





かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこうです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいでん
なさい。とぼどぐもたないでくなさい。
山ねこ 拝
一郎はうれしくなってでかけた。途中で、栗の木に道を訪ねた。きのこやリスにも訪ねた。そして変な男にも道を訪ねたら、それはやまねこの馬車別当だった。やまねこは一郎に裁判での考えを聞きたかったのだ。争っているのはどんぐりだった。頭がとがっているのがえらいか丸いのがえらいかもめていたのだ。一郎は、この中でいちばんばかでめちゃくちゃでまるでなってないのがえらいと言った。んどんぐりたちはシーンと静まりかえってしまった。一件落着。一郎はたくさん黄金のどんぐりをもらって帰った。
不思議な感覚の世界、宮沢賢治独特の世界。動物たちが語り、自然が声を出す。身近に感じる野山、生き物たち。あの下手な手紙でさえ愛嬌たっぷりで、自分たちは自信を持っているところがなんともおかしい。どんぐりたちが争っている姿形も、端から見ればどうでもいいこと。でも、人間はもっとばからしいことに順位をつけたり、けんかしたりしているのだろう。どんぐりだったらばからしいけど、いざ自分たち人間様のこととなると、特に大人は頭も心も固くなって、どうでもいいことで腹を立てている。もっとみんな仲良くなろうよ、と賢治が語りかけているようだ。

どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の小さな学校に転校生がやってきた。高田三郎。村の子どもたちは、彼を風の又三郎と呼んだ。彼を始めて教室で見つけたとき、風がどどうと吹いた。嘉助が馬を追いかけて迷ったとき、ガラスのマント着た又三郎が現れた。三郎と村の子どもたちは、川で泳いだり魚を捕ったり・・・そして風の又三郎は、いつの間にかまたどこかに転校していった。
この文庫は何年前のものだろう。思い出したように広げて、また読んでみた。宮沢賢治の作品は好きなんだけど、イマイチ深くは残らない。この「風の又三郎」も何度も読んだ。アニメなども見た。でもしっかりしたイメージが自分の頭の中にわかなかった。それは三郎が本当にまるで妖精のようには思えないことと、風の不思議さが理解できないところにあるのかもしれない。幼い頃に野山で感じる風の魅力を深く経験していないのだ。現代の子どもたちだったら、なおさらこの感覚は理解できないかもしれない。今回再び読んでみて、何となく分かった気がした。田舎にやってきた都会の子どもを、不思議な魅力をもって感じる感覚。田舎に吹き込む新しい風。異質なものに対する恐れ。しかし、子どもたちは怖い物見たさに近づき親しくなっていく。そして、嵐のあとの静けさのように、三郎がいなくなる。あれは何だったのだろうと、まるで幻を体験していたかのような錯覚。混沌とした記憶にかわっていく。いつしか言い伝えに変わっていくのかも。