ヒトという種の生物は異質なものに拒否反応を示します
この拒否反応というものには特に合理性はなくて 単に「慣れていない」ために生ずる主観的感覚に過ぎません
ドーパミンは その常習性によって思考や行動を「整理」します
「整理」とは言っても あくまで「単純化させている」だけであって 「整理」された思考は根拠のない間違った「常識」や「因習」への執着も作り出すものでもあります
ヒトが立って歩く時 重心が傾いた方の足を踏ん張ったり 上半身を傾けたりしてバランスをとろうとしますが
これが二輪車に乗った場合にはバランスを崩す原因ともなってしまいます
二輪車に乗った場合には 車体と身体の軸は動かさない方が車体が安定します
けれど 右に倒れそうになると ヒトって反射的に右足を踏ん張ってバランスをとろうとしてしまうのですが これが二輪車ではバランスを崩す大きな要因になってしまう
ヒトは大抵の場合 二輪車に乗っている時間よりも自分の足で立って歩いていることの方が時間的に長いですから どうしても足で立つ時のバランスのとりかたが無意識に優先してしまう
「脳が整理されている」というのは このように無意識な行動や動作への単純化であって 普段二足歩行する際には便利なんですが いざ二輪車に乗った場合などでは逆に良くない反射的動作も作り出してしまう
意識的に身体の軸と車体の軸を崩さないようにしておかないと うまくバランスがとれなくなる
自分の足で歩くときと 二輪車に乗った時では別のバランスのとり方を「学習」し 使い分けられるようにしないといけない
足で歩く時のバランスのとり方しか「学習」していない場合には 二輪車でバランスをとろうとしてもダメで それぞれのバランスのとり方を「学習」して 脳を切り替えないといけない
甥っ子が自転車の練習をしていた時に やっぱりどうしても傾いた方向に上半身を傾けることを繰り返してしまっていて 全然乗れなかったんですね
そこで 他の子が乗っている姿をよく見るように促し 自転車の軸と身体の軸が同じになるようにすればバランスがとれるよと教えたら 急に乗れるようになった
スラックライン的なものに乗る時にも 傾いた方に身体の上半身を傾けてバランスをとるんですが これは二輪車には通用しない
身体が憶えた「常識」的動作が 二輪車では通用しない
こうした無意識な反射的動作を「学習」するのが ドーパミンが持つ常習性の役割なのです
「お茶くみは女子社員の仕事」といった根拠のない「常識」に対し 長い間ヒトの大半は問題意識すら持ちませんでした
ドーパミンというのは「安心物質」とも呼ばれ 主観的安心感や満足感を作り出すものでもあるため 一度間違った「常識」を「学習」してしまうと 意識して「あれ 何だかおかしいな」と思わない限りは「会社ってそういうものだ」と諦め鵜呑みにし安心して何も疑問に思わないようになってしまう
ヒトがなぜ死ぬことに対して嫌な感情を持つのかといえば ヒトはこの世に産まれてきてからずっと「生きて」いるために 「生きて」いる状態に「慣れ」ているために「死にたくない」と思うようになる
それでは永遠に生きる合理的な意味があるのかと言えば 別にないんですね
これからやってみたいこと 実現したいことがあれば 死なずに生き続けてみたいとも思うんでしょうけども 単に「今までずっと生きていた」ことによる主観的な死への恐怖心というものには何の合理性もないんですね
「死にたくないから 生きている」だけならサルでもイヌでもネズミでもヨシノボリでも一緒であって 別に生きてさえいれば何でも「立派」でも「正解」なわけでもない
自律的な社会的責任判断選択をせずに 自分が利己的に生き続けることのための行動選択には そもそも「人間として生きて」いない以上は単なる「生物的生存」には合理性なんぞないんですね
他人を殺してまで生き延びたとして その人生は人間として豊かだと言えますか? って話ですよ
原発の津波に対する脆弱性を傍観放置しておいて 原発事故で甚大な被害を引き起こしてまで組織に迎合することが 「人間」としての人生として意味があるんですか? って話ですよ
ヒトという種の生物としては生きているとしても 「人間」としては死んだも同然だったら その人生は糞でしかありませんよ
自分にとっても 他人にとってもね
とは言っても サヴァイバーズギルドのような罪悪感を感じているからといって人間として意味がないわけではない
そもそもサヴァイバーズギルドというものは主観的な「感覚」に過ぎず 合理性のない「錯覚」でしかないからです
養老孟司のように「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません」という「感覚」をいくら主張しても それは主観であって合理的根拠がなく 謙虚でも何でもなくて ただの卑屈でしかない
