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そよかぜノート

読書と詩の記録

ヨースケくん

2007年10月14日 | book 児童書 絵本

那須正幹(なすまさもと)広島県
ポプラ社 1000円
1998年初版 

 『ヨースケくん』 2007.10.8

授業中、トイレにいきたくなったら・・・
つい、カンニングしてしまったら・・・
お父さんがリストラされたら・・・
マラソン大会でびりになったら・・・
小学生が生きていくのは、
けっこうたいへんなんです。
日々、てつがくする小学生、
ヨースケくんの物語。


ヨースケくんは桂町小学校の五年生。組替えがあって、また倉橋くんと同じクラス。そして担任の先生は新しくかわってきた桑原俊子先生。転校生も2人。一人は外山くん、もう一人はヨースケくんのとなりにすわった町田さん。ごくありふれた小学生の生活の中で、小学生なりにヨースケくんが関わり考えてきたこと。流れる川を見ていたら自分が動いていた。夏休み、ヨースケくんの田舎は東京だった。夏休みが終わって、病気になったヨースケくん。なかなか熱が下がらない。お父さんのリストラ、不機嫌なお父さん。家族でハイキングだって。紅茶を飲んで一家心中するんじゃないかと心配。ヨースケくんの秘密は、トイレに行って大便をするとき、ズボンもパンツも全部ぬがなければできないこと。午後の授業まで絶えたのにもうがまんできない。保健室に行くと先生に言ったら、保健委員の熊田さんがついてきた。どうしよう。最近近所で火事が多い。昔ながらの夜回りが始まった。ヨースケくんもお父さんと参加。マラソン大会、走るのは苦手なヨースケくん。ゴール直前、心臓が爆発しそう。そのとき耳にした言葉は、「がんばらなくていいよ」だった。気持ちが楽になったヨースケくんは、手を振ってゴール。

 気になっていた本だった。何年も前から読みたかった本。探していた本を目にすることができた。大きな事件があるわけじゃない。特別なことはないのに、なんだかあったかくなる作品だった。自分もそうかな、と思うと、ヨースケくんが自分のとなりにいるような、自分がヨースケくんであるかのような気持ちになれる。時を越えなくても、大事件が起こらなくても、冒険しなくても、毎日の生活の中にドラマがある。だれもが体験する出来事の中に、発見はある。それを見逃すかこともあれば、「そうだよね」って感じて考えることもある。ついつい刺激を求めてしまうけど、心の落ち着きは毎日の当たり前の生活の中にあって、それを拾い上げることで、さわやかなリズムが生まれるんじゃないのかな。
「がんばらなくてもいいんだよ」って、言ってくれたら心が軽くなる。倉田くんや熊田さん、外山くん、なんだかんだと言っても、友達なんだよね。大袈裟な言い方かもしれないけど、助けられているんだよね。あんな時代があった。あんな純粋な気持ちでいられた時代があったんだよね。


弟の戦争

2007年09月17日 | book 児童書 絵本
ロバート・ウェストール  訳/原田勝
徳間書店 1200円
1995年初版 1991年作品

 『弟の戦争』 (Gulf)  2007.9.17

イギリスの普通の家族。ぼくは弟が生まれたとき本当に喜んだ。弟アンディをぼくはフィギスと呼んだ。フィギスは心の優しい子で、飼っていた動物や飢えた難民の子供の写真を見ると、取り憑かれたようにずっと眺めていた。
フィギス12歳、湾岸戦争が始まった夏。突然夜中に起きあがり、外国の言葉を発したり、怯えた表情で奇怪な行動をとるようになった。弟はラティーフと名乗り、まるで別の世界の人物のようにふるまった。心配した両親は、フィギスを精神病院に入院させた。医師のラシード先生は、フィギスが話す言葉がアラビア語であると知り、知り合いの医師に通訳を頼んだ。すると、それはまさに今行われている湾岸戦争のイラク、クエートの様子であった。戦場と化したその場にラティーフはいた。フィギスの心と一体化していた。

