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そよかぜノート

読書と詩の記録

風の又三郎

2007年10月22日 | book 文庫
宮沢賢治
新潮文庫  140円
1961年 初版 1931年頃の作品

 『どんぐりと山猫』 2007.10.9 

 かねた一郎さま 九月十九日
 あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこうです。
 あした、めんどなさいばんしますから、おいでん
 なさい。とぼどぐもたないでくなさい。
                      山ねこ  拝

一郎はうれしくなってでかけた。途中で、栗の木に道を訪ねた。きのこやリスにも訪ねた。そして変な男にも道を訪ねたら、それはやまねこの馬車別当だった。やまねこは一郎に裁判での考えを聞きたかったのだ。争っているのはどんぐりだった。頭がとがっているのがえらいか丸いのがえらいかもめていたのだ。一郎は、この中でいちばんばかでめちゃくちゃでまるでなってないのがえらいと言った。んどんぐりたちはシーンと静まりかえってしまった。一件落着。一郎はたくさん黄金のどんぐりをもらって帰った。

不思議な感覚の世界、宮沢賢治独特の世界。動物たちが語り、自然が声を出す。身近に感じる野山、生き物たち。あの下手な手紙でさえ愛嬌たっぷりで、自分たちは自信を持っているところがなんともおかしい。どんぐりたちが争っている姿形も、端から見ればどうでもいいこと。でも、人間はもっとばからしいことに順位をつけたり、けんかしたりしているのだろう。どんぐりだったらばからしいけど、いざ自分たち人間様のこととなると、特に大人は頭も心も固くなって、どうでもいいことで腹を立てている。もっとみんな仲良くなろうよ、と賢治が語りかけているようだ。

 『風の又三郎』 2007.9.22

 どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の小さな学校に転校生がやってきた。高田三郎。村の子どもたちは、彼を風の又三郎と呼んだ。彼を始めて教室で見つけたとき、風がどどうと吹いた。嘉助が馬を追いかけて迷ったとき、ガラスのマント着た又三郎が現れた。三郎と村の子どもたちは、川で泳いだり魚を捕ったり・・・そして風の又三郎は、いつの間にかまたどこかに転校していった。

 この文庫は何年前のものだろう。思い出したように広げて、また読んでみた。宮沢賢治の作品は好きなんだけど、イマイチ深くは残らない。この「風の又三郎」も何度も読んだ。アニメなども見た。でもしっかりしたイメージが自分の頭の中にわかなかった。それは三郎が本当にまるで妖精のようには思えないことと、風の不思議さが理解できないところにあるのかもしれない。幼い頃に野山で感じる風の魅力を深く経験していないのだ。現代の子どもたちだったら、なおさらこの感覚は理解できないかもしれない。今回再び読んでみて、何となく分かった気がした。田舎にやってきた都会の子どもを、不思議な魅力をもって感じる感覚。田舎に吹き込む新しい風。異質なものに対する恐れ。しかし、子どもたちは怖い物見たさに近づき親しくなっていく。そして、嵐のあとの静けさのように、三郎がいなくなる。あれは何だったのだろうと、まるで幻を体験していたかのような錯覚。混沌とした記憶にかわっていく。いつしか言い伝えに変わっていくのかも。

エンジェル

2007年10月13日 | book 文庫

石田衣良
集英社文庫 
2002年初版 1999年作品

 『エンジェル』 2007.10.7

「エンジェル」という投資会社を経営する純一は、何者かに殺された。幽霊となってよみがえり、自分の悲しい生い立ちをたどった。しかし、殺される前の2年間の記憶がない。自分はだれに、何のためにころされたのか、真実を求めてさまよう。自分の会社が投資していた映画、なぜか心惹かれる受付の女性。明らかになっていく衝撃の真実とは。

