白い服を着た人と 黒い服を着た人が バスケットボールをパス回ししている動画があり
「黒い服の人が何回パスをしたのかを数えてください」という課題を与えられて動画を見ていると
動画の途中で黒い熊の着ぐるみを着た人が乱入してきていても ほとんどの人はそれに気づかない
しかし パスの回数をカウントする課題を与えずに動画を見れば 大抵の人は黒い着ぐるみの乱入に気づくことができるのである
課題を与えられると それ以外のおかしな部分には気づかなくなる
マイケル:サンデルの「トロッコ問題」では 「1人殺すか5人殺すかのどちらかを選べ」という課題を与えることによって トロッコ問題の中には本当は倫理が含まれていないことには誰も気づかなくなる
トロッコ問題では どちらを選んだところで倫理的責任が問われない選択であって 「誰かが必ず死ぬ」という状況においては「死んだ人数」には倫理は含まれてなどいないのである
誰かが必ず死ぬような状況を 予め予測出来たとした場合 その危険性を予め排除するための対策をしたかどうかにまで遡れば倫理的責任の話にはなるが
他人の無責任によって誰かが死ななければならないような状況にまで陥ってから「死んだ人数」をいくら「悩んで」も 倫理の話にはならない
それは 主観的印象としての「悩み」に過ぎず 原理的に論理客観的に答えが出し様がない命題だからである
「悩み」という主観的印象に対して 「考え」というのは論理客観的に検証して答えを導き出すことであって これは全くの別物である
つまり ヒトというのは主観的な「悩み」と 論理客観的な「考え」との区別がしづらい性質があり サンデルはこの性質を利用してトロッコ問題を「倫理の話」だとすり替えたのである
こうした主観的な「悩み」と 論理客観的な「考え」との区別が困難であることを利用する手法は オウム真理教の洗脳の手法と同じものであり 「世の中は間違っている」という至極当たり前の命題に基づいて「だからオウムは正しい」という観念へと導いたのである
「世の中は間違っている」というのは当たり前の話である
ヒトが作った世の中である以上 永遠に何も間違えない社会なんぞありえないのであって 具体的にどこが間違っているのかを論理客観的に検証することによって 丹念に間違いを訂正しながらより良い社会を構築してゆくことが重要なのであって 毒ガスだの戦争だので「解決」しようとする短絡的発想に陥るのは その思考プロセスには論理客観性が伴わず 主観的感覚や印象ばかりが優先しているためである
プーチン政権のロシアでも この構造は働いており これは別にロシア人だけがバカなのではなく ナチス政権下のドイツ人でも 太平洋戦争時の日本人でも ポルポト政権下のカンボジア人でも同じ様に引き起こされた盲目性である
ヒトの意識の9割は無意識であり その9割というのは主観的感覚や印象であって 1割の本物の意識というものは主観的感覚や印象に左右されない自己客観性が必要となるのである
「9割が無意識であれば もはや論理検証なんて絶対にできないじゃないか」と言い出すバカは多いが 「難しい」とは言えるものの 「絶対にできない」ことの論拠にはならない
振り込め詐欺師に騙されている人が頑なに「いや 自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るのも 主観的感覚や印象ばかりが優先してしまい 冷静になって考えてみればおかしな部分は山ほど出てくるのに その冷静な論理客観的「考え」が その場における主観的感覚や印象によって阻害されることで ヒトは簡単に騙されていることに気づかなくなるのである
詐欺に騙された場合には 振り込んだ後になって警察や家族から騙されたことを指摘されるために 否応なく騙されたことを認めざるを得なくなるのだが
マイケル:サンデルの屁理屈に騙されている場合には 何せ大多数の学力偏差値の高いハーバード大学生が騙されているために 騙されていることを認めなくても「恥ずかしく」すらないのである
「恥ずかしい」かどうかは主観の問題であって 情動に過ぎない
高学力な「エリート」と認証されている多数が騙されているのであれば それは「騙されていても恥ずかしくはない」上に そもそもだまされていることすら認めなくても主観的には安心満足感が得られるために 信じ込んだままはぐらかしておいても誰も問題にはしないし したがらないのである
