理的に間違っていないのであれば謝罪などするべきではないし どんなに少数であっても たとえ一人しか主張していないとしても 論理客観的に根拠のある批判は無視してはいけないのである
ヒトはどうしても「数の論理」に意識を奪われ その内容に論理客観的根拠や証拠が存在しているかどうかを自分自身の頭で考え判断して行動選択をしないからこそ 間違った行動を採ることに陥るのである
ヒトが「数の論理」に流されてしまうのも それが主観的(無意識)に安心で満足感を与えてしまうという動物的な行動バイアスが原因である
懲罰を優先する方が衆愚からの多数人気は得られるものである それはヒトの祖先の生息環境においては「繁殖の継続」において有利に働いた結果として 短絡的に暴力的威圧による懲罰を優先したがる先天的習性を持った個体種の遺伝子が拡がったという結果である
刑罰に関わらず ヒトがヒトに暴力を振るう根源的原因は 暴力というものが最も短絡的に眼の前の個人的問題を解決するには有利に働くからである
そして ヒトの大半は権威と見なした相手の命令に何の疑問も持たずに唯々諾々と服従することの方が安心な統率的協調性としての「社会性」を発揮することによって 為政者の暴力性を多数で統率協調的に加速増大させて戦争などという苛烈な殺し合いにまで発展させてしまうことに陥るのである
プーチン一人を「悪者」にしておけば 戦争がなくなるわけではない
それはヒトラーが自決しても戦争や独裁政権が一向になくならないことからも明らかである
ポルポトにせよ 東条英機にせよ 原爆投下を指示したトルーマンにせよ 「暴力で解決」しようとするヒトの危険性というものは 全てのヒトが自覚認識しなければならない先天的な認知上の欠陥であり 「自分だけは大丈夫」という正常性バイアスもまた情動という「9割の無意識」に過ぎないのである
NHKも含めて ヒトが運営している限りは「絶対盲目的に信頼できるメディア」など存在しないのである
それは本論も含めてである
だが 論理客観的根拠に基づいて情報の信頼性を評価すべきであって 主観的観念や「信じたい」かどうかだけで盲信したり切り捨てたりするのは典型的な「バカがやらかす判断」というものである
NHKは散々生物学界の遺伝的進化に対する「典型的な間違った」説明を垂れ流しておいて それを一切訂正周知することもせずに論理的に支離滅裂な生物学権威の主張を鵜呑みにして垂れ流しているだけの無責任な組織である
哲学界においてもフリードリヒ:ニーチェだのプラトンだのイマヌエル:カントだのといった論理客観的根拠がなかったり 根拠や基準が曖昧な話を「哲学」として扱っているからといって NHKなどのマスコミ各社は何の疑問も持たずに盲信し 垂れ流し続けるという不誠実なことを続けているのである
意識の9割を占める無意識な情動バイアスが作り出す主観的感覚や印象を 自分の意識の本質だと錯覚しているからこそ デマや嘘や間違いと真実の区別ができなくなってしまうのである
学力成績やIQの基準もそうだが 世の中の評価基準というもののほとんどは 基準そのものを規定した基準や根拠自体があやふやなものが大半である
養老孟司のような言っている内容が支離滅裂な男が どうして未だに「東京大学名誉教授」という肩書を持っていられるのかは知らないが 一旦決まったものをお役所的に維持し続けているだけなのかもしれないだけに 肩書などというものは信頼に価するものではない
「信頼できるメディア」としてマスコミ各社の多数決が基準にされているが マスコミ各社が全部間違うことがない保証もないのである
遺伝的進化というものに目的が存在していないことは論理客観的に証明されているものであって 「偶然だけでバクテリアからヒトへ進化するとは考えられない」といくら主張しても 偶然以外の要因やメカニズムの存在を論証できない以上は「考えられない」のではなく 単なる「思えない」という主観的感想を述べているに過ぎない
科学的に偶然以外の要因を立証できない以上は 「議論の余地」などどこにもないのであり 生物学者共は自分達の実証不能の観念を事後正当化するために「嘘」ではぐらかしているのである