 テレビでみた湾岸戦争のニュースは、まるでゲームの世界のように、カッコよくある意味楽しんで見た。現実の戦争というものが、まるで映画の一場面のように遠いスクリーンの映像のように見えた。そして、「正しい側」「正しくない側」とはっきり線引きされた。きっと意図的に、そう見せられたのだろう。私もだれもが、すぐに暗示にかかった。でも、フィギスはちがった。戦争は、どちらの側もひどい悲しみが生まれることを自分の体をもって知らせてくれた。「正しくないとされた側」の人間には悲しみがあるなどと思わなかった。それは見えなくなっていた。アメリカの多国籍軍もイラクの兵士も人々も、だれもが怖い思いをしていた。家族に悲しい思いをさせていた。ただの殺し合いだということが忘れられていた。だれもが愛する家族や愛する人々がいる。フィギスに、相手の立場を思うことを教えられた。殺してもいい人間なんていないんだ、ということも。

木かげの家の人たち

2007年09月15日 | book 児童書 絵本
いぬいとみこ
福音館 1600円
1967年初版 1961年作品

 『木かげの家の人たち』 2007.9.8

大正2年、森山家の2階の書庫に小人たちがやってきた。横浜から帰国する英語の先生、ミス・マクラクランという人から、達也は小人たちが入っているバスケットを受け取った。毎日欠かさず、青いカップにミルクを入れて、小人たちのところに運ぶこと。それが約束だった。達也は、一日も欠かすことなくミルクを運んだ。この仕事は、達夫から透子に、透子は達也の妻となり、その子どものゆりへと受け継がれていった。そして、昭和に入り、日本が戦争への道を走り始めて、その影響が小人たちにも降り注ぎ始めた。達也は英文の研究をしているいところから、非国民としてつかまり投獄された。戦況が厳しくなり、森山家も食べ物が乏しくなっていった。しかし、時には薄い粉ミルクの時もあったが、ミルクを毎日小人たちに運ぶことは欠かさなかった。ゆりは、小人たちと長野県野尻に疎開することになった。そこでの生活は厳しく、ミルクはなかなか手に入らず、持ってきたミルクを少しずつ小人たちに運んだ。あるとき、ゆりは病気になり、疎開先の叔母はゆりが持ってきた小人用にミルクを飲ませた。そしてとうとうミルクがなくなり、小人たちはそこから出ていかなければいけなくなった。小人たちを救ったのは、アマネジャキだった。元気になったゆりは、毎日青いカップにミルクを入れて、いなくなった小人たちを待った。

 ファンタジーの世界の話かと思ったら、戦争時代の苦しい物語だった。人間が起こした戦争に小人たちも巻き込まれていった。ときに、自分たちでドングリを取ってこっるのだから、ミルクがなくても・・・と思ったが、なんだか自然界の掟のような気がして、こんなことさえ守ることができない世の中は荒れ果てているんだよと、言われているみたいだった。でも、小人たちとゆりの世界は別々。つながりはミルクだけ。触れ合いも会話もない。小人たちって、人間として守るべき心なのかもしれないな。人として自分の身の回りのことを考え、他人を大事にする心を言っているのかも。そしてそれは本当はそれほど難しいわけではない。当たり前の生活で自然にできること。それができなくなる戦争の世の中はだれもがいやなんだ。小人たちを出すことで、まるで現代で起こっている出来事のように、戦争の悲惨さを感じさせてくれる。

シマが基地になった日

2007年08月22日 | book 児童書 絵本

真鍋和子
金の星社 1200円
1999年初版 1999年作品

 『シマが基地になった日』 2007.8.2

沖縄伊江島 二度目の戦争」
「ここは私たちの国 私たちの村 私たちの土地」

太平洋戦争中、日本で唯一、地上戦の場となった悲劇の地、沖縄。その沖縄に、ふたたび悪夢がおそいかかった。アメリカによる、土地取り上げである。大国を相手に。土地をまもる闘いを続けてきた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんと伊江島の人々の半世紀にわたる闘いの記録。

■1945年4月21日  
米軍が伊江島の占領を宣言する
■1945年5月18日  
生き残った村人2100人、米軍によって強制的に住む場所を奪われ移される。伊江村の推定調査では、村民1500~1600人、日本兵2000人が戦死。
■1945年6月23日 沖縄での戦闘が終わる。
■1947年3月28日 伊江村民全員が島に帰る。63%が軍用地となっていた。
■1953年7月19日 最初の土地取り上げ立ち退き。米空軍用射爆演習場建設のため。約78万5000坪。
■1955年3月14日 琉球政府に対する座り込み陳情を開始。
■1960年7月    「伊江島土地を守る会」結成
■1972年5月15日 沖縄が日本に復帰
■1984年      「ヌチドゥタカラの家」完成、開館
■1998年12月   映画「教えられなかった戦争・沖縄編-阿波根昌鴻・伊江島のたたかい-」完成

