公園で商業主義について考える

 本日、自転車散歩中に訪れた公園ではマットを敷いて手製のバッグや似顔絵を売る人があり、さまざまな楽器で演奏を楽しむ人々あり、犬の散歩を楽しむ人あり、ボートに乗って語らう人々ありと、「美しい日曜の午後」が繰り広げられていました。

 そんな中で、耳に届くひときわ澄んだ歌声。技術的なことはわからないけれど、明らかに他の演奏者よりも聞かせる力をもった音が響いてきました。
 自転車を止め、遠巻きに彼女の演奏に耳を傾けていると、
「○山×子でぇす。アルバム発売中ですので、よろしくお願いしまぁす」と、愛想の良い男性がきれいに印刷されたチラシを手渡してくれました。

「……なんだプロかよ!!」と、何だか脱力。

 でも、なんで私はそんなにガックリしたのでしょう? それが自分でもわかりません。特別、音楽好きでもない私が足を止めて聞き入るほどなので、彼女の音楽はまさに私好みのものなはず。しかも私は、お金を払うことなくその歌声に身を預けることができる状況でした。

 なのに、その状況を「ラッキー」と思うことなくガックリしてしまう。おそらく、日曜の公園でまで展開される商業主義に私は嫌悪感を覚えたのですが、商業主義とはそんなにひどいものなのでしょうか? チラシを配って、広告活動をすることがそんなにいけないことなのか、私にはその理屈が分からないです。

 プロ野球、オリンピック、Jリーグ、その他いろいろ。スポーツ界ももはや商業主義抜きに語ることは不可能ですし、私はいたずらに商業主義に対して排他的になることは、スポーツ界のためにならないと考えています。
 しかしその一方で、今日の公園でチラシに嫌悪感を覚えた私もいます。商業主義とはいかなるものであり、それはどのように展開されることが理想的なのか。

 まだまだ、考えなくてはならないことがたくさんです。
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コメント
 
 
 
芸術の世界はもっと (なごやん)
2004-06-21 06:55:33
表向きは『勝ち負け』の無い、音楽を含めたエンタテイメントの世界での商業主義は、スポーツよりはるかに虚実のギャップが激しいですよね。



もちろん全部ではないですが、「こうしたらこういう風に人を感動させられる」という露骨なマーケティングの仕掛けだらけのエンタテイメントが氾濫しています。ステージで『感極まって倒れる練習』を毎回している歌手もいます。本当はストリートライブなんかする必要もやりたくも無いのに、話題づくりのためにだけやっているアーティストだっています。



ただただ清貧に甘んずること(スポーツで言えば過激なアマチュアリズム)が正しく美しいとは思いませんし、いいエンタテイメントと悪いエンタテイメントを判別する眼を養って実行すればいいだけのことです。ただ、あの世界には金儲けに対して非常にえげつなく、倫理観を持たない人々や構造がとても多く存在することは事実です。



これに比べたらスポーツの世界の商業主義はまだまだ曖昧なものなんじゃないかと思えてしまいます。「こういう風にショットを打てばお客さんはもっと感動する」みたいなことばかり考えながらプレーするプロスポーツ選手は圧倒的に少ないでしょう(WWEなどは開けっぴろげに完全にエンタテイメントに徹しているのである意味嘘は無いですが)。



逆に言うと、本質をきちんとわきまえて守るべきポイントさえ外さなければ、スポーツと商業主義の共存共栄は、まだハードルが低いように思います。
 
 
 
なるほど (spo-taka)
2004-06-22 03:19:43
 なるほど

 音楽は芸能としての伝統にあふれた世界ですもんね。売れるための策も豊富にもっているのですね。



 たしかに良い(と感じる)エンタテイメントには、お金を出すのは平気ですし、宣伝されていても納得できることは多いですね。

 宣伝に対して、どんな際にカチンとくるのか、自分で自分のこともわからなくなってきます。



 その点、勝ちを求める競技者は観客アピールの優先順位は低くなりますよね。でも、客は喜ばせなくてはならない…。プレーの質と商業主義がどのように結びつくと良いのかも答えがない。



 でも、なごやんさんのおかげで、少し整理されたような気もします。ありがとうございました。

 
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