こうした生物学界の不誠実な対応を マスコミ各社は何の疑問も持たずに盲信し続けており バカがバカを盲信しているという集団洗脳状態によって 間違った遺伝的進化の「説明」がいつまでも温存され続けているのである
本当に戦争のない平和な社会を求めるというのであれば 何が真実なのかを各々の個人が見極め判断しなければならない
どんなに強く主観的に「思って」も 論理客観的根拠が伴わないのであれば それは間違いか嘘である
真実かどうかの判断に必要なのは 論理客観的根拠や証拠の積み重ねであって 読者の主観的気分などという「無意識」なバイアスに流されていたのでは真実など闇に葬られるだけである
その結果 誰も望まない結末になったとしても それは私がどうこう出来るようなものではない
「全てを疑え」とは 東大総長の言葉である
「疑う」とは言っても 主観的猜疑心ではなく 論理客観的根拠や証拠が伴った真実なのかどうかを判定する能力が重要だと言っているのである
意識の9割を占める「気分」情動で判断しているから 本質的な意識が全く働かなくなってしまうのである
ヒトとは 所詮 その程度の「知能」しか先天的には持ち合わせていないものなのである
Ende;
↗芦田川に架かる沈下橋(Google Map)
広島県のお話です
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ミリタリー好きの娘を誘わなかったのが間違いだと思う
かざりちゃんとかなら大喜びするだろうよ
装甲車のレンタカーって ちょっとバズりそうだけどな
トヨタでやりゃ良いのに
軽装甲機動車ってトヨタじゃないのか?
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「こいのぼり」の絵柄をアユにしたら「あゆのぼり」というそうな
ウナギの絵柄にすれば「うなぎのぼり」で
ヨシノボリを絵柄にしたら「よしのぼりのぼり」だな
#くだらない #ヲヤヂギャグ
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チーズって 熱いうちに手早く伸ばした方がよく伸びるんじゃないかな
ゆっくり伸ばすと冷えて固まって切れやすくなるような気がするよ
#なんだ急に #おつかれ飯尾和樹
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「読書発電所」っていうのが岐阜にあるとか
ないとか
#あるよ
↗原付バイクで東京から京都まで1日で行けるのか? -デイリーポータルZ
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歩行中の交通事故死傷者数は7歳が一番多い -トヨタ自動車
特に5月が多いという
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抗体精製製品 -プロテノヴァ株式会社
グーグルが抗体を紹介してきた
なぜ?
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サブカル系塗料って何だと思ったら 軟質材に塗れる塗料なんだそうな
ウレヒーロー -斎藤塗料株式会社
しかもギラギラメタリックもある
ゴムタイヤにも塗れるのかしら?
#塗ってどうする
Ende;
大規模停電 横浜市など5万6000軒
青葉区中心だそうだ
田園都市線は駅構内が停電していないが電車は停まってしまっていて
原因は0時現在不明で運転再開の目途は立たないとのこと
Ende;
「意識の9割は無意識」というが
「9割」という数字には科学的根拠が伴うわけではなく
「概ね9割くらい」という意味である
意識の中で無意識が占める割合というものは 個人差もあるし 同じヒトでも状況や感情状態によって大きく変化するものでもある
振り込め詐欺師の嘘に騙され パニック状態に陥っている状況では 主観的情動が優先してしまって自己客観性が著しく阻害されてしまい どんなに説得しても 「いや、絶対に騙されてなどいない」と頑なに主張し続けたりすることもある
これは詐欺に騙される人だけの特有の性質ではなく ヒトという種の生物全般に普遍的に見られるありきたりな性質である
