さらさらきらきら

薩摩半島南端、指宿の自然と生活

維新の会への期待

2012-02-25 12:34:15 | 世の中のこと

薩摩半島南端、竹山と伏目海岸(本文とは関係ありません)。

橋下徹大阪市長の「船中八策」が話題になっている。ではどんなものか読んでみたいと思って大阪維新の会のサイトを覗いたのだがどこにも載っていない。Googleで探してみてもどうにも見つからない。これはいったいどうしたことだろう。広く国民に見てもらって議論を喚起するつもりはないのだろうか。またさまざま批評している人たちは原典に当らないで勝手なことを言っているのだろうか。ともかく私もそれぞれ色の付いた各種報道で判断するしかないようだ。

さてそれらを読んで、私の感想は一言「なあんだ」というものだった。しかしそれは馬鹿にしたとか失望したとかいうのでは全くない。仰々しく船中八策など言っているけれど、内容は極めて常識的なことばかりではないかということだ。首相公選制にしたって議会の縮小にしたって、民主党・自民党を問わず若手の論客や、また多くの識者など以前からほぼ同様のことを言っている。社会経済や外交政策なども極めて現実路線なのだ。橋下徹という人について、いろいろ面白おかしく報道されていて、また国歌起立条例などごり押ししているそうで、かなりエキセントリックな人間だと私は感じていたがどうもそれは誤解だったようだ。これで見る限り無責任な夢想家あるいは狂信者などではなく、極めて現実的・実務的人間であるようだ。そして当たり前のことを堂々と主張する姿は今の多くの政治家の中では賞賛に値すると思う。

今や日本の政治経済社会すべて根本的に変えなければならないというのは国民の共通認識だろう。前回の総選挙でも民主党はあたかもそれを速やかに実現できる手品があるようなことを言いふらしたものだった。しかし船中八策にはそんな甘い話などどこにもない。当たり前のことを一つ一つしっかりやっていくしかないという当然のことが示されていた。

そもそも人の世は、制度や仕組みが良ければすべてうまく行くというのでは全くない。今の日本の体制であっても、もし国民の多くが理知的であり、また政治家や役人などが有能かつ清廉潔白であったなら全く問題なく機能し、すばらしい国になっていたことだろう。逆に人々が変わらなければ、どんな立派な制度仕組みを作ってもまずうまく行かないだろう。だから理想論など振り回しても仕方なく、我々は常に現実を見据えて、この国民のレベルであっても、少しでもうまく国が回るよう制度仕組みをいじくり続けていくしかないのだ。その変えていく力や方向感覚を、維新の会は既存のどの政党よりも持っていると思う。

ただ私は目玉の一つである道州制については疑問を持っている。地方の自主自立など言えるのは東京、名古屋、大阪くらいだろう。今やほとんどの地域は人口減少・産業衰退に苦しんでいて、すでにとても自立できる状況にない。道州制は大都市圏と地方との格差拡大につながりかねない。そもそも日本一国で米国の大きな州一つくらいの大きさしかないのだ。人口もあと50年かそこらで半減するといわれている。残った人々は大都市圏に集まり、国土のほとんどはスカスカになってしまっていることだろう。こんなものを分割しても仕方ないだろう。また道州制にしたらこの流れを食い止められるなどもありそうにない。それより私は地方自治が県と市町村の2段階になっているのが無駄だと思っている。経済的文化的にちょうど良いくらいにまとめ直して、国と地方の二つだけにして効率化を図るべきではないか。

翻って国民は強い大阪など求めていない。国民は強い日本、それを率いる強力なリーダーを求めている。橋下徹氏は今やそれに応えるべきだろう。もう日本は待ったなしなのだ。大阪都構想など一つの踏み台であって、もはや次の段階に、国家再生に専念しなければならなくなったと公言するべきだ。国民は独裁を懸念するか。いや今の日本は独裁が必要な時なのだ。このような危機を乗り越えるためには民主主義という名目の無責任体制でなく、一つの人格がすべての責任を負うことが必要なのだ。太平洋戦争時、どこにも独裁者がいなかったことがあそこまで悲惨な結果を招いたと思う。東条英機など独裁者とは名ばかりで、実際は誰にも相手にされず陸軍・海軍を始めそれぞれが勝手なことをしていたのだそうだ。またもし天皇が決定的瞬間に独裁権力を振るっていたら、きっと開戦にはならず、あるいは戦争は避けられなかったとしてももっと早く敗戦を受け入れ、原爆投下などなかったことだろう。ヒットラーなど持ち出す人がいるが、今はあのロシアのプーチンですら反政府デモに手を焼いているくらいだ。この日本でなら独裁者といえども高が知れている。