サンデルが「トロッコ問題」を使わなくなったのは 私が指摘したからであって 「トロッコ問題」には論理が含まれていなかったことについて サンデルは「なかったこと」にするという黙殺を平気でしている詐欺師である
ヒトは 多数から人気があって 学術権威の「肩書」さえあれば どんなに荒唐無稽な嘘やデマや間違いでも鵜呑みにし 何の問題意識も働かなくなるという頭の悪さを発揮するものなのである
養老孟司の著作を検証すれば 「脳化社会」云々に関わる話の全ては論理整合性がなく 論として全く成立していないにも関わらず 読者の大半は「何が間違いなのか 全くわからない」のである
松沢哲郎による「チンパンジーの行動習性から 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などという予測も 論理客観的に考えれば立証不可能な嘘に過ぎないことにも誰も気づかず 主観的安心満足によって文化功労賞まで獲得しているのである
「脳科学者」の大半が「自由意志などない」と称して 大脳辺縁系によって促される情動バイアスの脳電位には一切逆らうことが出来ないことの立証には全くならない
ヒトには理性というものがあり 「殴りたい」という情動による脳電位が生じたとしても 「殴っても根本的解決にはならない」という理性による抑制が働くことによって人間としての自由意志が働くのであって 必ずしも「脳電位の奴隷」ではないのである
最初に挙げた「パスの回数」を数えることを指示されたことによって 大きな違和感ですら見えなくなってしまう性質が自分も含めたヒトには普遍的に存在することを前提にしておけば より間違いには陥りづらくなることは可能なのである
原発事故を引き起こした東京電力や 日本大学の組織腐敗といったものも 組織を構成する個人が目先の利己的保身を優先して組織全体の問題点を傍観放置したことが原因であり
その言い逃れとして「組織の体質が悪い」などという屁理屈を言い出すバカが大半だが そもそも「組織の体質」を作り出しているのは組織を構成している個人によるものであって 大多数の「事なかれ主義者」の無為無策による傍観放置こそが組織腐敗を作り出す根本的原因なのである
こうした組織腐敗の構造を解明せずに ただ「ヒトラーが悪い」だとか「ポルポトが悪い」といった 目立つトップだけに責任の全てをなすりつけて「懲罰で解決」することもまた主観的満足や安心ばかりが優先しているのであって 根本的な組織腐敗のメカニズムの解明にはならず 結局プーチン政権の傍観放置にもつながったのである
ナチス政権で実際にユダヤ人殺害計画を立案したのは アドルフ:アイヒマンのような「従順な下僕」である
自分の頭で物事を判断せず ただ政権からの業績評価欲しさ故に機械のようにユダヤ人を殺害する計画書を作成立案し続けたことによって 600万とも言われる被害者を作り出したのである
大衆の多くは 「アイヒマンだけが特別に頭がおかしいキチガイに過ぎない」と分類したがるが 実際にはスタンレー:ミルグラムによる服従心理実験によって 被験者である「普通の人」の大半は権威と見なした相手の命令に従って他人に危害を加えることに抗うことができない先天的習性が存在しているのである
ヒトは 権威と見なした相手を疑うことに対する拒否反応 観念的罪悪感(自己嫌悪感)が働くことによって 権威の発言に対して盲目的に鵜呑みにしたがるバイアスが先天的に組み込まれているために自分で物事を考え判断することをしなくなるのであって こういった情動による思考バイアスが働くことによって ヒトは自分の頭で物事を考え検証することをしなくなる盲目性を発揮するのである
ミルグラムの服従心理実験において 権威の命令に逆らおうとした被験者が「怒り出す」のは 自分の中の「権威の指示には従いたい」という感情と 「他人に危害を加えるべきではない」という感情の葛藤が働くことが原因であり それでもなをヒトの多くは権威の命令に従って他人に危害を加えてしまうものなのである
それはつまり 「自分の考え」よりも「権威からの指示」の方を優先しているからである
司法裁判による刑罰の判決に対し 国民の大半は何の疑問も持たないものである
「悪いことをしたら罰が与えられる これは仕方ない(他の選択肢が一切存在しない)こと」だと諦める
「諦める」こともまた主観的な情動による思考停止であり 「仕方ない(他の選択肢の一切が存在しない)」ことの論拠が存在していなくても 気分的に思考停止をするのに都合が良いため ヒトは「絶望」して簡単に「諦め」るのである