 最初は、イメージのわきにくい言葉の羅列で困った。読み進めようかどうしようかと迷ったほど。疲れていることも影響していたかもしれない。しかし、生い立ちをたどり、調査が始まるにつれ、何を求めているのかが見えてきた。つまり、最初の場面や描写が何のためのものなのかわからなかったから、いらいらしていたのだ。読み進めていくうちに、だんだん消化していくページは増え、最後はいつも通り一気に読み終えた。
自分の殺人を自分で調査していくという奇抜な題材に興味を持って読み始めた。幽霊ができること。それは話を聞くこと、見ること。物をさわったり動かしたりはできないんだ。しかも、昼は動けない。夜しか行動できない。これは大きな弱点だ。昼に大きな出来事があれば対処できない。姿を現すなんてものすごいエネルギーのいることで、そう簡単にはできないらしい。驚いたのは、感情があり、身体の変調を感じることだ。生きている人間と同じように心の動きで心臓が高鳴ったり、重苦しさを感じたり・・・死んだら幽霊になるとしたら、もっとたくさんの幽霊と出会ってもいいのにと思う。今、自分のこの部屋に誰かの幽霊が浮いていて見られているとしたらいやだなあ。幽霊と戦うヤクザ、なんて科学的に捕らえたら可能かもしれないけど、やっぱり怖さが一番にきて逃げ出すよ。そう冷静に分析なんてできるものじゃない。幽霊を主人公にしたが故に、幽霊像をきめ細かく作らなければならなくなった。そこが読み手のイメージと合えばいいけど。でも、おもしろく読ませてもらえた。最後に、彼女は意図的に純一を殺そうとしたわけではなく、結果的にそうなったんだよね。彼女を責めるべきかどうか、そこが疑問だ。


秘密

2007年09月17日 | book 文庫
東野圭吾
文集文庫 629円
2001年初版  1998年作品

 『秘密』 2007.9.15

「運命は、愛する人を二度奪っていく」

杉田平介は、愛する妻の直子と11才になる娘の藻奈美と三人で幸せに暮らしていた。しかし、あるとき親戚の葬儀に出かけた妻と娘のバスが谷底に落ちる事故にあった。妻は瀕死の状態、娘はかすり傷ひとつなかったが昏睡状態だった。間もなく妻が死んだ。そして奇跡的に娘の意識が戻った。ところが、その娘の藻奈美は平介に自分は直子であるという。体は娘の藻奈美、しかし心は妻の直子だった。直子の心を持った娘の藻奈美と平介の奇妙な生活が始まった。藻奈美は小学校に通い、いつか心が本当の藻奈美にもどったときのために、自分ができる努力をしようと中学受験をする。見事合格したが、今度は医学部を目指すために高校受験もするという。これも合格した。高校生になった藻奈美は、テニス部に入り、帰宅が遅くなり、平介は男がいるのではないかと疑うようになる。平介と藻奈美の中の直子の心は荒んでいく。先が見えない未来・・・。

 最初は、おもしろおかしく読んでいた。少女の体に入った妻の魂。何となく楽しく、右往左往する様子が目に浮かんで、微笑みさえ出た。しかし、それは娘が少女だったからだ。中学生になり、高校生になったらどうなるか。もう微笑んではいられない。成長していく娘が妻であることの袋小路が見えてきたのだ。妻を愛するのと娘を愛する心はちがうのだ。平介の心が痛いほど感じられる。自分ではわかっていても、あら探しをしたくなる。妻でなくったって、たとえ本当の娘でも、父親の心はこれに近いものがあるにちがいない。娘ならまだあきらめもつく。でも、心は妻であるから、解決の道がない。娘の藻奈美は娘であることを捨て、妻に徹する。しかし、それもだめだ。ならば・・・・・妻であることを捨てるしかないのだ。ラストの結婚式の場面は、今まで読んできた400数十ページの道を一気にひっくり返した。それは直子の強い意志と愛情だったのだろう。それに気づいた平介は、2発殴ることで許せるのだろうか。果たして、娘夫婦と平介は、これからどんな関係を続けていくのだろうか。ハッピーエンドの雰囲気で終わるけど、決してそうではないような気がした。嫉妬の芽はまだ土の中で生きている。秘密が秘密のままで終わるか、明らかにされるか、そのちがいは天国と地獄だ。