多少の程度の差こそあれ ヒトであれば誰もが騙される可能性があるものであって 「絶対に間違えないヒト」がいないのと同様に「絶対に騙されないヒト」もいないのである
大衆観念的には 遺伝的進化というものは万能なものだと妄想錯覚しているフシがあり
人気タレントが「月経の痛みが進化でなくなるのではないか」と勘違いし
医師でありながら「環境に適応してウイルスの全てが弱毒共生変異しか引き起こさない」などと主張したり
生物学研究者においても「環境が激変した時だけ促される突然変異」などという何の科学的立証も根拠もない遺伝的進化のメカニズムを説明しだすこともある
「進化的に正しい行動」などという話も そもそも進化に目的も最終到達点もないのに どうして「進化的に正しい行動」などというものが規定可能なのであろうか
遺伝的進化というものが 単なる自然現象の結果に過ぎないことを発見したチャールズ:ダーウィンまでもが 「○○のために進化した」といった説明をしていたのである
昆虫などの擬態の説明では 旧来では「天敵から見つかり難いように自らの姿を枯れ葉などに似せて擬態進化を選んだ」といった間違った説明をしていたが 近年では「変異による形質のバリエーションの中で天敵から見つかりやすい個体から食べられるという淘汰圧力によって より枯れ葉などに似ている変異個体への収斂の結果である」と訂正されているのである
決して遺伝的進化というものは 個体の都合に合わせて選ぶことなどできないものであって 月経の痛みがどんなに強くても 人為的「品種改良」でもしない限りは月経の痛みがなくなるようには進化は促されることはないのである
にも関わらず 大衆の大半やマスコミや生物学界の大半までもが遺伝的進化に対する旧来の「典型的な間違い」を理解しておらず また 理解しながらも支離滅裂な言い逃れの屁理屈をでっち上げてはぐらかそうとする生物学者も非常に多い
遺伝的進化には目的がないというダーウィンの進化論の説明をした直後に 「生物生きること自体が目的」だの「生きているだけでも立派なものなのだ」などと支離滅裂で主観の混入した勝手な観念で決めつけをしている更科功の話に対して 大衆もマスコミも 生物学界も 生物学界以外の誰も「おかしい」とは気づかないばかりか 私が理論的に「おかしい」と説明してもなを誰も取り上げることがないのである
その原因やメカニズムは実はわかっている
ヒトの大半は主観的印象が優先し 論理客観的判断を自分からしない先天的な認知上の欠陥(頭の悪さ)が原因である
大半がバカならば バカの側についていた方が気分的に安心(主観)なため 誰も自分がバカであることにすら気づかなくなるのである
ヒトの意識の9割を占める無意識とは 要するに主観的感情によって促される思考のバイアス(偏り)のことであり 動物的な行動習性としての本能的情動によって 論理客観性のある主体的「考え」がほとんど働かなくなるために 「意識の9割は無意識」と言うのである
ヒトも所詮は動物であるために 本能習性などの思考バイアスもまた祖先の生息環境の影響を色濃く受けており 恐怖や安心といった感情が優先して短絡的判断を優先する種への収斂進化が引き起こされているものなのである
だからパニックになると非合理な行動を引き起こしたりすることがあるのだ
自然界においては恐怖を感じたら咄嗟に逃げ出すとか 暴れるとか 大騒ぎするといった行動が天敵から逃れるためには有効であったために 合理性の有無に関わらず 「死なずに済んだ行動習性」への収斂進化の結果として ヒトは情動のままに短絡的に行動するよう「進化」したのである
恐怖を感じた場合に 暴れたり大騒ぎすることが必ずしも生存に適している行動であるとは限らないが 暴れたり大騒ぎしないよりかは生存率が高い場合には 結果的に生存率の高い行動習性を持った個体の遺伝子の方が拡がりやすいのである
遺伝的進化によって促される「合理性」というものは 所詮その程度の合理性に過ぎず 進化によって組み込まれた情動行動の全てに完全無欠の合理性が伴うわけではない
たとえば相手がスズメバチだとすると ビックリして手で払ったりすることの方が危険であり 本能習性が促す行動の全てが常に合理的な結果を促すわけではない
