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そよかぜノート

読書と詩の記録

ユタとふしぎな仲間たち

2007年09月02日 | book 文庫

三浦哲郎
新潮社文庫 400円
1984年初版 1971年作品

 『ユタとふしぎな仲間たち』 2007.8.7

「生きるって、生きているって、
       なんて素晴らしいことなんだろう」


父を事故で亡くし、母に連れられ、東京から東北の田舎に引っ越してきた勇太。なかなか田舎の子どもたちとなじめず、退屈な生活を送っていた。ある日、水車小屋の寅吉じいさんから、銀林荘の離れにいる座敷わらしの話を聞く。満月の日にその部屋に泊まると会えるという。勇太が出会ったのは9人の座敷わらしたち。ペドロ、ダンジャ、ジュノメェ、ゴンゾ、トガサ、ジンジョ、モンゼ、ジュモンジ、ヒノデロ。離れの中央にある大黒柱がエレベーターになっていて、彼らの世界に連れていってくれる。彼ららの姿は勇太には見えるけど、他の人には見えない。
この田舎町で繰り広げられる勇太と彼ら座敷わらしたちの交友、そして勇太の成長。

大黒柱なんて残っているところは少ないだろうなあ。そんな大きな柱がある家は、きっと古い家で座敷わらしたちがいるような予感がある。生きたくても生きられなかった昔の子どもたち。そのままの姿で“今”をさまよっている。おむつのおしっこくさいにおい。きたならしいイメージだけど、見かけにこだわらない、素直につきあえる関係だからこそ仲良くなれる。いじめがおこるのは、見かけや言葉やちょっとした動作など、どうでもいいところにこだわるからだと思う。彼らと触れあいたいと思う心は、きっといじめなんてしないだろう。テレビなんかでやる座敷わらしのイメージとちがう。テレビの座敷わらしはそれなりにお上品な気がする。ものを動かしていたずらして楽しんでいる。でもペドロたちは悲しい過去と現代では決して受け入れられないような格好でイメージだ。ペドロたちが都会に来たらどんなことを思うだろうなあ。都会には都会の座敷わらしがいるのだろうか。悲しみを吹き飛ばすような座敷わらしじゃなくて、悲しみの置き所のない身動きできない幽霊になってしまうかもしれない。
音の風に乗って空を飛ぶペドロたち。帰りは歩きになることもある。田舎だからだなあ。都会の音は雑音だらけ。座敷わらしさへ居場所がない世界がさびしく感じられる。古い家がなくなった村を離れ、ペドロたちはどこにいくのだろう。解説にあったように、この続きが知りたい、読みたい、そんな気持ちにさせられる。


シマが基地になった日

2007年08月22日 | book 児童書 絵本

真鍋和子
金の星社 1200円
1999年初版 1999年作品

 『シマが基地になった日』 2007.8.2

沖縄伊江島 二度目の戦争」
「ここは私たちの国 私たちの村 私たちの土地」

太平洋戦争中、日本で唯一、地上戦の場となった悲劇の地、沖縄。その沖縄に、ふたたび悪夢がおそいかかった。アメリカによる、土地取り上げである。大国を相手に。土地をまもる闘いを続けてきた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんと伊江島の人々の半世紀にわたる闘いの記録。

■1945年4月21日  
米軍が伊江島の占領を宣言する
■1945年5月18日  
生き残った村人2100人、米軍によって強制的に住む場所を奪われ移される。伊江村の推定調査では、村民1500~1600人、日本兵2000人が戦死。
■1945年6月23日 沖縄での戦闘が終わる。
■1947年3月28日 伊江村民全員が島に帰る。63%が軍用地となっていた。
■1953年7月19日 最初の土地取り上げ立ち退き。米空軍用射爆演習場建設のため。約78万5000坪。
■1955年3月14日 琉球政府に対する座り込み陳情を開始。
■1960年7月    「伊江島土地を守る会」結成
■1972年5月15日 沖縄が日本に復帰
■1984年      「ヌチドゥタカラの家」完成、開館
■1998年12月   映画「教えられなかった戦争・沖縄編-阿波根昌鴻・伊江島のたたかい-」完成

資料館入り口の壁に書かれている言葉

平和とは人間の生命を尊ぶことです。
この家には人間の生命を虫けらのように
そまつにした戦争の数々の遺品と、
二度とふたたび人間の生命がそまつに
されないために
生命を大切にした人々、また生命の尊さを求めてやまない人々のねがいもまた展示してあります。

