ヒトに限らず 動物というのは基本的に情動バイアスによって行動が決定する
気分が良くなるように行動が促されるのが基本であり 論理客観的真実かどうかは優先されない
だからこそヒトの多くは実証不能の謎の観念を簡単に鵜呑みにし 他人に多大な迷惑をかけてしまうのである
ヒトの多くは ヒトという種の生物でさえあれば自動的自然に人間性が発揮されるものだと勝手に妄想している
なぜならば そう「思って」おけば安心満足で気分が良いからだ
ヒトは 先天的には自分の頭で物事を論理客観的に考え 何が真実なのかを自律的に判別しようとはしないものであり 自分の感覚(直感など)のままに判断していれば 常に正しい判断になるものだと主観的には「思って」いるのである
ヒトの多くが実証不能の謎の神の存在を信じたがるのも 「実証不能の神を信じたい」という先天的欲求が先行し 論理客観的に実在するかどうかの判断は優先しないからである
「ヒトの多くは実証不能の神なくしては生きられない程弱いもの」などという話は養老孟司や遠藤秀紀がキリスト教系神学校で教師から教え込まれがちであるが 実際には実証不能の神の存在が客観的に立証されなくても死ぬ人などおらず キリスト教をビジネスとしている神学校の教師特有の都合の良いはぐらかしに過ぎない
現実には実証不能の神の名のもとに殺し合いが行われていることの方が圧倒的に多く
実証不能の神を信じているような人程 プーチンやトランプのような「強い」為政者も信じ込むポピュリストでもある
論理客観性がないのだから そりゃポピュリズムになるのは必然というものである
ポピュリズム 大衆迎合というものは 要するに「ヒト」という種の生物における先天的な快楽のバイアスに則った人気取りであり 多数のヒトが気分の良くなる話 安心する話をしておけば ヒトの大半はそれが論理客観的合理性を伴った真実かどうかは 先天的には興味がないのである
「意識的に自分で考えて判断しなくても 無意識によって正しい判断が促されるのではないか」という主旨のことを能町みね子が言っていたことがある
「潜在知」などという言葉もある
これらはヒトには先天的に人間性が組み込まれていて 自分で意識的に考えて行動選択をしなくても 気分感情のままに行動しておけば自動的自然に正しい結果に導かれるかのような根拠のない妄想に基づくものであるが
こうした妄想を信じ込んでいた方が 主観的には安心満足感が得られるために ヒトの多くは自分の頭で物事を論理客観的に考え 判断することをしたがらないのである
自分の考えを超越した 実証不能の謎の知能が ヒトには先天的に組み込まれていて 進化的に正しい行動しか促されることのないようにヒトは進化しているとでも思っておきたいようなのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「理性を超越(逸脱)した謎の悟性」だの 「純粋統覚」だの「絶対に知覚することのできない叡智界」などという荒唐無稽なオカルトファンタジー妄想話を あたかも論理客観的根拠のある真理の論証に基づいた「哲学」であるかのように 多くのヒトが錯覚するのも それが「信じたい話」だからであって 主観的に安心満足感が得られるから信じているだけなのである
論理客観的に物事を判断できる者にとっては こうした荒唐無稽なオカルトを信じているヒトは極めて少数派で 大部分のヒトは自分と同じように実証不能な謎の観念など信じていないものだと 感覚的には「思って」いるものだが
これは 論理客観的に物事を判断している者だけの「直感」的感覚に過ぎず ヒトの大部分は「科学を信じている」にも関わらず 現実には「学術的権威肩書を盲目的に信奉している」だけであって 決して自分の頭で真偽の判定などしていないのである
ヒトは先天的には多数や「多数によって承認された権威」の言うことを盲目的に信用し 多数派に迎合同調しておけば主観的にも安心満足感が得られるというバイアス(偏り)があるため 自分の頭で物事を考え判断しようとはしたがらないものなのである
そもそもヒトは 産まれてくれば初期的には必ず「子」であるため 先天的に「親」を盲目的に信頼し 依存し 服従する習性がある