養老は平気で無責任なことを言い出して人気を得ることしか頭にありません
養老は 他人からの評価だけが目的で 社会安全性とか公平性といったものには何の興味もないデクノボウに過ぎないのです
論理整合性のな無責任は話で多数人気を集めて利己的利益を得ることしかしていないからこそ 養老は「生きて ここにいて 相済みません」などという自己肯定感の低い観念に苛まされて続けることになる
評価承認欲求中毒というのは 窃盗症と同じようなものであって 窃盗症なら周りの人から批難されますが 養老の場合はいい加減なことを言えば大衆から人気が出て金にもなりますから もはや誰にもどうにもならずに ずっと無責任な話をし続けることになる
これって 実はプーチンなどの腐敗独裁体制が出来上がるメカニズムと同じなんですね
日本大学の中では 田中英寿理事長やその幹部達に同調迎合忖度服従しておいた方が 理事長側も 服従している側にもメリットがありますから 誰にも止められなくなって暴走的に組織腐敗が進行することになる
権力者のワガママが通る組織体制が一度出来てしまうと 独裁者はワガママに対する歯止めがかからなくなり 破綻するまで暴走的に組織腐敗は進行することになる
「組織は頭から腐る」なんて言ってた人がいましたが これは嘘で 組織腐敗というものは 組織が腐敗しているのに組織を構成している大多数の服従者によっても組織腐敗が進行する原因となっている
ヒトラー1人が悪いんじゃなくて ヒトラー体制に迎合同調忖度服従している組織の多数によってナチスは作られたんですよ
「頭」だけに責任をなすりつけておけば自分達が無罪だと思っていること自体がとんでもない大嘘であり はぐらかしに過ぎない
生物学界や哲学界における論理的根拠のない非科学的デマが蔓延しているのに対して 私は今まで幾つも指摘批判してきましたが いくら説明しても生物学界や哲学界のデマが全然なくならないのは 多くのヒトが自分の主観的印象だけで判断していて 論理的には何も理解していないためです
遺伝的進化というものは 決して全てが成功する保証がないものであり 断じて都合良く進化が促されるものでもありませんが 大衆マスコミの大半 実際にはほぼ全員が何も理解しておらず 更科功のように「生きているだけでも立派」などという主観的感想までもが進化生物学の科学的論証であるかのように扱われている
タレントの千秋が 遠藤章造との間に子供をもうけたことに対して事後正当化の屁理屈を主張していたことがありましたが これは自分が既に選択した行動を正当化することによって あたかも自分が先天的に優秀な存在であるかのように錯覚して満足するための無意識な「エピソード記憶」に過ぎず 何の論理科学的根拠にもなりません
それでもなを ヒトは自分が先天的に優秀な存在で 自分が主観的に思ったり感じたりしたことの全ては常に正しいものであるという自己過信に溺れようとする先天的習性があるために 山極寿一が言うような「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという 実際には何の論理的根拠もないデマに衆愚人気が集まるようになる
衆愚やマスコミの多数決や人気は 別に科学的論拠にはなりません
リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」などというファンタジー妄想に衆愚人気が長年あるのも 科学的論拠が伴っているわけではなく ただ読んだヒトが気分的に安心満足感を得られるから多数人気があるだけであって 仲間内での利他的行動をいくら抽出してきても仲間以外への差別排除や暴力性の反証には全くならないのです
イヌって ヒトを差別するんですね
弘中彩香アナも子供の頃の体験で話してました
イヌには本能としての「社会性」がありますから 統率的協調性を発揮するための本能として 「上」と見なした相手に盲目的に服従し 同時に「下」と見なした相手には暴力的に服従を強要する
イヌというのは平等が大嫌いなんですよ
こうした習性はヒトにもあって ナチス政権下のドイツ人は「自分達ゲルマン民族は先天的に優秀だ」という観念に基づき ユダヤ人を差別迫害することで優越感に溺れて安心満足できることで ナチス政権という腐敗組織の暴走に同調した
「怖い権威に逆らうことで損をすること」を バカは「バカだ」と主観的に思うわけです
バカが主観的に「思って」いることが 本当に「バカ」であることの論拠にはなりません
暴力的独裁体制に逆らえば 左遷などの嫌がらせをされたり 場合によっては殺されたりしますから 自分が利己的に「生きるため」には独裁体制組織に迎合同調忖度服従しておくことの方が「賢い」ことになってしまう