命こそ宝
  生命の場から平和を-

阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)

1955年7月24日 伊江島での行進開始 非暴力 陳情口説(ちんじょうくどぅち)

はてなき世の中はあさましいことだ
腹の中から話しますから聞いてください
沖縄のみなさん 聞いてください

世界にとどろきわたるアメリカの
神のような人が わが土地を取って
うち使ってしまった

主席さま聞いてください
私ら百姓があなたの前に出て
お願いするのはただごとではありません

親ゆずりの土地があってこそ
命がつながっているのです
すぐさまわたしらの畑を取りかえしてください

陳情口説(ちんじょうくどぅち) 野里竹松/作

1984年完成資料館入り口の言葉

戦世(いくさゆ)んしまち みるく世(ゆ)ややがて 嘆くなよ臣下 命(ぬち)どう宝

戦争の世の中は終わった 平和な世がやってくる なげくなよ、おまえたち、命こそ宝なのだから

やすらぎの家のかべに書かれている言葉

福祉とは やすらぎをあたえることです
この家は、
お年よりも子どもも
からだの不自由な人もそうでない人も
お互いに生きがいを求め
ともに助け合い能力におうじて
生産につとめ、心づくりと体づくりのための
やすらぎの場としてつくられたものです

 私には知らないことが多すぎると思う。自分が同じ立場になってはじめて知るんだ。難病になったら、同じ苦しんでいる仲間がいることを知る。行政の厳しさを知る。人の心に潜む問題点を知る。ヒロシマだって、原爆のことも、被害のことも、ひとりひとりの思いにはひとりひとりちがった体験があり、語り尽くせないほど物語がある。そして知れば知るほど、自分が同じ体験をしているかのような気持ちになる。表面だけ、知ってるってのとは違う。もう知っているから終わりではないのだ。それは知っていないのと同じなのだ。沖縄が地上戦になったことは知っている。ヒロシマと同じように、きっとさまざまな体験があり、訴えや願いや叫びが限りなくたくさんあるのだと思う。今回、この本に出会ったことは幸せなことだと思う。自分の土地を取られ、その土地が一番大嫌いな戦争のために使われていることがどんなにつらいことか。そして、自分たちの生活の場が勝手に取られることがあっていいのか。戦国時代じゃあるまいし。先祖代々受け継がれた土地に対する思いはこれほどまでに強いのだ。それにしても、アメリカが沖縄でこんなことをしていることを、アメリカ国民は知っているのだろうか。きっと、世界各地の米軍基地でさまざまな問題があるはず。「非暴力とあいさつ」戦争を反対する気持ちがここにしっかり表れている。


流星ワゴン

2007年08月03日 | book 文庫
重松清
講談社文庫 695円
2005年2月初版  2002年作品

 『流星ワゴン』 2007.8.1

「僕らは、友だちになれるだろうか」
「38歳、秋。
  ある日、ぼくと同い歳の父親に出逢った--。」


永田一雄38才、喧嘩を長い間会っていなかった父が肺ガンで死んでいこうとしている。一雄の妻、美代子はテレクラにはまり家に戻ってこない。息子の中学2年生の広樹は、受験に失敗し不登校で家庭内暴力で荒れている。一雄自身もリストラにあい、再就職できずにいる。もうどなったっていい、死んでもいいと思っていた。父の見舞いの帰り、駅前のロータリーで、いつの間にかオデッセイの車の中に入り込んでいた。その車を運転していたのは橋本さん助手席にいたのは8才の健太君。5年前に、買ったばかりの車で事故死した親子だった。一雄は、かこの大切な時間にもどる。現実は変えられない、やりなおしの時間。そこで、今の一雄と同じくらいの歳の父に会う。自分が思っていた父とは違い、父は自分のことを「ちゅうさん」と呼ばせ、朋輩だと言った。一雄の乗ったオデッセイ、流星ワゴンは、一雄にとって苦しくつらい過去に向かって走る。

