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そよかぜノート

読書と詩の記録

風の又三郎

2007年10月22日 | book 文庫
宮沢賢治
新潮文庫  140円
1961年 初版 1931年頃の作品

 『どんぐりと山猫』 2007.10.9 

 かねた一郎さま 九月十九日
 あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこうです。
 あした、めんどなさいばんしますから、おいでん
 なさい。とぼどぐもたないでくなさい。
                      山ねこ  拝

一郎はうれしくなってでかけた。途中で、栗の木に道を訪ねた。きのこやリスにも訪ねた。そして変な男にも道を訪ねたら、それはやまねこの馬車別当だった。やまねこは一郎に裁判での考えを聞きたかったのだ。争っているのはどんぐりだった。頭がとがっているのがえらいか丸いのがえらいかもめていたのだ。一郎は、この中でいちばんばかでめちゃくちゃでまるでなってないのがえらいと言った。んどんぐりたちはシーンと静まりかえってしまった。一件落着。一郎はたくさん黄金のどんぐりをもらって帰った。

不思議な感覚の世界、宮沢賢治独特の世界。動物たちが語り、自然が声を出す。身近に感じる野山、生き物たち。あの下手な手紙でさえ愛嬌たっぷりで、自分たちは自信を持っているところがなんともおかしい。どんぐりたちが争っている姿形も、端から見ればどうでもいいこと。でも、人間はもっとばからしいことに順位をつけたり、けんかしたりしているのだろう。どんぐりだったらばからしいけど、いざ自分たち人間様のこととなると、特に大人は頭も心も固くなって、どうでもいいことで腹を立てている。もっとみんな仲良くなろうよ、と賢治が語りかけているようだ。

 『風の又三郎』 2007.9.22

 どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の小さな学校に転校生がやってきた。高田三郎。村の子どもたちは、彼を風の又三郎と呼んだ。彼を始めて教室で見つけたとき、風がどどうと吹いた。嘉助が馬を追いかけて迷ったとき、ガラスのマント着た又三郎が現れた。三郎と村の子どもたちは、川で泳いだり魚を捕ったり・・・そして風の又三郎は、いつの間にかまたどこかに転校していった。

 この文庫は何年前のものだろう。思い出したように広げて、また読んでみた。宮沢賢治の作品は好きなんだけど、イマイチ深くは残らない。この「風の又三郎」も何度も読んだ。アニメなども見た。でもしっかりしたイメージが自分の頭の中にわかなかった。それは三郎が本当にまるで妖精のようには思えないことと、風の不思議さが理解できないところにあるのかもしれない。幼い頃に野山で感じる風の魅力を深く経験していないのだ。現代の子どもたちだったら、なおさらこの感覚は理解できないかもしれない。今回再び読んでみて、何となく分かった気がした。田舎にやってきた都会の子どもを、不思議な魅力をもって感じる感覚。田舎に吹き込む新しい風。異質なものに対する恐れ。しかし、子どもたちは怖い物見たさに近づき親しくなっていく。そして、嵐のあとの静けさのように、三郎がいなくなる。あれは何だったのだろうと、まるで幻を体験していたかのような錯覚。混沌とした記憶にかわっていく。いつしか言い伝えに変わっていくのかも。

ヨースケくん

2007年10月14日 | book 児童書 絵本

那須正幹(なすまさもと)広島県
ポプラ社 1000円
1998年初版 

 『ヨースケくん』 2007.10.8

授業中、トイレにいきたくなったら・・・
つい、カンニングしてしまったら・・・
お父さんがリストラされたら・・・
マラソン大会でびりになったら・・・
小学生が生きていくのは、
けっこうたいへんなんです。
日々、てつがくする小学生、
ヨースケくんの物語。


ヨースケくんは桂町小学校の五年生。組替えがあって、また倉橋くんと同じクラス。そして担任の先生は新しくかわってきた桑原俊子先生。転校生も2人。一人は外山くん、もう一人はヨースケくんのとなりにすわった町田さん。ごくありふれた小学生の生活の中で、小学生なりにヨースケくんが関わり考えてきたこと。流れる川を見ていたら自分が動いていた。夏休み、ヨースケくんの田舎は東京だった。夏休みが終わって、病気になったヨースケくん。なかなか熱が下がらない。お父さんのリストラ、不機嫌なお父さん。家族でハイキングだって。紅茶を飲んで一家心中するんじゃないかと心配。ヨースケくんの秘密は、トイレに行って大便をするとき、ズボンもパンツも全部ぬがなければできないこと。午後の授業まで絶えたのにもうがまんできない。保健室に行くと先生に言ったら、保健委員の熊田さんがついてきた。どうしよう。最近近所で火事が多い。昔ながらの夜回りが始まった。ヨースケくんもお父さんと参加。マラソン大会、走るのは苦手なヨースケくん。ゴール直前、心臓が爆発しそう。そのとき耳にした言葉は、「がんばらなくていいよ」だった。気持ちが楽になったヨースケくんは、手を振ってゴール。