これが血縁続柄を超えて集団の中における「上」と見なした権威などの対象への盲目的服従「パターナリズム」として発揮され ヒトの多くは権威肩書への盲目性を発揮することで封建的順位序列に基づいた差別や理不尽な過当競争にも陥るようになるのである
イヌが異常なまでに飼い主に媚へつらうのは イヌにとって飼い主が神も同様だからである
ヒトであっても 子供のうちは親が神同然であり たとえ虐待するような親であっても 親から引き離されることには恐怖を感じてしまうものでもある
神とは 要するに子供が親を求める本能的行動バイアスが作り出した妄想なのである
自分で物事を判断し 自律的に社会的責任判断選択などしなくても 権威肩書を持った他人任せにしておけば あらゆる責任判断も権威肩書に丸投げできるものだと そう「思って」おけば安心であるため 「信じたい話」として信じようとするだけであって それが本当に人間として正しい判断であるかどうかすらも 自分では考えたくはないのである
ヒトは暴力的な相手には逆らいたくないものである
多くの他人が暴力者に迎合し 忖度していれば 自分だけが暴力者に反逆することに対しての「恥ずかしさ(恐怖)」を抱き
暴力的権威によって形成される集団に同調し属しておくことで 組織体制への「適応」することは 生存や「繁殖の継続」においては有利に働くため 進化的には暴力者に服従する卑屈な習性を持った個体への収斂進化が促されているのである
だから日本大学のような組織腐敗が起きるのである
これは珍しいことではなく 「会議」と称して取引先や上司など他人の陰口を言い合って差別を共有し 仲間意識を満たして満足している企業がほとんどである
アリさんマークの引越社による経営取締役達の異常な社員差別も ヒトの先天的な順位序列による差別をしたがる行動バイアスによるものであり 子供じみたイジメが企業内や海上自衛隊で蔓延するのも 無意識な情動バイアスによって導かれた結果である
イヌの服従性を利用すれば 介助などに有効利用することも可能ではあるが これはあくまで訓練次第である
イヌの「直感」的行動バイアスとして ヒトにとって都合の良い行動を採るように訓練すれば介助犬として有効利用も可能であるが 「直感」という主観的感覚は 学習される「正解データ」に依存するものであり ヒトにとって都合の良い行動をするように訓練せずに イヌだけで集団を形成させておけば野犬の群れになるだけである
イヌは自然界においては凶暴な「野犬の群れ」にしかならない
イヌというのは先天的に凶暴な「野犬の群れ」を形成することによって獲物を統率協調的に捕獲し 自然界における弱肉強食の生存競争に勝ち抜くことができるのである
遺伝的進化というものは あくまで過酷な自然環境下における弱肉強食の生存競争による淘汰圧力によって収斂が引き起こされるのであって 人間社会に生存競争による遺伝的進化を持ち込むというのは「脳が壊れている」としか言いようがない
山極寿一は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などと称して大衆から人気を集めているが 京都大学学長を務めたことがあるからといって 言っている内容に科学的根拠が伴う保証にはならない
原発の危険性を傍観放置した東京電力社員達や 日大の組織腐敗を傍観放置した職員達 プーチン政権に服従迎合している政権幹部達に「先天的な人間性」が存在していると言えるであろうか
「先天的な人間性」が存在していることにしておけば あたかも自分という「ヒト」が先天的に優秀で 自動的に人間性に基づいた行動選択へと無意識に導かれるかのように妄想しておけば満足だから「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという論理的根拠のない話で満足し 「信じたい話」として信じているだけであって 本当は誰も科学的根拠など興味はないのである
ヒトは所詮動物であり 先天的には主観的に気分が良くなるようにしか行動選択が促されることはない
衆人環視下では善人を装うが 腐敗組織内部では封建的順位序列競争に邁進し 他人を蹴落とすことしか考えなくなる ヒトとは先天的にそういうものなのである