資料館入り口の壁に書かれている言葉

平和とは人間の生命を尊ぶことです。
この家には人間の生命を虫けらのように
そまつにした戦争の数々の遺品と、
二度とふたたび人間の生命がそまつに
されないために
生命を大切にした人々、また生命の尊さを求めてやまない人々のねがいもまた展示してあります。

命こそ宝
  生命の場から平和を-

阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)

1955年7月24日 伊江島での行進開始 非暴力 陳情口説(ちんじょうくどぅち)

はてなき世の中はあさましいことだ
腹の中から話しますから聞いてください
沖縄のみなさん 聞いてください

世界にとどろきわたるアメリカの
神のような人が わが土地を取って
うち使ってしまった

主席さま聞いてください
私ら百姓があなたの前に出て
お願いするのはただごとではありません

親ゆずりの土地があってこそ
命がつながっているのです
すぐさまわたしらの畑を取りかえしてください

陳情口説(ちんじょうくどぅち) 野里竹松/作

1984年完成資料館入り口の言葉

戦世(いくさゆ)んしまち みるく世(ゆ)ややがて 嘆くなよ臣下 命(ぬち)どう宝

戦争の世の中は終わった 平和な世がやってくる なげくなよ、おまえたち、命こそ宝なのだから

やすらぎの家のかべに書かれている言葉

福祉とは やすらぎをあたえることです
この家は、
お年よりも子どもも
からだの不自由な人もそうでない人も
お互いに生きがいを求め
ともに助け合い能力におうじて
生産につとめ、心づくりと体づくりのための
やすらぎの場としてつくられたものです

 私には知らないことが多すぎると思う。自分が同じ立場になってはじめて知るんだ。難病になったら、同じ苦しんでいる仲間がいることを知る。行政の厳しさを知る。人の心に潜む問題点を知る。ヒロシマだって、原爆のことも、被害のことも、ひとりひとりの思いにはひとりひとりちがった体験があり、語り尽くせないほど物語がある。そして知れば知るほど、自分が同じ体験をしているかのような気持ちになる。表面だけ、知ってるってのとは違う。もう知っているから終わりではないのだ。それは知っていないのと同じなのだ。沖縄が地上戦になったことは知っている。ヒロシマと同じように、きっとさまざまな体験があり、訴えや願いや叫びが限りなくたくさんあるのだと思う。今回、この本に出会ったことは幸せなことだと思う。自分の土地を取られ、その土地が一番大嫌いな戦争のために使われていることがどんなにつらいことか。そして、自分たちの生活の場が勝手に取られることがあっていいのか。戦国時代じゃあるまいし。先祖代々受け継がれた土地に対する思いはこれほどまでに強いのだ。それにしても、アメリカが沖縄でこんなことをしていることを、アメリカ国民は知っているのだろうか。きっと、世界各地の米軍基地でさまざまな問題があるはず。「非暴力とあいさつ」戦争を反対する気持ちがここにしっかり表れている。


おとなになれなかった弟たちに・・・

2007年08月01日 | book 児童書 絵本
米倉斉加年(よねくらまさかね)
偕成社 1000円
1983年初版 1983年作品

 『おとなになれなかった弟たちに・・・』 2007.8.1

母に---

ぼくの弟の名前は、ヒロユキといいます。

父は戦場に行った。母と祖母とぼくと妹と弟の5人で生活していた。弟は生まれたばかり。食べ物がなく、母親の乳の出が悪い。おもゆを飲ませたり、山羊の乳を遠くまで買いに行ったり、時々ある配給のミルクを飲ませたりしていた。ミルクは甘かった。ぼくは時々そのミルクを飲んでしまった。戦況が厳しくなって、僕たちは疎開することになった。親戚の家に行ったら、食べ物はないと追い返された。身も知らぬ田舎の家の6畳の部屋を借りることができた。弟は病気になって入院した。栄養失調だった。しばらくして弟は死んだ。小さな棺桶に入れられた。弟が死んだのは、1945年7月だった。あともう少しで戦争が終わったのに。

