さらさらきらきら

薩摩半島南端、指宿の自然と生活

テレビのない生活

2011-12-26 12:03:58 | 指宿暮らし

西側から見た指宿市郊外。我が家は右端あたり。海の向こうは大隅半島。

指宿に引っ越してみるとテレビが映らなかった。何でも我が家のあたりは北に魚見岳が鯨のように横たわっていて鹿児島市方面からの電波をさえぎっているのだそうだ。前の住人は高いポールを立て、しかもブースターなど使っていたようだが、引越しのドサクサの中で必要な機器を紛失してしまったらしい。離島から都会に引っ越してきたのに、テレビに関しては逆に難民になってしまった。

しかしテレビのない生活というのは、別にどうということもなかった。今まで、あったから何気なくつけてしまっていたが、ニュースを見るくらいで特に見たい番組があったわけではない。それどころか何でこんな番組ばかりなのだろうと腹立たしく思っていたから、なくなってせいせいしたくらいだ。

本当によくまあどこも同じようなものばかり流しているなとあきれていた。芸能人とかが大勢出てきてきゃあきゃあ騒いでいる。私も自ら酔っ払って騒ぐならこういうことも楽しいかもしれないとは思う。しかししらふで他人の狂態など見られたものではない。また歌謡番組など最近のものは雑音にしか聞こえないものが多い。では昔好きだった歌はというと、今になってみるといやに惨めったらしかったり気取りすぎであったり、多くがもう聞くに堪えない。しかもそれらの歌手はだいたい私と近い年代だから今さらとても正視に耐えられるような姿かたちではないのに、それを大写しにされてもう哀れなくらいだ。またスポーツなど、その裏の社会事情や選手の人間的実態などいろいろ知ってきてしまったから、少年の頃のように純粋な気持ちで感動するなどもうできない。ドラマなども、やはりそれなりに世間を知ってきているから、そのわざとらしさや浅はかさが鼻に付いてしまったりする。

私がそれでも楽しんでいたのはほとんど教養番組だった。特にNHKには優れた科学番組がそれなりにあった。あるいは紀行ものやドキュメンタリーにも感動的なものが時々あった。それらを見られなくなったのは確かに残念だった。しかしどうしてもテレビでなければということはない。もともとそれらは読書によってまかなわれていたのだし、今はネットの中にたいていのものはある。それどころかニュースなど、本当のこと、より深いことなど、もともとネットの中でしか見つからない。そして幸いなことに町に来て光回線になったおかげで、ネットが縦横無尽に使えるようになった。

ところで知りたいのに得られない情報があった。地元の身近なこまごましたこと。大都会なら多くの組織や企業、商店などが自分のサイトを持っているし、またそれなりの人々がブログなどでいろいろな情報を発信している。しかしここ指宿はITリテラシーに関してはかなりの田舎町であった。結局地元の新聞を購読するしかなかった。それでは情報量はまったく不足だがかけがえのないものだ。今、新聞は斜陽産業と言われているが、地元密着ならまだまだ需要はあると思う。

さて、世の中の動きの速報としてはラジオで朝晩のニュースを聞くことにした。これは意外に良かった。何か準備や片付けをしたり食事中など、テレビのように邪魔にはならず聞き流していられる。気になる言葉を耳に留めて、詳細は後でネットで調べればよい。中にはラジオならではの面白いこともあった。たとえば相撲の力士名など、今まで漢字で見ていたものが、へえ、そう読むのかととても新鮮に感じた。ともかくこうしてたぶん半世紀ぶりくらいにラジオを聞く生活に戻ったのだ。

少し残念なこともあった。何かとうるさいのだ。話と話の間にジャンジャンと音が入ったりする。こんなことは昔はなかったのではないか。変化を付けているつもりだろうがよけいなお世話だ。静かに語ってくれるだけで十分なのにと思う。特に時の話題などの番組では必ず合間に音楽が入る。それが結構騒々しい。それが歌の場合、これは聞きたくもないものが多い。だいたい音楽には嗜好性が強い。客観的な報道には似合わない。音しかないということでいろいろ楽しめるように努力しているのだろうが、こちらは情報だけが欲しいのだ。音楽は各分野ごとそれぞれ専用の番組でやって欲しい。結局ニュースが終わればそそくさと消すしかなかった。