これは知識として知っていてもビックリすると反射的に払ってしまいがちであり 余程昆虫に慣れていないと「ジッとして動かない」ようにすることは難しいものである
体液に毒性があるハネカクシも 手で払って潰してしまうことの方が悪い結果を引き起こすが 相手が蚊であれば即座に叩き潰すことの方が悪い結果にはなりにくい
ハネカクシを潰して酷い皮膚炎になっても繁殖にまで影響を及ぼして遺伝子が拡がらないようにまでは進化に影響を与えることはないが それは同時に「ハネカクシを潰して酷い皮膚炎にならないように行動習性が進化する」ような影響もないのである
何の話だっけ
ああ 無意識な情動行動の話だった
ヒトの祖先はかつては限られた土地などの環境資源の奪い合い競争を勝ち抜くために 殺し合いをしたら勝てそうな数の多い側に同調することで安心満足するよう進化しているのである
相手集団を制圧可能な加害者側に回った方が生存には適し 繁殖の継続には有利に働くことの方が多いため ヒトは勝てそうにない少数派の側には同調したがらない卑怯な行動を 安心して選びたがるものなのである
ヒトの多くは多数派や 多数派によって認証された権威肩書の言っていることの方を信じたがり 内容に論理整合性がある真実かどうかなどには本当は何の興味も持たない
カルト宗教やネトウヨの言っている内容が荒唐無稽なデマであることは多くの人は認識できるものの
養老孟司だのマルクス:ガブリエルだの読書猿など 多数派に人気のある相手でさえあれば その内容は多数によって内容が保証されているかのように勝手に勘違いし 冷静に考えれば荒唐無稽なデマであっても簡単に鵜呑みにしてしまうものなのである
なぜヒトは自分の頭で内容を検証して考えようとしないのか
それは 権威の言っている内容に疑問を持つことに対する根拠のない罪悪感を主観的に「感じ」てしまう本能的習性が働いてしまうからである
これは サバイバーズギルドの罪悪感と同じ様に合理的根拠は何もないにも関わらず 主観的(無意識)に情動に直接働きかけてしまう思考バイアス(偏り)なのである
ヒトはそもそも哺乳類であり 産まれてくると初期的には「子」であるために 自分よりも「上」とみなした「親」などの大人に盲目的に服従する習性が進化的に組み込まれているためである
これが血縁続き柄を超えて 集団内部の統率的協調性においても発揮されることで 封建的序列による統率協調性として働くようにもなっているために あたかも親に疑いを持ちたがらない本能的習性として ヒトは権威を疑わなくなる先天的習性が存在するのである
こうした習性を応用して 盲目性を発揮させて殺し合い戦争に応用しているのが軍隊というものである
洗脳というものはオウム真理教などのカルト宗教だけの専売特許ではなく 日本大学や東京電力 他にも不祥事を引き起こした名だたる大企業の数々においても組織腐敗を引き起こした原因でもあり 独裁政権が成立してしまうのも独裁政権を支える組織内部の個人の盲目的服従性が働いているからである
「自分だけは絶対に大丈夫」 そう主観的に思っておけば 気分的には安心満足で 目先の多数と同調して盲目性を発揮しておいた方がヒトは精神的充足を得られるため 神だろうが独裁者だろうがカルト宗教の教祖だろうが一度信じた相手を疑うことを忌み嫌い 自分が属している組織集団に都合の悪い話の全てに一切耳を貸さなくなるのである
荒唐無稽なデマに惑わされてエコーチェンバーに陥っている人も 振り込め詐欺に騙されて頑なに振込もうとし続ける人も 彼らだけが特別にバカなのではなく 養老孟司やマルクス:ガブリエルや読書猿を信じ込んだ大多数の大衆やマスコミもまた 同じ頭の悪さによって盲目性を発揮しているのである
ヒトは宗教で学術権威の肩書でも何でも構わないので自分よりも「上」と見なした何かを盲目的に信じておかないと安心できない習性があり 何を信じようとするかは「主観的に信じたいかどうか」が優先してしまうものである
そのため どんなに論理客観的根拠に基づいて生物学界や哲学界における嘘やデマや誤謬を指摘しても 大衆マスコミの大部分も含めて誰も理解しようとすらしないのである