戦争がなかったら・・・戦争で犠牲になるのは兵隊だけではない。小さな子どもや年寄りや女性が、だれも守る人がいない中で死んでいく。「守る」とは敵から守るのではない。ましてや、特攻隊のように、君を守るために死にに行くなんて全然ちがう。生きることを許さない見えない敵から守るのだ。それは戦争を起こした人たち。戦争を進める人たち。でも、この時代は守ろうにも守ることができなかった。戦争はいやだと言ったら、生きたいと言ったら、悪いことだとされた時代。お腹がすいたということも言えない時代、お前達のために戦場でがんばっている兵隊さんに申し訳がない。本音は戦わないで生きてもどってきてほしいのに。
今のようにミルクはない。だれもがお腹をすかせている。人のことなど心配していられない。栄養失調で子どもが死んでいく時代なんて絶対あってはいけない。
戦争の悲惨さを考えていったら、必ず到達することこがある。それは、被害者としての悲惨さから加害者としての悲惨さだ。最近は加害者の怖さをその反省をなかったことにしようとしている人がいる。戦争の悲惨さを心から感じていない人だ。いつか、再び私利私欲のために戦争もよしと考えている人だ。

エリカ

2007年07月31日 | book 児童書 絵本

ルース・バンダー・ジー  訳/柳田邦男
精興社 1500円
2004年7月 初版

 『エリカ-奇跡のいのち』 2007.7.28

わたしが1944年に生まれたことは確かです。
でも、誕生日がいつであるのかはわかりません。
生まれたときにつけられた名まえもわかりません・・・


「Erika's  Story」

1995年 ドイツのローテンブルグ市、エリカに声をかけられた。私がエルサレムに行ってきたことを話すと、エリカはその町にどんなに行きたかったかを語った。彼女の首には、「ダビデの星」のペンダントがかけられていた。それはユダヤ民族であることの象徴だった。エリカが私に話してくれたこと、それがこの物語だった。

1945年 彼女はまだ1才かまだそこまでなってないかの赤ちゃんだった。両親とともに、収容所に向かう列車に押し込まれた。座ることもできないくらいぎゅうぎゅう詰めだった。何時間も列車は走った。ある村を通過したとき、列車のスピードが遅くなった。両親は、今だとばかりに貨車の天井近くにある小さな窓から、エリカを放り投げた。運良く草むらに転がり、運良く親切な人が見つけて育ててくれた。

お母さまは、じぶんは「死」にむかいながら、わたしを「生」にむかってなげたのです。

 どんなに極限状態でも「生」に向かって
つい最近、原爆の火をずっと保存していた人の番組を見た。こんなことをした人もいたのだと感動した。あの憎き原爆の火で、いつか敵をアメリカをやっつけてやるという気持ちから、平和を願うシンボルになった。
ユダヤ人虐殺の中にも、生に向けてのさまざまな人間の思いがあった。アンネの日記は有名だ。これもつい最近だが「ハンナのかばん」も知った。そしてこの「エリカ」だ。子どもを生かしたいという親の願いが奇跡を起こした。列車から放り投げること自体、生への可能性は低い。頭を打って死んでしまうかもしれない。でも、このまま収容所に着いてしまえば確実に殺されてしまう。少しでも生き残る可能性に賭けた母親の思いが通じたのだ。その赤ん坊を拾って育てた人もすごい。このお話自体は、残酷で悲惨な物語だけど、人間の強さと優しさもたくさん感じることができるのだ。殺し合うことの悲しさ、生き抜くことと助け合うことの素晴らしさ、人間として生きていくなら後者をたくさん経験したいものだ。


ふたりのイーダ

2007年07月30日 | book 児童書 絵本

松谷みよ子
講談社 
1995年8月 初版  1969年作品

 『ふたりのイーダ』 2007.7.28

「イナイ、イナイ、ドコニモ・・・・イナイ・・・。」
直樹とゆう子の兄妹は、おかあさんのいなかの町で、だれかをもとめてコトリ、コトリと歩きまわる小さな木の椅子にであい・・・。


直樹は4年生、ゆう子は2才。ゆう子は、「いーだ」とよく顔をしかめて言うので「イーダちゃん」と呼ばれていた。母が取材で九州に行くことになった。そこで二人は、母の実家の勝浦に預けられることになった。そこで、直樹は雑木林の中で、椅子がコトコト歩いて姿を見つけた。追いかけて行くと、そこには古い家があった。いつの間にかやってきたゆう子が椅子と楽しく遊んでいた。これはどういうことなのか。その家の柱にあった日めくりのカレンダーの数字は「6」・・椅子は、ゆう子のことを「イーダちゃんがもどってきた」と言った。しゃべって動く椅子。ゆう子は、椅子が言う昔死んだ女の子の生まれ変わりなんだろうか。その理由を調べようと仮病を使って留守番をしていたとき、様子を見にきてくれたりつ子さんが、その答えを見つける手伝いをしてくれる。