「権威に逆らうなんて 損をするし バカだ」と 主観的には「思う」わけです
だから誰も権威を疑いもしなければ 批判も全く理解しようともしなくなる
そうやって組織腐敗は傍観放置されることになる
権威などの「上」が大好きで その反対として権威を批判する者を「下」とみなして耳を貸さなくなる そういう思考のバイアスが先天的に組み込まれているために ヒトは簡単に腐敗組織に迎合同調忖度服従し 何の疑問も持たなくなる
主観的に「好き」で安心満足感が得られる相手には何の疑問も持たず その主観的に「好き」な権威肩書を持った相手に対する批判に対しては 観念的嫌悪感だけで「バカだ」とか「変人」といったレッテルを貼り付け 一切内容も理解していないのに無視する
だからヒトは洗脳されることになる
洗脳状態であれば それは安心で満足ですよ 安心満足こそが洗脳の原因ですからね
多数が信じ込んでいる相手を一緒になって信じていれば そりゃ安心満足でしょうよ
しかし その「多数」というものは 権威肩書の主張に論理客観的根拠や証拠が伴っていることの保証には全くならない
カール:ライムンド:ポパーの言う「白いスワン」の喩えですよ
ポパーは一説によればイマヌエル:カントを評価していたらしいですが ポパーとてヒトですから間違えることもあるんでしょうよ
ポパーが評価していたとしても カントの主張には論理客観的根拠が伴っておらず ただの勝手な決めつけによる妄想ファンタジーに過ぎないことは 論理客観的に「考え」れば誰でもわかる話です
「考え」なきゃわかりませんよ なにせ100年以上も誰も疑ったことのない話ですから 主観的印象としては安心満足感があるからこそ 100年以上も誰も疑わずに 論理客観的根拠に基づいた「真理」だと錯覚していた
「大多数が間違えるわけがない」と「思って」いるかも知れませんけど 「数」は論拠にはなりません
天動説が信じ込まれていた時代には 地動説は「火炙り」にされたんですよ
錬金錬成術だって科学だと錯覚していたし 宇宙というものは永劫に不変なものだと「思われて」いた
遺伝的進化についても 衆愚マスコミの大多数は進化さえすれば何でも解決するものだと錯覚していて 「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などという優生思想に基づいたトンチンカンな話に誰も疑問を持たない
進化さえ起きればウイルスだって全部弱毒化するものだと錯覚している
そりゃアナウサギに対するミクソーマウイルスみたいに当初95%も死滅すれば弱毒株への収斂が起きてもおかしくはないですけどね
そんなんヒトで起きたら地獄ですよ マリウポリどころじゃない
エボラでも弱毒化は起きてますけど 充分地獄ですよ
そもそも遺伝的進化が生ずるためには 環境に適さない変異個体の全てが死滅(殺害)するなり断種するなりの淘汰圧力が必要であって 淘汰圧力さえ働ければ数世代でも「品種改良」という進化は起きうるものでもあるのです
実際に家畜やペットや農作物は出来ていますから ヒトでも可能ではありますよ だとしたら進化(品種改良)で「月経の痛みがなくなる」ように断種政策でもかましますか?
そういう無知こそがフランシス:ゴルトンの優生学に対する論理反証を130年以上も誰も指摘してこなかった原因でもあるのです
遺伝的進化に頼って先天性の色素性乾皮症を撲滅するというのであれば 断種すれば良いだけのことですよ そんな話を信じているから「頭おかしい」と言っているんですよ
ヒトという種の生物は 先天的に平等が嫌いで 自分の頭で物事を論理客観的に考え 真実がどこにあるのかを見極められないバカだからこそ 科学や哲学の考え方が必要なのであって 生物学や哲学がこれをできておらず 荒唐無稽なデマや嘘や大間違いが蔓延したまま マスコミ衆愚が肩書権威を鵜呑みにしているから 誤謬(間違い)が全く訂正周知されない
それが原因で安全保障など社会安全性のための抜本的対策が遅れたとしても それは私の責任ではありませんよ
ロシアだってゴルバチョフ時代には政権透明性が確保され 独裁にはならなかったでしょ 地政学リスクなんてのは為政者次第でどうにでも変わるものであって 「ヒト」の先天的危険性を理解しないことには安全保障もスッタクレもあったもんじゃぁありませんよ
たとえプーチンを暗殺しても 独裁腐敗体制が作り出される根源的原因を理解していなければ 何度でも独裁政権は繰り返しますよ
それは通り魔死刑にしても通り魔事件がなくならないのと同じ構図です
罰を与えて安心満足するだけで論理客観的な根本的原因究明や再発防止までやらないと あらゆる「人災」は繰り返すことになるのです
「それでも良い」と言うのであれば オラ知らん
とてもじゃないが面倒看切れないっす
Ende;