主観的に「信じたくない話」に対しては ヒトは観念的拒絶反応によって信じようとしなくなることによって 内容の論理的理解などは大半のヒト達にとっては興味すら働かないのである
フリードリヒ:ニーチェが典型だが 読み手が都合良く解釈可能な根拠や基準が曖昧な決めつけによる「迷言」の方が大衆には人気が集まりやすいものであり 養老孟司もマルクス:ガブリエルも読書猿も手法は一緒である 人気はあるが 内容には論理的根拠は何もなく 何の応用性もなく ただ読み手が勝手な解釈をこじつけて自分の観念を正当化するのに応用できるために人気があるだけの話である
リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」についても 遺伝子に意思も目的も何もあるわけもなく 遺伝的進化の結果に対する都合の良いこじつけの羅列によって 遺伝的進化をあたかも万能の願望器であるかのように錯覚させて面白がらせているだけのおとぎ話に過ぎない
たとえ40年以上もの「ベストセラー」であるとしても その内容は何の応用性もなく 実質的には何も論証しておらず 糞の役にも立たないファンタジーに過ぎない
販売部数は内容の科学的確証には全くならないのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」同様に 読み手の気分が良くなる話によって衆愚人気を集めているだけの話であって 論理客観的根拠に基づいた真理(本当の話)の論証には全くなっていないのである
逆に スタンレー:ミルグラムによる「服従の心理」については 多くの人は「特殊な事例」として片付け分類レッテル貼りをして無視し 読者の中には根拠もなく「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと勝手な決めつけをし それに何の疑いも持たないバカの方が圧倒的に多いものなのである
ヒトは権威に服従することが主観的に安心であるため その安心と安全性との区別をつけるために論理客観的事実の論証が必要となるのであって 無意識な主観的安心だけで物事を判断するからこそバカげたデマに惑わされてしまうのである
Ende;
島皮質が司る内受容感覚の感受性が社会性に関わり「共感しやすさ」と相関があるという
体の状態が同期するのが「社会性」だというのだが 「社会性」というものは本能に過ぎないので ロシア人がロシア人同士で共感してウクライナ侵攻に賛同することもあれば 兵隊が上官の命令に従う以外には何の興味も持たない盲目性の原因にもなる
日本大学の組織腐敗が長年放置され続けたのも 振り込め詐欺集団の統率的協調性も 先天的本能としての「社会性」によるものであって ただ「共感」さえしておけば人間性の論証になるわけではない
仲間内の中だけで共感することの安心感や満足感といった快楽によってこそ 仲間以外に対する排除や差別のバイアスが作り出されてしまうのであって 「大人 対 子供」のような区別で子供をバカにするのも同じようなバイアスが働くからである
本能的な「社会性」が作り出すのは あくまで封建的順位序列による統率的な協調性だけであって これはイジメにおいても組織腐敗や原発の危険性放置などにおいても働くものであって 本質的な平等性や安全性に基づいた「人間としての社会性」とは全く別のものである
「共感性」というものは大衆人気によって金儲けには有利に働くものの それが人間性の論拠になるわけではない
未だに養老孟司はマスコミや衆愚から人気があるが 言っている内容は支離滅裂で無責任なものばかりであり 信用するの価しないデマや嘘ばかりであることには大多数の人は誰も気づいていない
マスコミは著作の販売部数を根拠に「人気」だの「世間的成功」だのといったものだけを基準にし あたかも多数によって内容の正しさの保証にでもなっていると勘違いしているようだが これこそが無意識な錯覚というものである
養老が散々主張していた「脳化社会」云々の屁理屈の全ては 論理客観的な根拠がまるで示されておらず 整合性もスッタクレもない「実証不能の観念」以外の何ものでもなく 当然何の応用性もないにも関わらず 読み手が都合良く気分が良くなるような勝手な解釈をこじつけられることから衆愚人気があるだけの話に過ぎない