たそがれ清兵衛

2007年09月16日 | book 文庫

■藤沢周平
■新潮社文庫 552円 他7編

 『祝い人(ほいと)助八』 2007.9.8 

伊部助八は、御蔵役の仕事についていた。悪妻が病死して、一人で生活していた。そのためか、洗濯していない赤だらけの衣服に、風呂もめったに入らない体から、悪臭は漂い、「ほいと助八」と呼ばれていた。あるとき、親友の妹の波津が助八の家を訪ねてきた。波津は、暴力をふるう夫と離縁し実家に戻っていたのだが、その元夫が家に押し掛けてきたので、かくまってほしいと頼みに来たのだった。しばらくして、波津の実家に行ってみれば、まだその元夫がおり、波津の兄に果たし合いを申し込んでいた。助八は代わりに受けることにし、相手を倒してしまう。そのことがあって、波津からの縁談があったが助八は断ってしまった。
一方城内で殺生をした殿村を倒すよう、家老は、助八に命ずる。殿村は剣客であった。助八は、波津に準備を頼み、そこで自分の家にきてほしいと気持ちを打ち明ける。しかし、すでに波津には別の縁談がすすんでいた。助八は気を取り直して、殿村のいる屋敷に向かい、仕事を終えた。家に帰ると、いないと思って波津が自分を迎えてくれた。

そういえば小さい頃、「ほいとの子」という言い方でからかいあったことがある。何のことかは知らなかった。でも、あまりいい印象はなかった。漢字で書くと「祝い人」だったのか。これだったらいいじゃないか。それにしても武士の世界もいろいろ大変なんだなと思った。派閥争いはあるし、もめごとはあるし、恋もままならぬし、今とちがうのは腕力(武力)がものを言うこと。つまり剣の腕が大事だということ。それもひけらかしてはいけない。自分の力に過信してはいけない。
心の奥底にある切ない恋。はしばしににじみ出る恋心。この時代にはそんな切ない恋が似合っている。自分の感情を表に出してはいけないけど、ちょっとしたしぐさや行いに心を傾ける。それを感じたとき胸に染み渡る。闘い終わって家路につき、待っている波津の姿こそ、まさに切ない心の姿そのもの。


 『日和見与次郎』 2007.8.5 

藤江与次郎は郡奉行下役を勤め、外回りの仕事が多い。今の藩は、財政難でそれに対する案が二派に分かれていた。与次郎は、かつて父が同じような藩の状況のとき、その派閥争いに巻き込まれ、家禄半減などの痛い思いをしていた。そこで与次郎は決して巻き込まれまいと用心していた。従姉の織江の夫の杉浦は、中立な公正な立場であるということから、殿が意見を集めて聞きたいと秘密裏に呼び出しがあった。ある日、杉浦の家が全焼した。畑中派に一派が来ていたことから疑いがもたれた。藩の案が丹波派に決定した。畑中派の杉浦惨殺問題は、証拠不十分として消えてしまった。与次郎は、影の首謀者である淵上にへの復讐を実行する。

大事な役目を負わされたばかりに、ねらわれてしまった杉浦一家は悲惨だ。ここにしっかり警護がつくべきだ。淵上は許し難いけれども、中立の立場を持つ藩にとって大事な役を言い渡した者をみすみす殺されてしまうなんて、殿も不甲斐ない。この恨みはらさでおくべきか、という「仕事人」のような結末であった。しかし、悪事を働いた者が、末端や表面の者だけ処分され、あとは悠々としているのは何とも腹立たしい。与次郎の最後の実行は、つい拍手を送りたくなる。よくぞやってくれたと。織尾が「二人の秘密ね」と言ったとか、復讐は新たな恨みを呼ぶということはないのか不安でもある。


