




大正2年、森山家の2階の書庫に小人たちがやってきた。横浜から帰国する英語の先生、ミス・マクラクランという人から、達也は小人たちが入っているバスケットを受け取った。毎日欠かさず、青いカップにミルクを入れて、小人たちのところに運ぶこと。それが約束だった。達也は、一日も欠かすことなくミルクを運んだ。この仕事は、達夫から透子に、透子は達也の妻となり、その子どものゆりへと受け継がれていった。そして、昭和に入り、日本が戦争への道を走り始めて、その影響が小人たちにも降り注ぎ始めた。達也は英文の研究をしているいところから、非国民としてつかまり投獄された。戦況が厳しくなり、森山家も食べ物が乏しくなっていった。しかし、時には薄い粉ミルクの時もあったが、ミルクを毎日小人たちに運ぶことは欠かさなかった。ゆりは、小人たちと長野県野尻に疎開することになった。そこでの生活は厳しく、ミルクはなかなか手に入らず、持ってきたミルクを少しずつ小人たちに運んだ。あるとき、ゆりは病気になり、疎開先の叔母はゆりが持ってきた小人用にミルクを飲ませた。そしてとうとうミルクがなくなり、小人たちはそこから出ていかなければいけなくなった。小人たちを救ったのは、アマネジャキだった。元気になったゆりは、毎日青いカップにミルクを入れて、いなくなった小人たちを待った。