 気になっていた本だった。何年も前から読みたかった本。探していた本を目にすることができた。大きな事件があるわけじゃない。特別なことはないのに、なんだかあったかくなる作品だった。自分もそうかな、と思うと、ヨースケくんが自分のとなりにいるような、自分がヨースケくんであるかのような気持ちになれる。時を越えなくても、大事件が起こらなくても、冒険しなくても、毎日の生活の中にドラマがある。だれもが体験する出来事の中に、発見はある。それを見逃すかこともあれば、「そうだよね」って感じて考えることもある。ついつい刺激を求めてしまうけど、心の落ち着きは毎日の当たり前の生活の中にあって、それを拾い上げることで、さわやかなリズムが生まれるんじゃないのかな。
「がんばらなくてもいいんだよ」って、言ってくれたら心が軽くなる。倉田くんや熊田さん、外山くん、なんだかんだと言っても、友達なんだよね。大袈裟な言い方かもしれないけど、助けられているんだよね。あんな時代があった。あんな純粋な気持ちでいられた時代があったんだよね。


エンジェル

2007年10月13日 | book 文庫

石田衣良
集英社文庫 
2002年初版 1999年作品

 『エンジェル』 2007.10.7

「エンジェル」という投資会社を経営する純一は、何者かに殺された。幽霊となってよみがえり、自分の悲しい生い立ちをたどった。しかし、殺される前の2年間の記憶がない。自分はだれに、何のためにころされたのか、真実を求めてさまよう。自分の会社が投資していた映画、なぜか心惹かれる受付の女性。明らかになっていく衝撃の真実とは。

 最初は、イメージのわきにくい言葉の羅列で困った。読み進めようかどうしようかと迷ったほど。疲れていることも影響していたかもしれない。しかし、生い立ちをたどり、調査が始まるにつれ、何を求めているのかが見えてきた。つまり、最初の場面や描写が何のためのものなのかわからなかったから、いらいらしていたのだ。読み進めていくうちに、だんだん消化していくページは増え、最後はいつも通り一気に読み終えた。
自分の殺人を自分で調査していくという奇抜な題材に興味を持って読み始めた。幽霊ができること。それは話を聞くこと、見ること。物をさわったり動かしたりはできないんだ。しかも、昼は動けない。夜しか行動できない。これは大きな弱点だ。昼に大きな出来事があれば対処できない。姿を現すなんてものすごいエネルギーのいることで、そう簡単にはできないらしい。驚いたのは、感情があり、身体の変調を感じることだ。生きている人間と同じように心の動きで心臓が高鳴ったり、重苦しさを感じたり・・・死んだら幽霊になるとしたら、もっとたくさんの幽霊と出会ってもいいのにと思う。今、自分のこの部屋に誰かの幽霊が浮いていて見られているとしたらいやだなあ。幽霊と戦うヤクザ、なんて科学的に捕らえたら可能かもしれないけど、やっぱり怖さが一番にきて逃げ出すよ。そう冷静に分析なんてできるものじゃない。幽霊を主人公にしたが故に、幽霊像をきめ細かく作らなければならなくなった。そこが読み手のイメージと合えばいいけど。でも、おもしろく読ませてもらえた。最後に、彼女は意図的に純一を殺そうとしたわけではなく、結果的にそうなったんだよね。彼女を責めるべきかどうか、そこが疑問だ。


夕凪の街 桜の国

2007年10月07日 | book その他

こうの史代
双葉社 800円 マンガ
2004年初版 2004年作品

 『夕凪の街 桜の国』 2007.9.17

「広島のある 日本のあるこの世界を
             愛するすべての人へ」

「昭和三十年。
 灼熱の閃光が放たれた時から十年。
 ヒロシマを舞台に、一人の女性の魂が
 大きく大きく揺れた。

 最もか弱き者たちにとって、
 戦争とは何だったのか、
 原爆とは何だったのか・・・
 著者渾身の問題作!」

平野皆実、母フジミと二人暮らし。原爆で、父と妹の緑と姉を亡くした。弟の旭は、千葉の親戚の家に疎開。そのまま戦後もそこで暮らしていた。原爆で、皆実もやけどを負った。母は目をやられ、惨状を見ていない。今は元気にあばら屋で暮らしている。

 わかっているのは「死ねばいい」と思われたということ
 思われたのに生き延びているということ


皆実が働いている会社の打越さんに愛を打ち明けられた。

 生きとってくれてありがとう

 ひどいなあ
 てっきりわたしは 死なずにすんだ人かと思ったのに

 十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て
 「やった! またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?