 『かが泣き半兵』 2007.7.26 

鏑木半兵(かぶらぎはんべい)は、普請組の外回りの仕事をしていた。土木工事の監督などだが、時には石を運ぶなど汗を流すこともあった。ある日、商人町で小さな娘が守屋采女正(もりやうねめのしょう)の一門に折檻されていた。半兵はだまっておれず止めに入った。そのことがきっかけで、仕事の用で寄った長屋にその親子がおり、親密にもてなされた。お家の事情から、半兵は、長屋の一件を理由に守屋暗殺を命じられた。半兵は心極流の使い手だった。

かが泣きとは、愚痴ること、おおげさに自分のことを訴えること。でも、これってだれにでもありそう。むしろ言わない人の方が珍しいと思うけど。私なんか、ほんとちいさなことでも言ってしまう。爪が紫になるほどのけがは大きなこと。「まあ、痛かったでしょう」くらいの慰めがあってもいいじゃないかと思う。武士たるもの、忍の一字ということかな。あの母娘を助けたばかりに、命がけで斬り合いうぃしなければならなくなった。助ける優しさはすばらしい。その母に再び出会う機会があったところから歯車が外れたのだ。心の隙が命取り。半兵が剣の達人で幸いだった。


 『だんまり弥助』 2007.7.15 

パターンは同じだった。性格のちがう主人公。でも、彼は生まれたときからだんまりだったわけではない。いとこの美根のことがあって以来寡黙になったのだ。それにしても、剣の達人というのは、見せびらかすわけでもなく、こうして人からさげすまれながらも、いざというときは思い切った行動に出る。もしかしたら、隠れた正義の味方かもしれない。
だまっていても、気持ちを察する友、妻・・・それはうらやましいことだ。そんな人と出会えたこと。それはもしかしたら、彼の人徳かもしれない。わからない奴は彼を笑う。しかし、人を見る目を持つ者は、彼の力となる。
彼はいざというときはけっこうしゃべることができる。うまく話せないから寡黙になったのではないからだが。ラストの、大橋家老に反対の意見を言ったとき、しどろもどろではなかった。ちゃんと証拠も調べていたし、納得させる話し方だった。ここぞとばかりの時に、行動できるすばらしい力がある。それを見抜いた友、妻だったのかも。


 『たそがれ清兵衛』 2007.6.2

映画はよかったと思う。でも忘れてしまった。どんな場面に感動したのだろうか。
藤沢周平の作品はいつか読んでみたいと思っていた。でも、短編ばかりで、どうしてこれが映画にできるのだろうかと思議に思っていた。今回の「たそがれ清兵衛」だって50ページ。読んでみてたいして感動はなかった。でもこれが映画になると、最後の戦いの場面も、妻との関わりも、きっと心を動かされるのだろう。
堀を切る役を頼まれたとき、清兵衛の心には妻のことしかなかった。その清兵衛の気持ちを深く感じる描写がない。でも、淡々と物事が進んでいくなかで、清兵衛の気持ちがにじみ出てくる。そこは不思議なものだ。



 『うらなり与右衛門』 2007.6.16


大きな感動があるわけじゃないけど、「ほーっ、そうなんだ」と小さな感嘆の声をあげてしまう。どの時代も謀略はある。でも、正義もある。そして、正義がきっと感嘆の声を作る。与右衛門がわなにはまり、そしてわなにはめた伊黒伴十郎が、与右衛門にやられてしまう。大ぴらな敵討ちではなく、彼から刀をぬかした。まるで闇の仕置き人のような、いやだれにも彼にもわからぬようなまるで罰が下るような感覚。彼も敵討ちされているなど夢にも思っていないだろう。与右衛門の心の内はわからぬが、どの時代も正義が通るすがすがしさだ。


