松谷みよ子
講談社
1995年8月 初版 1969年作品
『ふたりのイーダ』 2007.7.28
「イナイ、イナイ、ドコニモ・・・・イナイ・・・。」
直樹とゆう子の兄妹は、おかあさんのいなかの町で、だれかをもとめてコトリ、コトリと歩きまわる小さな木の椅子にであい・・・。
直樹は4年生、ゆう子は2才。ゆう子は、「いーだ」とよく顔をしかめて言うので「イーダちゃん」と呼ばれていた。母が取材で九州に行くことになった。そこで二人は、母の実家の勝浦に預けられることになった。そこで、直樹は雑木林の中で、椅子がコトコト歩いて姿を見つけた。追いかけて行くと、そこには古い家があった。いつの間にかやってきたゆう子が椅子と楽しく遊んでいた。これはどういうことなのか。その家の柱にあった日めくりのカレンダーの数字は「6」・・椅子は、ゆう子のことを「イーダちゃんがもどってきた」と言った。しゃべって動く椅子。ゆう子は、椅子が言う昔死んだ女の子の生まれ変わりなんだろうか。その理由を調べようと仮病を使って留守番をしていたとき、様子を見にきてくれたりつ子さんが、その答えを見つける手伝いをしてくれる。 何年か前に読んだことがある。改めて読んでみて、その奥深さを初めて感じた。以前は、何が言いたいのかわからなかった。読んだのが子どもの頃だったのか、成人して仕方なく読んだのか。いや、途中で読むのをやめたのかもしれない。児童向けだけど、中学生くらいでないと以前の私のように中途半端で終わってしまうかもしれない。
動く椅子、話す椅子、それが全然不思議に感じない。今は、物にも心を込めたり、いつもは話さないけど人と同じように見て感じて考えているのではないかと思えるようになったから。それは、物が必ず人の手に触れられるのだとわかるから。どんな物も、必ず人の心がそこにある。手作りの椅子なら尚更かも。それが人を求めて動いたっておかしくはない。
原爆が落とされたとき、きっと多くの人たちがヒロシマに入っていった。肉親や知人を求めて、瓦礫の街と化したヒロシマを歩いた。そしてその人たちの帰りを待っている人たちがうた。「真っ黒なお弁当」では、滋君を捜しにお母さんがヒロシマの町を歩いた。そのお母さんを五日市の町で待っている人たちがいた。同じように椅子は少女を待っていた。ヒロシマでどんなことがあったのか全く知らない椅子。現代を生きる私たちもその椅子と同じかもしれない。事実を知らない、感じていない。本当に心から過去の凄惨な現実に目を向けたとき、あの椅子のように崩れ落ちるかもしれない。今はまだ薄っぺらな感傷にしか浸っていない自分がここにいる。椅子はもうイーダを探すことはないだろうか。崩れた身体を本物のイーダに拾われ、直してもらい、そばに置かれているから。いや、原爆が投下され63年たった今も、椅子は探し続けている気がする。幸せであるはずのイーダを・・子どもたちを・・。





とうとう夏休みがきた。わたしは、パパのいる北海道へと飛んだ。ところが----空港に出むかえていたのは、パパだけではなかった。パパによりそうようにして、若い女の人が立っていたのだ。「うそっ、うそでしょー!」わたし(加奈子)の小学校最後の夏休みは、最悪のスタートを切ることになった。
パパは発酵の研究をしていて、先輩に誘われ、札幌の会社の開発部門に移った。ママは陶芸の道に目覚め、パパと離婚して東京に残った。私はママと一緒に生活しているが、夏休みの三週間だけ札幌のパパのところに行く。ママの陶芸への道にも、パパの引き出しの中の花柄のハンカチにも、私は納得できない。悶々とした毎日を送っていた。パパもママも自分の好きなことをしてわがままなんだ。

自分で歩くことがどれだけ難しいことか。「好きな道」が、自分を生かす道であることを確信し歩くことができること、それが自立。ただ好きなことをするだけだったら、欲望に身をまかせたらいい。自分の判断で自分の道を歩き出す夏・・きっとさよ子さんのような寄り添う人が原動力になるのだと思う。自分から歩き出そうとするきっかけはやっぱり誰かなんだと思うなあ。さよ子さんで良かったね。
小杉健治
光文社文庫 648円
2006年3月 初版 2003年作品
『父からの手紙』 2007.7.22
「父親の愛がもたらす深い感動」
毎年、阿久津麻美子と伸吾の誕生日に届く父からの手紙。10年前に家族を捨て、家を出てしまった。
殺人の罪を償い出所した秋山圭一。腹違いの兄の義姉を守るために人を殺した。でも、自分でもその動悸にひかかりがある。圭一は義姉の居所を探し始める。麻美子と圭一、全く接点がないように思われた二人が、次第に近づいていく。 最初は、二人の主人公がいる2つの場面に戸惑った。何の接点もない二人が、これからどう結びついていくのかも楽しみだった。前半、それぞれの場面について理解し把握していくのにくたびれた。後半は、少し予想も立ち、その通りになるのかとワクワクしながら一気に読んだ。いつものことだけど、休みに入ると読み終えたくなる。
麻美子の父が50年間の手紙を用意し、さらにいくつかの出来事を考えそれにあった違った手紙を用意していたことには驚いた。それだけの手紙を用意するには、何ヶ月もかかったことだろう。いつ、どこで書いたのだろう。いらぬことを思ってしまう。こんな死んだ人が書き残した手紙と言えば、「ニライカナイからの手紙」を思い出す。どちらが先に書かれたものかはわからないけど、「ニライカナイからの手紙」という映画を先に見ているだけに、新鮮な驚きはなかった。圭一にとっては、手紙に関しては全く関わり合う場面がなかった。半分の物語の結末であり、テーマのような気がした。送っていたのは圭一の兄だったけど、バラバラだった主人公が交わったとき、中心に手紙が来ていなかったことが、題との違和感を感じたのだと思う。