 何年か前に読んだことがある。改めて読んでみて、その奥深さを初めて感じた。以前は、何が言いたいのかわからなかった。読んだのが子どもの頃だったのか、成人して仕方なく読んだのか。いや、途中で読むのをやめたのかもしれない。児童向けだけど、中学生くらいでないと以前の私のように中途半端で終わってしまうかもしれない。
動く椅子、話す椅子、それが全然不思議に感じない。今は、物にも心を込めたり、いつもは話さないけど人と同じように見て感じて考えているのではないかと思えるようになったから。それは、物が必ず人の手に触れられるのだとわかるから。どんな物も、必ず人の心がそこにある。手作りの椅子なら尚更かも。それが人を求めて動いたっておかしくはない。
原爆が落とされたとき、きっと多くの人たちがヒロシマに入っていった。肉親や知人を求めて、瓦礫の街と化したヒロシマを歩いた。そしてその人たちの帰りを待っている人たちがうた。「真っ黒なお弁当」では、滋君を捜しにお母さんがヒロシマの町を歩いた。そのお母さんを五日市の町で待っている人たちがいた。同じように椅子は少女を待っていた。ヒロシマでどんなことがあったのか全く知らない椅子。現代を生きる私たちもその椅子と同じかもしれない。事実を知らない、感じていない。本当に心から過去の凄惨な現実に目を向けたとき、あの椅子のように崩れ落ちるかもしれない。今はまだ薄っぺらな感傷にしか浸っていない自分がここにいる。椅子はもうイーダを探すことはないだろうか。崩れた身体を本物のイーダに拾われ、直してもらい、そばに置かれているから。いや、原爆が投下され63年たった今も、椅子は探し続けている気がする。幸せであるはずのイーダを・・子どもたちを・・。


歩きだす夏

2007年07月28日 | book 児童書 絵本
今井恭子(広島県出身)
学研 1200円
2004年6月 初版 小川未明文学賞 大賞

 『歩きだす夏』 2007.7.27

とうとう夏休みがきた。わたしは、パパのいる北海道へと飛んだ。ところが----空港に出むかえていたのは、パパだけではなかった。パパによりそうようにして、若い女の人が立っていたのだ。「うそっ、うそでしょー!」わたし(加奈子)の小学校最後の夏休みは、最悪のスタートを切ることになった。

パパは発酵の研究をしていて、先輩に誘われ、札幌の会社の開発部門に移った。ママは陶芸の道に目覚め、パパと離婚して東京に残った。私はママと一緒に生活しているが、夏休みの三週間だけ札幌のパパのところに行く。ママの陶芸への道にも、パパの引き出しの中の花柄のハンカチにも、私は納得できない。悶々とした毎日を送っていた。パパもママも自分の好きなことをしてわがままなんだ。

 現代の物語の主流は「離婚」・・・その壁を乗り越える主人公たち。こんなにあっけらかんと離婚する人は、それほど憎悪や怒りを抱いていないし、それぞれがまっすぐな生き方を求めているからこその離婚であって、子どももいつか理解できる、というよりただ離れているだけのような感覚でいられる。でも、現実はもっとどろどろしているだろうなあ。ママはうらみつらみを子どもにぶちまげ、水商売の仕事で夜はいない。いつも酒のにおいをまきちらし、子どものことなんて無関心。子どもは非行に走り、暴走族から抜け出すぜ、夜の町を徘徊、現実か幻かわからないような生活、麻薬にそまり・・・・
自分で歩くことがどれだけ難しいことか。「好きな道」が、自分を生かす道であることを確信し歩くことができること、それが自立。ただ好きなことをするだけだったら、欲望に身をまかせたらいい。自分の判断で自分の道を歩き出す夏・・きっとさよ子さんのような寄り添う人が原動力になるのだと思う。自分から歩き出そうとするきっかけはやっぱり誰かなんだと思うなあ。さよ子さんで良かったね。