 『ごますり甚内』 2007.6.23

けっこうおもしろく読んでいる。淡々と物語が進んでいくところがいい。あまりぱっとしない主人公。でも剣の達人。ごますりもへつらうようなあさましい感じではなく、必死に何かを求めてやっているところがけっこう好感をもてる。そして、妻思いであり正義の味方。今まで読んだ二編も同じようなキャラで、同じような展開だった。剣の達人であるのに、一見そうは見えないところがいい。使いの帰りに三人の敵と戦う場面や、城内の廊下で栗田の首を短剣で刺す場面。イメージだけで迫力を感じる。映像でみせるにはどうしたらいいだろうかと、監督になったように考えてしまった。
こうして見てくると、武士の世界も大変なんだな思った。五十五石って、今のお金に換算するとどれくらいなんだろうか。何人か人も雇わなければいけないだろうしね。
ごますりは、けっこう人のために何かをしていることだし、人の心を思っていい気分にさせてくれる。言葉はよくないけど、続けてもいいんじゃないかな。私ももう少しこういうことができるようにならなければと思った。ごますりはエネルギーのいることだからね。


 『ど忘れ万六』 2007.6.30

さまざまな人間がいる。でも、「ど忘れ」は年を感じさせる悲しいさがり。ほのぼとしているようで、実は本人はつらい。思い出せないことほどストレスがたまることはない。まあ、自分の子どもの名前が言えなくなったら、悲しいどころではないが。確かに年を重ねるごとにひどくなっていく。ついさっき読んだ本の主人公の名前が出てこない。
万六もまた剣の達人であった。さまざまな人間がいるけど、こうした武士として一芸が窮地を救う。しかも、それをひけらかすわけでなく、地道に鍛え求めてきた技だからこそ、いざというときに役に立つ。万六の、一喝したあとの嫁との食事風景が物語る。やってやったのにという押しつけがないところが、またいつもの日常にもどったことが一番の幸せなんだと語っている。


砂の女

2007年09月10日 | book 文庫
安部公房
新潮社文庫 476円
1981年初版 1962年作品

 『砂の女』 2007.9.2

男は休暇を利用して昆虫採集に出かけた。砂地に住むハンミョウ属の新種を求めて、砂丘のような砂地を歩いていた。ある村人に会い、帰りのバスはもうないので泊まるところを紹介するという。案内されたところは砂地の穴の中にある一軒家だった。縄ばしごで下におり、その家にやっかいになった。ところが、縄ばしごはあげられ、その家に閉じこめられてしまった。家にいた女は、村を守るために毎夜砂を掻き出す作業に明け暮れた。男は、なんとかそこから抜け出そうとさまざまな方法を考える。村人は、男が逃げ出さないように、穴の上から監視し、逃亡の妨害をする。

悪夢の世界だ。夢の中で思うように体が動かず、歯がゆい思いをしているみたいだ。男に同情する。この村や女は、古いしきたりに縛られ、世間から離れた生活をしているのだろう。ここから出れば、女もきっとすばらしい経験ができるはず。ラジオを買うことが夢だなんて、外に出ればもっと興味をひくものがたくさんある。ラジオが手に入ったら、そんな外の世界にあこがれてしまうかも。いやいや、この村は、この女は、自分の意思でここにおり、たとえ新しい世界を知っても、ここから抜け出そうとはしない。自分から戻ってくるだろう。砂の中の生活の魔力かもしれない。男も、自分が作った装置が気になって戻ってしまった。あり地獄のような砂の底は、体も心も引き寄せて離さない。もし自分だったら・・・毎日同じ風景、毎日同じ事を繰り返すことに、気が狂ってしまうだろう。女とじっくり話し込んで、自分の気持ちを理解させ、自分の側につける努力をする。絶対にこのままじゃあいやだ。しかし、今の生活を変えたいと思いながら結局返られない自分がそこにいるのかもしれない。