Microsoft社のTwitterAIが SNS上の数多くのヘイトスピーチを「正解データ」として学習してしまう程に差別は蔓延しているのであり これは同時に統計的事実でもある
それでも「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという話を信じこもうとするのは 「脳が壊れている」としか言いようがない
人間性というものは 何が真実なのかを判別する能力が必要であり 「本当の目的」を忘れて目先の快楽や満足ばかりを追及しているから人間性を欠いた身勝手な実証不能の観念を振り回すようになるのである
社会安全性や持続可能性 公平性や中立性といったものも それが本当に安全性にとって最も合理的なのかどうか 公平中立性にとって合理性があるのかどうかの見分けがつかなければ人間性としては機能しない
司法ビジネス利権者達にとっては 判決だけが目的であって 司法判決というものが社会安全性や 本当の社会的公平性や中立性において合理性があるかどうかは「知ったことではない」のである
通り魔を死刑にしたら「解決」であり 「なぜ通り魔などという何の合理性もない行動を採るようになったのか」についての徹底した原因究明や再発防止策など 司法ビジネス利権者にとっては制度上「儲け」にならないから興味も持たないのである
通り魔が暴力で解決しようとするのも ヒトの大半が「司法判決で解決」だとみなすのも 結局は主観的気分による満足に基づくものであって 論理客観的に合理性を伴った社会安全性に基づく判断ではないことに違いはないのである
「テロを準備したら刑罰だ」などという法律も 結局は「テロで解決だ」と思っているテロリストと 発想の短絡性そのものは同じものであって その短絡性そのものに合理性がないことには誰も気づかないのは 端的にいって何も考えない「バカ」だからである
テロを準備していたら それは確かに危険ではあるから身柄を拘束するなどの処置は必要だが 罰を与えても「なぜテロで解決だと思っているのか」についての原因究明には全くならない
そもそも「罰(判決)で解決」という判断の短絡性を棚上げにしておいて 「テロ(暴力的懲罰)で解決」というテロリストの短絡性に言及することはできないのである
軍隊のような服従統率や「規範意識」に対して 大衆マスコミの大半は「社会性」や「人間性」であると主観的には思って安心しているようだが
規範や規則に対する盲目的服従性というものは 極めて機械的な手続きに過ぎず 「薪ストーブの灰を肥料として販売したら犯罪」になってしまうような運用も可能なのであり
軍隊というものは戦争のようなバカげた行為であっても為政者にとって便利に使える非合理なものでもある
日大アメフト部による違反行為も 指導者による威圧的命令に対する盲目性が促したものであって 服従統率というものには人間性など存在せず むしろ盲目的服従や順位序列による差別や迫害の原因にしかならないのである
それでもヒトは 神や権威に盲目的に服従することを求めるものである
それは 先天的本能として求めているからであって 主観的な満足安心が優先しているからであり 権威に服従していれば判断責任は権威に丸投げできるという安心感も伴うからである
それは 小さな子供が親に叱られるかどうかでしか行動判断が出来ないのと同じであり こうした「甘え」こそがヒトの先天的無責任性や非人間性というものの原因となっているのである
能町みね子のように 「意識的に何かを判断しなくても 無意識な知能のようなものが働いて 正しい結果へと導かれる」などという主旨の発言をしだすのも 自分で物事を判断するという責任意識を放棄し 権威や神や遺伝的進化にでも行動責任を丸投げしておいても構わないという無責任な盲目性を発揮しておけば 主観的に安心満足感が得られるからであって 当然ながら論理客観的にそれが正しいことの根拠なんぞありはしないのである
SNS上でヒトの多くがヘイトスピーチに邁進したがるのは 他人をバッシングしておけば自分の方が優位に立てたかのような「感覚」が得られるからであり 差別や序列を勝手に作り出すことでしか自己肯定の方法を知らない憐れなバカによる身勝手な正義の振り回しに過ぎない
ヒトという種の生物 それは自分も含めたあらゆるヒトという種の