「エベレストに登るのも冒険、ゴミ拾いも冒険」
1997年、世界7大陸最高峰の登頂に成功した野口さん。
野口さんは外交官の子として生まれた。母はエジプト人。幼少の頃は、混血の容姿をからかわれることもあった。仕事の忙しい父と母はすれ違い、離婚してしまった。野口さんは、父の仕事の合間に、さまざまな国に旅行した。そして父とその国のその地について意見を言い合った。父がイギリスに移動したとき、野口さんはイギリスの立教英国学院の宿舎にはいることことになった。そこでも野口さんは勉強ができなくて落ちこぼれた。そんな野口さんにもできることはないかと思っていたとき、見つけたのが「植村直己」の本だった。野口さんは、高校生でも入会できる登山グループを見つけ、最年少としてモンブランの登頂に成功。その後一芸に秀でていれば入学できる亜細亜大学に入学。以後、7大陸の最高峰登頂に成功。最後のエベレストは3回目でやっと成功。その後、エベレスト清掃登山を実行する。そして富士山や青木ヶ原樹海などの清掃活動を進めた。さらに環境問題に取り組むために勉強を重ね、子どもたちのための「環境学校」を行った。
1 モンブラン 4808m ヨーロッパ大陸
2 エルブルース 5642m ヨーロッパ大陸
3 キリマンジャロ 5895m アフリカ大陸
4 コジウスコ 2230m オーストラリア大陸
5 アコンカグア 6960m 南米大陸
6 マッキンリー 6194m 北米大陸
7 ビンソン・マシフ 4897m 南極大陸
8 エベレスト 8848m アジア大陸

ひねた見方をするなら、野口さんは恵まれた環境の中にいるからこそできるのだと考えられる。お金に困らない生活。精神的に満たされるさまざまな体験。落ちこぼれても、こうしてチャンスは巡ってくるものだろうか。いやいや、お金があることが恵まれた環境だと決めつけるのもおかしいかもしれない。結局、伸びようとする心があるかどうかなのだろう。多くの人は落ちこぼれていく。自分はそうであると思っている。そして、大なり小なり、それぞれの人に合った、自分を生かすチャンスがくるのだと思う。それを見抜く自分の心があることがだいじなのかもしれない。
ゴミ・・・については考えさせられる。地味かもしれないけど、身近なゴミはきちんと捨てたい。自分ができるゴミ拾いをやっていきたい。人のため、みんなのためになることを少しでも実行したいものだ。





遠子は小学校6年生。彼女の家に、今度転校してくる千絵があいさつにきた。でも、「仲良くしてね」という千絵の祖母の言葉に何も応えない。陸上部を止めて、真反対の歴史研究部に入った遠子。千絵も同じクラブに入ってきた。複雑な家庭の事情を持ちながらも、屈託なく話す千絵。そして犬の散歩をしていた遠は、リュックを背負った千絵に出会う。化石が好きで、一人でも自分の好きなことに心を傾ける千絵に、遠子は少しずつ惹かれていく。
巧もそうだったが、どうしてそんなに冷めた感じでいられるのだろう。結果的には、関わり合い影響しあう。でも、それは自分から意識してそうなったのではない、あくまでも自分はそこらにいる人間とはちがう。そう言って人を見下している。そんな人間を優しく見守る豪や千絵がいじらしく思える。確かに遠子自身もクラブのことで傷つき道をさまよっている。そんな迷いの中で悶々としている人間こそ、身近なのかもしれない。むしろ、千絵のように自分の周りには不幸だらけなのに、それを苦にするような表情も言葉も出すことなく、笑顔で遠子に接し、いつのまにか人の心に安らぎを与える。そんな人間の方が希なのかもしれない。
化石を求めて山の中を歩く。ワクワクするその先にあるもの。同じ空を見て、同じ気持ちでいられる二人、それは友情とか親友とかではなく、まるでもう一人の自分が姿をかえて今そこにいるような、ぴったり重なった気持ち。
「あかね色」ってどんな色だろう。夕焼けではなく朝だと千絵は言う。夕焼けだと終わりがくるけど、朝焼けだと今から始まるから。あのワクワク感はあのときに生まれたものだけど、同時にあのときに始まった。そしてあのときの風を今もときどき感じることができる。
ムカデだけはいやだったな。山に行くのが怖くなったよ。

愛美が書こうとしている直人への手紙。
ラブレター書きたくなる気持ち、よくわかる。だれかに手紙をだしたくなる気持ち、よくわかるなあ。愛とか、好きとかそんな言葉で表したくないものがあの時代にあった気がするなあ。でも直人のように素直に受け取る子はいないよなあ。書こうという気持ちはだれにでもあった。でも、多くの子は渡さなかった。自分の宝箱にしまって、いつか忘れていった。文字にしなくても心の中で書いた手紙も多いことだろうなあ。それを現実のものにして渡してしまったら、多くはきっと幻滅してしまうんだ。
あのあと愛美と直人はどうなったろう。きっといつもの日常があるのだろう。