楽隊のうさぎ

2007年09月02日 | book 文庫
中沢けい
新潮社文庫 514円
2003年初版 2000年作品

 『楽隊のうさぎ』 2007.8.21

克久は小学校時代からいじめにあい、できるだけ学校にはいたくないと思っている内気な男の子だ。中学に入った早々、「君、吹奏楽部に入らないか」と声をかけられた。そんなに入りたいとは思わなかったけど、ひょんなきっかけで入部することになってしまった。ここの吹奏楽部は全国大会に出るほどの森勉率いる力のあるクラブだった。50人を越える部員。それぞれのパートに分かれ、朝の練習、放課後の練習、そして夜遅くまでの練習、休日も練習。でも、克久は、先輩や仲間に囲まれ、次第に夢中になっていく。

放課後、学校全体に鳴り響くトランペットの音。校舎の各階で、同じ楽器どうしが集まって練習している光景を何度も見てきた。何が楽しいのだろうと、ふと思うこともあった。でも、それは音をただの雑音にしか思ってなかった自分がそう思っただけ。音の違いがわかる耳や心があれば、長い時間をかけて作り出している音がわかる。音痴な私にはわからないが、この本を読んでいると、まるで自分が音がわかっているような錯覚におちいる。不思議な感覚。青春を謳歌しているようなすがすがしさでいっぱいになる。
克久は本当にいじめられていたのかと疑いたくなる。もしかしたら、自分の力を発揮する場が見つかるかどうかで、同じ人間が180度ちがうのかもしれない。私もそんな場に出会うことができたら、自分が生き生きとしていることに気づくだろうな。
ところで「うさぎ」って何なのだろう。裃を着ておじぎをする「うさぎ」・・
きっと自分をどん底に陥れないピエロのような存在かな。自分の心の中だけだったら、自分を責め過ぎたり、人を恨みすぎたり、自分一人だけで閉じこもったりしてしまう。そうならないための、とぼけたピエロ。少し自分をちゃかすことで、自分を笑って見ることができる。もうひとりの自分かもしれないな。きょとんと止まってこちらを見つめるうさぎは、猛獣でもないし、すばやく逃げてしまう見えないものでもないし、愛嬌があってとぼけている。それが返って自分を前向きにさせてくれているようだ。私の心にもうさぎにいてもらおうかな。

ユタとふしぎな仲間たち

2007年09月02日 | book 文庫

三浦哲郎
新潮社文庫 400円
1984年初版 1971年作品

 『ユタとふしぎな仲間たち』 2007.8.7

「生きるって、生きているって、
       なんて素晴らしいことなんだろう」


父を事故で亡くし、母に連れられ、東京から東北の田舎に引っ越してきた勇太。なかなか田舎の子どもたちとなじめず、退屈な生活を送っていた。ある日、水車小屋の寅吉じいさんから、銀林荘の離れにいる座敷わらしの話を聞く。満月の日にその部屋に泊まると会えるという。勇太が出会ったのは9人の座敷わらしたち。ペドロ、ダンジャ、ジュノメェ、ゴンゾ、トガサ、ジンジョ、モンゼ、ジュモンジ、ヒノデロ。離れの中央にある大黒柱がエレベーターになっていて、彼らの世界に連れていってくれる。彼ららの姿は勇太には見えるけど、他の人には見えない。
この田舎町で繰り広げられる勇太と彼ら座敷わらしたちの交友、そして勇太の成長。