あきらめないこと、それが冒険だ

2007年07月25日 | book 児童書 絵本
野口健
学研 ヒューマン ノンフィクション 1200円
2006年6月初版  2006年作品

 『あきらめないこと、それが冒険だ』 2007.7.23

「エベレストに登るのも冒険、ゴミ拾いも冒険」

1997年、世界7大陸最高峰の登頂に成功した野口さん。
野口さんは外交官の子として生まれた。母はエジプト人。幼少の頃は、混血の容姿をからかわれることもあった。仕事の忙しい父と母はすれ違い、離婚してしまった。野口さんは、父の仕事の合間に、さまざまな国に旅行した。そして父とその国のその地について意見を言い合った。父がイギリスに移動したとき、野口さんはイギリスの立教英国学院の宿舎にはいることことになった。そこでも野口さんは勉強ができなくて落ちこぼれた。そんな野口さんにもできることはないかと思っていたとき、見つけたのが「植村直己」の本だった。野口さんは、高校生でも入会できる登山グループを見つけ、最年少としてモンブランの登頂に成功。その後一芸に秀でていれば入学できる亜細亜大学に入学。以後、7大陸の最高峰登頂に成功。最後のエベレストは3回目でやっと成功。その後、エベレスト清掃登山を実行する。そして富士山や青木ヶ原樹海などの清掃活動を進めた。さらに環境問題に取り組むために勉強を重ね、子どもたちのための「環境学校」を行った。

1 モンブラン 4808m ヨーロッパ大陸
2 エルブルース 5642m ヨーロッパ大陸
3 キリマンジャロ 5895m アフリカ大陸
4 コジウスコ 2230m オーストラリア大陸
5 アコンカグア 6960m 南米大陸
6 マッキンリー 6194m 北米大陸
7 ビンソン・マシフ 4897m 南極大陸
8 エベレスト 8848m アジア大陸

 ただの冒険家ならめずらしくないかもしれない。とは言っても、冒険をするということは、それだけの体力と精神力と経済力が必要だ。夢ばかり描いていても実現はできない。野口さんのすばらしいところはゴミを拾う活動に進んだことだ。町にも川にも海にも山にもゴミは散乱している。電気製品や自動車まで捨ててある。せっぱ詰まって捨てるのか、安易に捨ててしまうのか、ゴミの問題は確かに大きい。人が歩くところにゴミあり。
ひねた見方をするなら、野口さんは恵まれた環境の中にいるからこそできるのだと考えられる。お金に困らない生活。精神的に満たされるさまざまな体験。落ちこぼれても、こうしてチャンスは巡ってくるものだろうか。いやいや、お金があることが恵まれた環境だと決めつけるのもおかしいかもしれない。結局、伸びようとする心があるかどうかなのだろう。多くの人は落ちこぼれていく。自分はそうであると思っている。そして、大なり小なり、それぞれの人に合った、自分を生かすチャンスがくるのだと思う。それを見抜く自分の心があることがだいじなのかもしれない。
ゴミ・・・については考えさせられる。地味かもしれないけど、身近なゴミはきちんと捨てたい。自分ができるゴミ拾いをやっていきたい。人のため、みんなのためになることを少しでも実行したいものだ。

救出-日本・トルコ_友情のドラマ

2007年07月12日 | book 児童書 絵本
木暮 正夫
アリス館
2003年10月 初版

 『救出-日本・トルコ_友情のドラマ』 2007.7.8

明治23年(1890年)、紀伊半島沖でトルコの船が難破。人々の懸命な努力で69人が救出された。そして95年後、イラン・イラク戦争のさなか、日本人を救出したのはトルコの飛行機だった。ふたつの救出をめぐる、日本とトルコ、感動のドラマ。

人の心にあるのは「善」か「悪」なのか・・・戦争の記事を読むと、自分以外は人間ではないような気持ちになって人が鬼になって、残酷なことをしてしまう。ルワンダの虐殺の事件はひどかった。日本でも、戦争時代は他国でかなりひどいことをしたと聞く。人は「悪」になれる。でも、それはまるで夢遊病者のような感覚だ。水の流れがそこに必然的に行くように、自然に流れていく。一旦加速してくると止まらない。戦争という悪。しかし、人間の本来の姿は「善」だと思う。人が困っていれば手を差し出したくなる、そんな心が人間の本能だと思う。だから、どんなにどん底の状態でも、人は助け合って生きる。助けを求めてきたものに対し、心を傾ける。