通り魔を死刑にしたら 通り魔事件がなくなる論理的根拠は何もない
銃乱射事件でもテロでも同じことである
警察のポスターに「テロは絶対に許さない」などというスローガンが掲げてあったが 「許さなかった」らテロがなくなる合理的根拠など何もないのである
無差別殺人などに限らず 犯罪者がどうして合理性も何もない身勝手な正義を振り回して他人に多大な迷惑をかけたがるのか その論理客観的な原因究明を徹底して行わないから 再発防止にもならないのである
刑罰による抑止効果とは 所詮は主観的に「罰が怖いから」やらなくなるだけであって 自暴自棄な通り魔やテロリストや暴走族に対して罰は何の効力もないのである
むしろ「自殺ができないから 死刑にしてもらう」という身勝手な死刑制度の「利用」に用いられてしまうのであって 逆効果でもある
ワクチンの安全性が100%ではないからといって 小児科医院に闖入して妨害行為を行うなどという「力による一方的な現状変更」という一方的な正義の「押しつけ」が横行してしまうのは 「暴力で解決だ」というヒトの先天的錯覚によるものであり これはそもそも社会制度としての刑罰制度そのものの欠陥が放置されていることにも原因がある
罰による恐怖によって行動抑圧しないと 自律的には社会的責任判断選択をしないバカが一定数存在しているから 刑法罰の制度が必要となるのであって 国民の全てが自律的な社会的責任判断選択が出来ているのであれば 過失によって被害が出たとしても罰ではなく再発防止のための対策を徹底することの方が社会安全性にとっては実効性や合理性が伴うのである
刑法罰というのは 自律的な社会的責任判断をしないバカがいる限りは必要になるものの これは「必要悪」でもあることを前提にして 「なぜ犯罪者は自分から社会的責任を負わないのか」についての論理客観的知見を徹底的に究明することの方が重要なのである
私は刑法廃止論者ではあるものの 即座に刑法裁判の全てを廃止することを論じているわけではなく 最終的には誰も無責任な行動を採らない社会になれば 刑法は必要なくなることを論じているのである
ノルウェーの「リゾート刑務所」による再犯率の著しい低下から学べる知見は充分にあるはずである
ヒトがなぜ他人の迷惑や 社会全体の安全性に配慮しなくなるのかについての論理客観的知見があれば 無責任なバカは確実に減らせることに間違いはない
バカをいくら殴っても バカは治らないのである
バカがなぜバカなのか その根本的原因を究明し バカが1人でも減れば社会安全性が高まるというのは 必然である
そのためには 先ず 刑罰というものが無責任なバカを従わせるためだけの国家権力を用いた行動抑圧に過ぎないという暫定的な制度であることを国民の大半が自覚し 教育においても盲目的な「規範意識」に頼らず「自分の住む社会への責任」としての行動判断ができる主体性を育むことが必要であり
漫然と「規範意識」などと称して機械的に法手続きに服従するだけの従順さばかりを発揮させてしまえば 「飲食店内で客が踊っていたから 店長を逮捕」という法律手続きの主旨を逸脱した適用も可能となってしまうのである
そんな「未来世紀ブラジル」みたいな不条理社会など 誰も望んでなどいないのである
社会的責任を負わずに身勝手な行動をするバカを 刑法制度で間接的に「殴って」おけば ヒトの大半は主観的に安心満足できるものではあるが その主観的安心満足が優先してしまうことによって 論理客観的な「本当の目的」が見えなくなってしまうのである
「問題盲」とは 主観的感情が優先することによって論理客観的根拠のある「真実の解決策「本当の目的)」を多くのヒトが見えなくなってしまうことで生ずるのである
ヒトは 被害があまりに甚大だと 感情が優先して「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして満足しがちである
そもそも大きな被害の陰には無数の小さな迷惑が存在しているのであって 迷惑が小さい時点で罰ではなく徹底した原因究明と再発防止をしておけば 大きな事象への発展を大幅に防ぐことになるのである
脳科学者の界隈では 「自由意志など存在しない」と言われる程に ヒトには自発的論理客観的検証性(本質的な人間としての意識)が働きづらいのは事実ではある