大衆マスコミの大半は 「東京大学名誉教授」という肩書さえあれば 言っている内容を論理客観的に検証することなく漫然と鵜呑みにし 誰も疑うということをしなくなる
権威を疑うことに対して ヒトという種の生物は先天的に根拠のない観念的罪悪感が働くことによって 盲目的に鵜呑みにしておいた方が安心満足感が得られるようにできているからである
大脳辺縁系によって促される9割の無意識によって ヒトは嘘でもデマでも大間違いでも簡単に鵜呑みにし 自分の頭で考えて判断などしないバカなのである
ヒトは先天的にバカであることを 私は知っているので 自分の頭の悪さには騙されないように 相手が権威だろうが何だろうが注意深く言っている内容を検証するようにしているから 様々なデマや嘘を見抜くことが可能となるのである
だから 私は先天的に天才なわけではなく ただ論理客観的に「本当の話」なのかどうかをできるだけ慎重に見極めようとしているだけのことである
ヒトは 多数と共感してしまうと 間違った内容であっても主観的安心感によって簡単に嘘やデマでも鵜呑みにしてしまう先天的習性が存在しているのであって 決して「自分だけは絶対に騙されない」などと自信過剰になって安心しているからバカになるのである
ロシア人の7割がウクライナ侵攻に賛同しているのも ロシア国内における共感性による安心満足感が作り出しているのであり それはナチス政権下のドイツでも 日露戦争で調子にのって太平洋戦争に賛同した日本においても同じことが言えるのである
ヒトは そもそも動物であるから その行動は基本的には動物由来の本能によって支配されていて 自分の頭で物事を考え判断する能力というのは非常に希薄なのである
だから「意識の9割は無意識」であり 「人は見た目が9割」と称して見た目の主観的安心感や拒絶反応ばかりで他人を根拠もなく勝手にレッテル貼りをし 間違った認識で物事を判断するようになるのである
だからバカが治らず 未だに戦争などというバカげたことを引き起こすのであり それはロシア人だけの問題ではなく イスラエルとパレスチナにおいても ミャンマー軍事政権においても 香港(中国)や北朝鮮においても同じ「ヒト」の先天的な認知上の欠陥に起因するものであって それは人種や国籍や学力成績も関係がないものである
ナチス政権下のドイツ人の学力偏差値が低かったとは言えず 今のロシア人の学力偏差値が低いわけでもないのである
にも関わらず 「学校の勉強は認知的ワクチンで 勉強しておけばデマや嘘には騙されなくなる」などというデマを簡単に鵜呑みにしている大衆や出版社の方が圧倒的多数なのである
多数の側を信用しておいた方が気分的(本能的)には安心満足ではあろうが その安心満足という無意識な脳電位(思考バイアス)こそが ヒトが簡単にバカになる最も根源的原因なのである
Ende;
「子どもは未来に対する認識がないか極めて低い」
石田勝紀(教育デザインラボ代表理事、教育評論家)
⇨子供が自主的に学ぼうとしなくなるのは 「未来に対する認識がない」のではなくて そもそも自分の将来というものに対する選択肢のようなものを親大人が全く提示できておらず 選択肢そのものが見えず ただ漫然と「生かされて」いる感覚が強いため 目先のゲームだのテレビだのばかりに流されてしまうのである
未来に対する認識や知識や選択肢そのものを 大人たちが提示できていないことが 子供達の主体的意欲を削いでしまっているのである
泥団子に熱中しても将来何の役にも立たないと思っている大人は多いが 泥や土や粘土といったものの素材や粒度の違いを知らなければ固くてキレイな泥団子は作ることができない
こうした知識は左官屋が新しい土壁素材を探すのと同じものであって どんなことでも詳しく突き詰めれば専門知識として将来他人とは違う個性的スキルとして発揮することにもつながるのである
プラモデルであっても 素材の違いや接着剤や塗料や溶剤の種類の知識は 将来のものづくりにおいて役に立つ基礎的知識ともなる