石川七波、弟の凪生は医師になった。近頃父旭の行動がおかしい。ある夜、かばんを持って家を出た。七波は父に着いていった。東京駅で小学校時代の友人東子に会う。父は広島行きのバスに乗った。東子といっしょに七波も広島へ。父は皆実お姉さんの墓参りと姉のことを知っている人を訪ね歩いていた。七波は始めて叔母のことを知り、祖母のフジミや母が原爆にあっていたことを考えた。

正直言って、初めてこのマンガを読んだとき、よくわからなかった。何が言いたいのだろうか、と考えてしまった。少女マンガによくある、はっきり言わないで場面だけで語る、そこから感じることは苦手だ。ストレートに言ってくれる方がいい。実は、映画を見てもう一度このマンガを読んだ。そしてひとつひとつの場面のイメージがつながった。映画の場面が頭に浮かぶからだろう。映画がなければこのマンガを一度だけ読んで、「ようわからん」と投げ出していたかもしれない。日頃マンガを読まないことも、絵をよく見ないことにつながったのだろう。このマンガに書かれている「言葉」が生きてきた。原爆を落とした人は、人が苦しみ死んでいくことを想像しただろうか。たくさんの人が死んでいくことを思って、ほくそ笑んでいたのだろうか。10年経って、また殺したぞと喜んでいたのだろうか。いや、きっと想像しなかったからこそ、原爆を落とすことができたのだと思う。もし、想像していたら、原爆を落とすボタンを押すことができなかった。そう信じたい。「原爆を落とせ」と命令した人は、全く頭に人々の苦しみなど想像していない。戦争は、想像力が欠如した人が、他人に命令をし、人を殺させること。想像力が豊かな人間は、決して人を傷つけることができない。

 そよかぜから-映画『夕凪の街 桜の国』 


弟の戦争

2007年09月17日 | book 児童書 絵本
ロバート・ウェストール  訳/原田勝
徳間書店 1200円
1995年初版 1991年作品

 『弟の戦争』 (Gulf)  2007.9.17

イギリスの普通の家族。ぼくは弟が生まれたとき本当に喜んだ。弟アンディをぼくはフィギスと呼んだ。フィギスは心の優しい子で、飼っていた動物や飢えた難民の子供の写真を見ると、取り憑かれたようにずっと眺めていた。
フィギス12歳、湾岸戦争が始まった夏。突然夜中に起きあがり、外国の言葉を発したり、怯えた表情で奇怪な行動をとるようになった。弟はラティーフと名乗り、まるで別の世界の人物のようにふるまった。心配した両親は、フィギスを精神病院に入院させた。医師のラシード先生は、フィギスが話す言葉がアラビア語であると知り、知り合いの医師に通訳を頼んだ。すると、それはまさに今行われている湾岸戦争のイラク、クエートの様子であった。戦場と化したその場にラティーフはいた。フィギスの心と一体化していた。

 テレビでみた湾岸戦争のニュースは、まるでゲームの世界のように、カッコよくある意味楽しんで見た。現実の戦争というものが、まるで映画の一場面のように遠いスクリーンの映像のように見えた。そして、「正しい側」「正しくない側」とはっきり線引きされた。きっと意図的に、そう見せられたのだろう。私もだれもが、すぐに暗示にかかった。でも、フィギスはちがった。戦争は、どちらの側もひどい悲しみが生まれることを自分の体をもって知らせてくれた。「正しくないとされた側」の人間には悲しみがあるなどと思わなかった。それは見えなくなっていた。アメリカの多国籍軍もイラクの兵士も人々も、だれもが怖い思いをしていた。家族に悲しい思いをさせていた。ただの殺し合いだということが忘れられていた。だれもが愛する家族や愛する人々がいる。フィギスに、相手の立場を思うことを教えられた。殺してもいい人間なんていないんだ、ということも。