こうして2ヶ月ほど過ぎたこの12月、魚見岳の頂上にテレビの中継局が開局することになり試験放送が始まった。しかしアンテナや配線工事のためにそれなりの金額が必要になる。我が家の利用度からすれば割に合わない。それでもこの前の大地震や津波の時のようにテレビに釘付けになることもあるだろう。ところで中継局は我が家から見え、距離も1.5kmほどしかない。これなら室内アンテナで可能ではないか。そのくらいの投資ならと試しに数千円ほどのものを買って付けてみた。結果は民放1局だけがしっかり入り、NHKを含めそれ以外は全滅だった。問い合わせてみたら中継局といえども出力はずいぶん微弱なのだそうだ。しかしニュースなどどこも同じようなものだから私にとってはこれで十分だ。今はラジオが聞くに堪えない時など、たまにちょっとだけテレビをつけたりしている。それはまた、当地ではラジオもやはり山陰のためかNHK第一がかろうじて入るだけという事情もある。

ふと気になったのはNHKが受信料を払えといってくるかなということだ。今は難視聴区域ということで解約になっている。しかしその状態は解消した。以前NHKから、見る見ないに関係なくテレビを持っているなら受信料は払わなければならないと法律で決まっていると言われたことがある。つまりアンテナを立てるのは住民の義務ということのようだ。気持ちの上では納得できそうにない。

と言っても私は受信料は不要と思っているのではない。営利とは無関係かつ時の政府と独立した報道の重要性は言うまでもない。受信料というのは、国家に納める税金とは別の、民主主義を守るためのもう一つの税金のようなものだ。だから確かドイツだったと思うが、テレビのあるなしに係わらず全国民に払う義務があるとするのが本来のあるべき姿だと思う。

しかしそのためには国民が誇りに思う放送でなければならない。自分が見る見ないに係わらず、日本に厳正中立で格調高い放送があることを誇りに思うというのでなければならない。残念ながら今のNHKはそれからほど遠い。そもそも公共放送になぜ娯楽番組など必要なのか。そんなものは金を取らなくとも民放が提供している。大晦日の紅白などさんざん騒ぎ立て、あろうことかニュースの中においてまで宣伝し、そうやって国民を洗脳して視聴率を上げている。国民の総白痴化を率先して推進しているようなものだ。

ドラマなども作る必要はない。NHKに求められるのは、視聴率を稼げないため民放ではまかないきれないが、日本のためさらには世界のためになくてはならないような番組だろう。科学、芸術、紀行や地理歴史など、そういった教養番組は今でもNHKは得意だ。ニュースにおいてはただ冷静に広く深く細かく事実の報道に徹してもらいたい。

NHKの解説者など要らない。だいたい今度の原発事故で、彼らは口をそろえてメルトダウンはない、放射能は危険レベルではないと言っていた。後になってそれらはすべて嘘であったことが明白になった。それどころか原発に関しては何十年も国民を騙し続けてきたことも明らかになった。しかし彼らが間違いましたと陳謝したことなど一度もない。まあこれらは日本中の関係者、権威者のほとんどが嘘をついてきたのだから仕方ないという人がいるかもしれない。しかしその間、抑圧され不当な扱いを受けながらもずっと本当のことを言い続けてきた一部の人たちがいたのだ。真の報道というのはそうした声を拾い上げることだろう。ニュース解説においては専門家を呼ぶべきだ。それも一人でなく意見の異なる人を二人以上。そしてそれぞれの立場から解説してもらい、違いがあればその場で議論する。NHKはお膳立てと司会に徹する。無理に結論は求めない。冷静に議論してもらって、どちらが正しいかは見る側が判断する。

専門家は自説を主張できる場が提供されれば手弁当ででも駆けつける。もはや有名人や芸能人などに高額なギャラを払う必要など無い。人員もかなり削減できるはずだし、受信料は10分の1にも下げられるだろう。このような放送を維持するということなら、それくらいの金は全国民が喜んで払うはずだ。