さて改めて現実を眺めると、今や日本が直面している危機というのは筆舌に尽くし難い。幸い過去の遺産がかなりあるため何とか社会はまだ平穏を保っている。しかしいつどんな破局が来るか国民みんなが固唾を呑んで見守っている状況だ。ともかくこうした無数ともいえる問題に対処しようとする時、それらがばらばらにならないよう、我々はこの国をどうしたいか、どういう国を目指すのか、その将来像を描いておく必要がある。もはや高度成長の経済大国など夢見る人はいないだろう。そもそも人口減少と高齢化で、作る人も買う人もいなくなりつつあるのだ。老成した成熟国家の道しか見えてこない。ではその中で人々が幸せに暮らすためにはどうしたらよいか。

これについて鍵となる項目が船中八策にはあった。ベーシック・インカムに言及していたのだ。ベーシック・インカム(BI)は最低生活保障と訳され、誰もが最低限の生活はできるよう全国民に分け隔てなく一定のお金を給付する制度だ。これは最大の福祉を実現すると共に、極めて単純な仕組みのために最小の国家をも実現可能にする。政治的には右派も左派も論客はこぞって究極の姿と認めている。それなのに政策として取り上げた政党は今までなかった。それはあまりの実現困難さのためだと思うが、それにもかかわらずあえて取り組むと宣言したこと、それだけでも私は維新の会を賞賛したい。

BIに対する最大の反論は、それでは人々は働かなくなり毎日ぶらぶらするばかりだというものだ。しかしそれを言うなら、そもそも生活保護など廃止するべきだ。そうしても本当に餓死する人は少ないだろう。ほとんどは飢えに追われて恥も外聞もなく奴隷のように働き、何とか死なずに生きていくだろう。しかし我々はそういう社会を望むか。過去、人は確かにまず食いっぱぐれないために働いてきた。では働く動機は飢えの恐怖だけだろうか。いやもっと人間的な動機、仲間意識や自己実現の欲求などもあったはずだ。飢えから解放されたら、そうした崇高とでもいった人間性が開花するのではないか。もちろんこれは人生観のようなものだから人に強制することはできないが、多くの人がたとえ自覚はしていなくても心の底ではそうした認識を持っているはずだ。そうでなければ福祉国家のよりどころは憐憫だけということになってしまう。

さてBIによって個人の幸福度向上は間違いないとして、では国や社会はどう変るだろうか。何とこの悪くなる一方で未来に暗闇しか見えないような世の中が、一転良い方向に回りだすことが期待できるのだ。たとえば出生率は向上するだろう。将来の不安がないし、そもそも子供を作れば収入が増えるのだから。お金の心配がなければ農漁業などすばらしい仕事と考える若者が増えるだろう。物質的には最低限の生活でよいからと自分のやりたいことに専念する人が増えて、さまざまな文化が栄えるだろう。それは国として総合的な強みになる。さらに過剰な貯蓄などする必要がないからお金が出回って経済は活性化するだろう。企業も、従業員は生活保障されているから人件費にまつわる苦労が減って、多くの人を雇ったりまた減らしたりすることも容易になる。面白い職場ならいつか利益が出るまではと無給で働く人も出てくるだろう。そうして起業する人が増え経済活動の裾野が広がる。大量生産・価格競争にはそぐわないけれども、付加価値の高い個性的商品があふれることだろう。

では全国民に配るお金の原資はどうするか。社会保障に絡む醜悪に肥大化した様々な仕組みや要員は一掃できるが、それだけでは足りない。消費税増税は避けられない。いやそもそも消費税こそ最も公平で取りこぼしもなく経費も少なく、税制の中心にするべきものなのだ。ところで消費税は逆累進性をよく叩かれる。しかし最低生活保障には何ら問題ない。消費税率がいくら上がっても、それを折り込んだ支給額になるのだから。さらに今や商品はピンからキリまである。同じ実用価値のものでも価格は何十倍も違ったりする。自分に合ったレベルの物を買えば消費税率が高くても絶対額はたいしたことにならない。そして生活保護にまつわる惨めさ卑屈さがなくなり、物質的最低生活を恥ずかしく思うことなく胸を張って自己実現に励む人が増えると、そういう層向けの低価格物資の流通がさらに盛んになることだろう。

不安もなく、自由で、好きなことができる。本人次第で、物質的豊かさでも精神的豊かさでも追求できる。このような国に住みたいと思わないか。BIは決して夢物語ではない。すでにいくつもの試算があり実現可能との結果が出ている。ただ一部の人たちには不利益になることもあり、それを回避しようとするととんでもなく時間がかかる。もし今恵まれている人たちが既得権を放棄してくれさえすれば速やかに実現できるだろう。自分だけ良い思いをしようとしても社会全体がおかしくなったら元も子もないと気が付くべきなのだ。ともかくBIの実現には一時的にかなりの政治的独裁が必要となるだろう。そうしたことも含めて、維新の会には具体的な実現への道筋を明確にされることを期待する。