大黒柱なんて残っているところは少ないだろうなあ。そんな大きな柱がある家は、きっと古い家で座敷わらしたちがいるような予感がある。生きたくても生きられなかった昔の子どもたち。そのままの姿で“今”をさまよっている。おむつのおしっこくさいにおい。きたならしいイメージだけど、見かけにこだわらない、素直につきあえる関係だからこそ仲良くなれる。いじめがおこるのは、見かけや言葉やちょっとした動作など、どうでもいいところにこだわるからだと思う。彼らと触れあいたいと思う心は、きっといじめなんてしないだろう。テレビなんかでやる座敷わらしのイメージとちがう。テレビの座敷わらしはそれなりにお上品な気がする。ものを動かしていたずらして楽しんでいる。でもペドロたちは悲しい過去と現代では決して受け入れられないような格好でイメージだ。ペドロたちが都会に来たらどんなことを思うだろうなあ。都会には都会の座敷わらしがいるのだろうか。悲しみを吹き飛ばすような座敷わらしじゃなくて、悲しみの置き所のない身動きできない幽霊になってしまうかもしれない。
音の風に乗って空を飛ぶペドロたち。帰りは歩きになることもある。田舎だからだなあ。都会の音は雑音だらけ。座敷わらしさへ居場所がない世界がさびしく感じられる。古い家がなくなった村を離れ、ペドロたちはどこにいくのだろう。解説にあったように、この続きが知りたい、読みたい、そんな気持ちにさせられる。


流星ワゴン

2007年08月03日 | book 文庫
重松清
講談社文庫 695円
2005年2月初版  2002年作品

 『流星ワゴン』 2007.8.1

「僕らは、友だちになれるだろうか」
「38歳、秋。
  ある日、ぼくと同い歳の父親に出逢った--。」


永田一雄38才、喧嘩を長い間会っていなかった父が肺ガンで死んでいこうとしている。一雄の妻、美代子はテレクラにはまり家に戻ってこない。息子の中学2年生の広樹は、受験に失敗し不登校で家庭内暴力で荒れている。一雄自身もリストラにあい、再就職できずにいる。もうどなったっていい、死んでもいいと思っていた。父の見舞いの帰り、駅前のロータリーで、いつの間にかオデッセイの車の中に入り込んでいた。その車を運転していたのは橋本さん助手席にいたのは8才の健太君。5年前に、買ったばかりの車で事故死した親子だった。一雄は、かこの大切な時間にもどる。現実は変えられない、やりなおしの時間。そこで、今の一雄と同じくらいの歳の父に会う。自分が思っていた父とは違い、父は自分のことを「ちゅうさん」と呼ばせ、朋輩だと言った。一雄の乗ったオデッセイ、流星ワゴンは、一雄にとって苦しくつらい過去に向かって走る。

 どうしてこうも「身につまされ」る内容ばかりなんだろう。解説にもそうあった。それは私ばかりでがなく、私のような年代には多いことなんだと、半分安心をし、半分一雄のように立ち向かっていけない自分の弱さを感じて、眠れない日々が続いた。父、妻、子ども、どれをとっても悩める一雄自身だった。ただ、私は戻りたくない。私の前には流星ワゴンは来なくてもいい。立ち向かう力はない。テレクラで不貞を繰り返す美代子を許せない。死んでいく父に会わす顔がない。公園でペットボトルに石をぶつける広樹にかける言葉がない。やり直しが、もっとひどい後悔と悲嘆を産む。たとえ死んでも気持ちが晴れるわけでないことはわかっているが、だからといって立ち向かえない。「流星号」に乗って「スーパージェッター」に来てもらいたいものだ。
橋本さん、あなたは不器用ではないよ。こんなに一生懸命ではないですか。不器用っていうのは、やる前に自信がなくてやめてしまうんだ。死んでしまったことは悲しいことだけど、こうして息子の健太と旅ができる今が一番幸せに見える。

父からの手紙

2007年07月25日 | book 文庫

小杉健治
光文社文庫 648円
2006年3月 初版  2003年作品

 『父からの手紙』 2007.7.22

「父親の愛がもたらす深い感動」

毎年、阿久津麻美子と伸吾の誕生日に届く父からの手紙。10年前に家族を捨て、家を出てしまった。
殺人の罪を償い出所した秋山圭一。腹違いの兄の義姉を守るために人を殺した。でも、自分でもその動悸にひかかりがある。圭一は義姉の居所を探し始める。麻美子と圭一、全く接点がないように思われた二人が、次第に近づいていく。