なぜプラスチックには透明なものと不透明なものがあるのか プラモデル用の接着剤がABSやPPやPETには使えないのはなぜなのか
ラッカー塗料の上にエナメル塗料を塗るとベタつくようになってしまうといった「失敗」経験の積み重ねこそが「学び」には重要なのであって 予め用意された「成功体験」ばかりを提供させられた子供というのは 失敗に対する耐性が全くなくなってしまい 「失敗から学ぶ」という向上心が全くなくなってしまうのである
遊びの中にも将来役に立つ知識というものは見つけ出すことは可能なのであるが それをバカな大人は「ゲームだから」とか「プラモデルだから」とか「所詮遊びだから」と分類して学校の勉強だけが「頭が良くなる」かのような大衆観念に基づいて子供の本当の興味や好奇心を否定し 主体性を奪っているのである
ダンボール工作一つとっても ダンボールをどう組み合わせれば強度が出るのかとか リンゴの箱は丈夫だが ポテトチップスの箱は弱いといった知識も 社会に出た時に充分役に立つ知識ともなるのである
本当に子供が興味を持って楽しめていれば 試行錯誤もたくさんできるので 自分の頭で物事を考えるためにはとても重要な「学習」として働くのである
「博士ちゃん」なんてのは そういう人達である
学校で教える勉強というのは 予め正解が用意されたものに過ぎず 自分で主体的に「何が正解なんだろうという」と探す楽しみが何もなく ただ他人との成績評価比較による画一的序列だけが動機になってしまい 結果的に他人を蹴落とすことも平気な非情な人格に育ってしまうのである
地下鉄に毒ガスを撒き散らした東大医学部の学生達は 当人達は「人類の救済」だと主張していたが 実際には教祖に気に入られることへの異常な執着心による序列競争に囚われていたのである
テロリスト達の主張していた「人類の救済」というのは 自分の無意識な行動の事後正当化のための「エピソード記憶(でっち上げ)」に過ぎず 当人達は本気で「思って」いたとしても それは自分の頭で「考え」て「選んだ」ものではなく 教祖に言われたことを鵜呑みにしただけなのである
泥団子だろうと粘土細工だろうと 熱中して集中して夢中になって取り組む主体的積極性こそが人格形成にとって最も重要なのであって 実際にノーベル賞などの評価をされている人の中にも「小学校時代に全然勉強をしなかった」人というのも結構多いものであり 逆に学校の勉強しかしていないと毒ガステロをやらかすようなバカにもなるのである
先天性の学習障害のようなものがあれば いくら勉強してもほとんど学習効果がない人というのもいるものであり こうした先天的な脳の機能の違いというのは本当はグラデーションでありスペクトラム的にあらゆる人にも脳の先天的な偏り(個性)として存在しており
学習障害と診断されていない場合にも 人それぞれに得手不得手として存在するものでもあり 苦手なことをどんなに頑張っても それは先天的に得意な人にはまず「勝てない」のであって 「勝てない」競争を無理やり大人(他人)が強要しても 「勝てない」ことによって自信を失い 益々意欲を喪失してしまうことに追い詰めてしまうのである
本当に主体的に楽しめることに熱中できていれば たとえ先天的に苦手な事柄であっても 自分が獲得したいと思っているスキルであるならば頑張れるようにもなるのである
それは「勝ち負け」ではなく 「自分が獲得したい」スキルだからこそ頑張ることもできるようになるのである
学力偏差値というのは あくまで特定領域での能力のものさしでしかなく 学力という基準には当てはまらない能力は測りようがないのであり 学力偏差値そのものは社会的な有用性や有能性の基準としては意味を為さないのである
そんな学力偏差値に画一的に執着させても 社会効率の面からも 個人の生活の質の面からも 大きな損失になっているのである
本当に子供の将来を思っているのであれば 子供がどのような事柄に興味を示しているのかを注意深く探り 大人の知識を総動員してサポートしてあげることこそが 本当の意味において「頭が良くなる」と言えるのである
大人が子供のことを本当に理解しようとせず あたかも「未来に対する認識がない」などとバカにしているというのは 大人の側の身勝手な怠慢に過ぎない
Ende;