「動物」であり 遺伝的進化によってヒトにまでは進化したものの 現代社会を形成することによって自然界の過酷な生存競争から逃れ 安全で公平な社会を求めること「も」ヒトには可能となったが
同時に祖先の生息環境によって組み込まれた生存競争(殺し合い)への行動バイアス「も」存在しているのである
断片的な利他的行動だけを都合良く抽出してきて「先天的人間性」などと称して主観的に安心満足するのは簡単であろうが それはヒトの先天的なあらゆる人間としての欠陥を無視した都合の良い「こじつけ」でしかないのである
遺伝的進化による現存生物種や生態系の恒常安定性というものは あくまで過去の進化の過程における膨大な淘汰圧力によって 恒常安定性を獲得した生物種や生態系への収斂結果に過ぎず 環境が変われば簡単に絶滅したり異常繁殖して結局は生態系ごと死滅に至ったりするものでもある
ある程度のホメオスタシスの原理は働くとしても それはあくまで特定環境変化の範囲内においてのみ働くものであって あらゆる環境変化に対応できるようなものではなく 許容範囲を超えた環境変化は生態系を著しく破壊し 元通りに恒常安定性を獲得するまでは再び幾度もの「失敗」を繰り返さなければならないのである
遺伝的進化というものは あくまで恒常安定性を獲得できなかった変異個体の全てが死滅することで 恒常安定性を獲得した個体種への収斂進化が促されるのであって 淘汰圧力という死滅なくして進化など起きないのであり 大手町の医師が言うような「死んだら困る」から「環境に適応した変異だけがどんどん起こる」などという「後天的に都合の良い進化」しか促されるようなものでは断じてない
ヒトは既に地球環境を喰い尽くさんばかりの異常繁殖に至っているのであり ウイルスにとっての生息環境(宿主)としては 別に何人死のうが豊富な生息環境の中では共存進化する淘汰圧力など働く必要性すらないのである
風呂場のカビは いくら掃除してもヒトとは共生進化など起きないし ゴキブリはいくら駆除しても猛毒のボツリヌス菌を媒介してしまう性質がなくなるわけではない
ウイルスは異常繁殖した生物の数を「整理」する役割や働きがある
それは別に目的があって役割や働きがあるのではなく 生態系の進化の過程において生態系の恒常安定性に役に立ったから その役割や働きを持ったウイルスが遺ったのであって 異常繁殖したヒトの数を「正常な数」に「整理」するまで弱毒共生進化は生じない
それがヒトにとって後天的に「都合が悪い」としても 後天的「都合」は遺伝的進化には影響を及ぼさないのである
実際の自然界においては赤潮ウイルスは赤潮を解消するまで赤潮プランクトンを死滅させ続けるのである
遺伝的進化によって バクテリアがヒトにまで進化したからといって ヒトという種の生物がヒトを超越した実証不能の謎の超人にまで進化するわけでもなければ
遺伝的進化によって無意識に人間性が発揮されるような都合の良い進化が「終わって」いるかのように妄想するのは それがヒトにとっては安心で「信じたい話」だからに過ぎない
ヒトは現代社会を作ることによって 過酷な生存競争から逃れたのであって 生存競争による淘汰圧力から逃れた以上は遺伝的進化が促されることはない
つまり 遺伝的進化というものは ヒトにまで進化を促した時点で それ以上の人間性のようなものまで作り出してくれるような都合の良いものではなく むしろ祖先の生息環境における過酷な資源の奪い合い競争の名残りとしての習性によって ヒトは順位序列による差別や迫害 懲罰などの暴力によってのみ「解決」だと錯覚する「人間としての欠陥品」なのである
先天的なハードウェアとしての欠陥があるとしても ヒトには論理客観的に真理を見分ける能力「も」持ち合わせており 後天的にソフトウェア的パッチとして先天的欠陥を補う能力「も」発揮可能性が存在するのである
そのために必要なのは 自分の主観的「感覚」というものが 単なる動物的な行動バイアスという無意識に過ぎないことを理解することである
主観的 情動的に「信じたい話」かどうかではなく 論理客観的に「信じるに価する真実なのかどうか」を識別することが 人間として必要となるのである
嘘やデマと 真実との区別も出来ずに人間性もスッタクレもあったものではないのである
Ende;