 最初は、二人の主人公がいる2つの場面に戸惑った。何の接点もない二人が、これからどう結びついていくのかも楽しみだった。前半、それぞれの場面について理解し把握していくのにくたびれた。後半は、少し予想も立ち、その通りになるのかとワクワクしながら一気に読んだ。いつものことだけど、休みに入ると読み終えたくなる。
麻美子の父が50年間の手紙を用意し、さらにいくつかの出来事を考えそれにあった違った手紙を用意していたことには驚いた。それだけの手紙を用意するには、何ヶ月もかかったことだろう。いつ、どこで書いたのだろう。いらぬことを思ってしまう。こんな死んだ人が書き残した手紙と言えば、「ニライカナイからの手紙」を思い出す。どちらが先に書かれたものかはわからないけど、「ニライカナイからの手紙」という映画を先に見ているだけに、新鮮な驚きはなかった。圭一にとっては、手紙に関しては全く関わり合う場面がなかった。半分の物語の結末であり、テーマのような気がした。送っていたのは圭一の兄だったけど、バラバラだった主人公が交わったとき、中心に手紙が来ていなかったことが、題との違和感を感じたのだと思う。


あかね色の風

2007年07月22日 | book 文庫
あさのあつこ
幻冬舎文庫 495円
2007年4月 初版  『あかね色の風』1994年作品  『ラブレター』1998年作品

 『あかね色の風』 2007.7.15

遠子は小学校6年生。彼女の家に、今度転校してくる千絵があいさつにきた。でも、「仲良くしてね」という千絵の祖母の言葉に何も応えない。陸上部を止めて、真反対の歴史研究部に入った遠子。千絵も同じクラブに入ってきた。複雑な家庭の事情を持ちながらも、屈託なく話す千絵。そして犬の散歩をしていた遠は、リュックを背負った千絵に出会う。化石が好きで、一人でも自分の好きなことに心を傾ける千絵に、遠子は少しずつ惹かれていく。

巧もそうだったが、どうしてそんなに冷めた感じでいられるのだろう。結果的には、関わり合い影響しあう。でも、それは自分から意識してそうなったのではない、あくまでも自分はそこらにいる人間とはちがう。そう言って人を見下している。そんな人間を優しく見守る豪や千絵がいじらしく思える。確かに遠子自身もクラブのことで傷つき道をさまよっている。そんな迷いの中で悶々としている人間こそ、身近なのかもしれない。むしろ、千絵のように自分の周りには不幸だらけなのに、それを苦にするような表情も言葉も出すことなく、笑顔で遠子に接し、いつのまにか人の心に安らぎを与える。そんな人間の方が希なのかもしれない。
化石を求めて山の中を歩く。ワクワクするその先にあるもの。同じ空を見て、同じ気持ちでいられる二人、それは友情とか親友とかではなく、まるでもう一人の自分が姿をかえて今そこにいるような、ぴったり重なった気持ち。
「あかね色」ってどんな色だろう。夕焼けではなく朝だと千絵は言う。夕焼けだと終わりがくるけど、朝焼けだと今から始まるから。あのワクワク感はあのときに生まれたものだけど、同時にあのときに始まった。そしてあのときの風を今もときどき感じることができる。
ムカデだけはいやだったな。山に行くのが怖くなったよ。

 『ラブ・レター』 2007.7.16

愛美が書こうとしている直人への手紙。

ラブレター書きたくなる気持ち、よくわかる。だれかに手紙をだしたくなる気持ち、よくわかるなあ。愛とか、好きとかそんな言葉で表したくないものがあの時代にあった気がするなあ。でも直人のように素直に受け取る子はいないよなあ。書こうという気持ちはだれにでもあった。でも、多くの子は渡さなかった。自分の宝箱にしまって、いつか忘れていった。文字にしなくても心の中で書いた手紙も多いことだろうなあ。それを現実のものにして渡してしまったら、多くはきっと幻滅してしまうんだ。
あのあと愛美と直人はどうなったろう。きっといつもの日常があるのだろう。