だが 「働きづらい」からといって「存在しない」などと決めつけるのは科学を逸脱した身勝手な実証不能の観念である
ヒトの意識の9割 状況によってはそれ以上が無意識になってしまうことが充分にありえることを自覚しておくことによって 詐欺やデマや学術権威の間違いや嘘にも気づくことは可能である
更科功による「生きているだけでも立派なものなのだ」などという主観的感想を科学的論証と混同した論説も 自分の頭でちょっと考えれば「これははぐらかしやごまかしだな」と気づくことは大抵の人なら可能である
ましてや養老孟司による「客観的事実などない」などという話も 主観と客観の混同による支離滅裂なはぐらかしであることは明らかである
それでもなを養老孟司が学術権威扱いにされ続けているのは 振り込め詐欺に騙されてた状態とは異なり 多数の大衆マスコミによる観念的「人気」が維持されていることによる安心感が働いているからである
カール:ライムンド:ポパーによる「白いスワン」の喩えとは 「数」はそれだけでは論理客観的な根拠にはならないという意味であって 統計的証拠というものは統計のデータの中からでしか立証されない偏りが存在していることを忘れてはならない
何千年読み継がれた古典であるとしてもその年数も 読んだ人数も内容の確証の根拠にはならない
実証不能の神が何千年信じ込まれているとしても 実証不能であることに変わりはないのである
天動説であっても 地動説が知れ渡るまでの期間の長さがいくら永くても 天動説の方が正しいことの論拠にはならない
「いままでずっと そうだった」ことは それだけでは何の確証にもならないのである
「将来的には刑法を廃止すべき」という話をすると ヒトの大半は「いままでずっと そうだった」刑法制度への主観的安心感を喪失する恐怖によって 内容を理解する前に観念的拒絶反応しか示さないものである
スタンレー:ミルグラムの服従心理実験を読んだ人の中には 何の根拠も示さずに「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと勝手な決めつけをして満足しているバカは多いものである
ヒトという種の生物は 実証不能の神でも学術権威の肩書でも何でも構わないから盲目的に信頼し続けられる絶対的存在に頼りたがる先天的習性があるため この本能的習性を満足させるために論理客観的根拠をすっ飛ばしてでも権威に服従することを正当化しようとしたがるものなのである
ロシア兵や 香港警察や ミャンマー政府軍や イスラエル軍などによる野蛮行為というものは 「上官」という「権威」に対する盲目的服従が根本的原因であり あらゆる組織腐敗においても その組織を構成する個人の主体的判断としての「意識」の欠如が組織の腐敗体質を作り出すのであって こうした盲目性というものは日本大学のような学府においても生ずるものであって ヒトであれば如何なる組織においても起こりうる普遍的性質だと認識自覚しておく必要がある
NHKは未だにマイケル:サンデルを垂れ流し 養老孟司を学術権威として扱い 生物学における遺伝的進化に対する「典型的な間違い」に基づいた説明をも垂れ流し続けて 何とも「思って」いないのである
にも関わらず自分達を「信頼出来るメディア」だとでも「思って」いるのであろう
こうした自信過剰による傲慢こそが 自分の頭で物事を判断しない頭の悪さによる盲目性の原因なのであり 別にNHKに限ったことではなく あらゆるヒトにおいて生ずる普遍的な「先天的な認知上の欠陥」なのである
ヒトの意識の9割を占めると言われる無意識な情動バイアスを 客観的に検証する「自分の考え」というものを明確に持つことが人間性形成にとって最も重要であり
誰も自分の遺伝子を選べないし 選べない遺伝子によって作り出された大脳辺縁系から出てくる情動バイアスも 産まれ育った環境から受けた「常識」的知識も それだけでは主体的選択を介さぬ「自分の自由意志」とは言えないのである
自分の主観的安心満足感に惑わされずに 徹底して論理客観的根拠に基づいた「本当の目的」を見極めることこそが 本当の自分の「自由意志」だと言うことができるのである
急に言われても そんなに簡単には出来ないかも知れないが 簡単なことばかりに流されているからバカが治らないのであって 難しいことをやってこそ「頭が良くなる」のである
「バカが治れば 頭は良くなる」
それは極めて必然的帰結である
それは学力偏差値や権威肩書や多数人気とは無関係である
Ende;