 どうしてこうも「身につまされ」る内容ばかりなんだろう。解説にもそうあった。それは私ばかりでがなく、私のような年代には多いことなんだと、半分安心をし、半分一雄のように立ち向かっていけない自分の弱さを感じて、眠れない日々が続いた。父、妻、子ども、どれをとっても悩める一雄自身だった。ただ、私は戻りたくない。私の前には流星ワゴンは来なくてもいい。立ち向かう力はない。テレクラで不貞を繰り返す美代子を許せない。死んでいく父に会わす顔がない。公園でペットボトルに石をぶつける広樹にかける言葉がない。やり直しが、もっとひどい後悔と悲嘆を産む。たとえ死んでも気持ちが晴れるわけでないことはわかっているが、だからといって立ち向かえない。「流星号」に乗って「スーパージェッター」に来てもらいたいものだ。
橋本さん、あなたは不器用ではないよ。こんなに一生懸命ではないですか。不器用っていうのは、やる前に自信がなくてやめてしまうんだ。死んでしまったことは悲しいことだけど、こうして息子の健太と旅ができる今が一番幸せに見える。

おとなになれなかった弟たちに・・・

2007年08月01日 | book 児童書 絵本
米倉斉加年(よねくらまさかね)
偕成社 1000円
1983年初版 1983年作品

 『おとなになれなかった弟たちに・・・』 2007.8.1

母に---

ぼくの弟の名前は、ヒロユキといいます。

父は戦場に行った。母と祖母とぼくと妹と弟の5人で生活していた。弟は生まれたばかり。食べ物がなく、母親の乳の出が悪い。おもゆを飲ませたり、山羊の乳を遠くまで買いに行ったり、時々ある配給のミルクを飲ませたりしていた。ミルクは甘かった。ぼくは時々そのミルクを飲んでしまった。戦況が厳しくなって、僕たちは疎開することになった。親戚の家に行ったら、食べ物はないと追い返された。身も知らぬ田舎の家の6畳の部屋を借りることができた。弟は病気になって入院した。栄養失調だった。しばらくして弟は死んだ。小さな棺桶に入れられた。弟が死んだのは、1945年7月だった。あともう少しで戦争が終わったのに。

戦争がなかったら・・・戦争で犠牲になるのは兵隊だけではない。小さな子どもや年寄りや女性が、だれも守る人がいない中で死んでいく。「守る」とは敵から守るのではない。ましてや、特攻隊のように、君を守るために死にに行くなんて全然ちがう。生きることを許さない見えない敵から守るのだ。それは戦争を起こした人たち。戦争を進める人たち。でも、この時代は守ろうにも守ることができなかった。戦争はいやだと言ったら、生きたいと言ったら、悪いことだとされた時代。お腹がすいたということも言えない時代、お前達のために戦場でがんばっている兵隊さんに申し訳がない。本音は戦わないで生きてもどってきてほしいのに。
今のようにミルクはない。だれもがお腹をすかせている。人のことなど心配していられない。栄養失調で子どもが死んでいく時代なんて絶対あってはいけない。
戦争の悲惨さを考えていったら、必ず到達することこがある。それは、被害者としての悲惨さから加害者としての悲惨さだ。最近は加害者の怖さをその反省をなかったことにしようとしている人がいる。戦争の悲惨さを心から感じていない人だ。いつか、再び私利私欲のために戦争もよしと考えている人だ。

エリカ

2007年07月31日 | book 児童書 絵本

ルース・バンダー・ジー  訳/柳田邦男
精興社 1500円
2004年7月 初版

 『エリカ-奇跡のいのち』 2007.7.28

わたしが1944年に生まれたことは確かです。
でも、誕生日がいつであるのかはわかりません。
生まれたときにつけられた名まえもわかりません・・・


「Erika's  Story」

1995年 ドイツのローテンブルグ市、エリカに声をかけられた。私がエルサレムに行ってきたことを話すと、エリカはその町にどんなに行きたかったかを語った。彼女の首には、「ダビデの星」のペンダントがかけられていた。それはユダヤ民族であることの象徴だった。エリカが私に話してくれたこと、それがこの物語だった。

1945年 彼女はまだ1才かまだそこまでなってないかの赤ちゃんだった。両親とともに、収容所に向かう列車に押し込まれた。座ることもできないくらいぎゅうぎゅう詰めだった。何時間も列車は走った。ある村を通過したとき、列車のスピードが遅くなった。両親は、今だとばかりに貨車の天井近くにある小さな窓から、エリカを放り投げた。運良く草むらに転がり、運良く親切な人が見つけて育ててくれた。

お母さまは、じぶんは「死」にむかいながら、わたしを「生」にむかってなげたのです。

 どんなに極限状態でも「生」に向かって
つい最近、原爆の火をずっと保存していた人の番組を見た。こんなことをした人もいたのだと感動した。あの憎き原爆の火で、いつか敵をアメリカをやっつけてやるという気持ちから、平和を願うシンボルになった。
ユダヤ人虐殺の中にも、生に向けてのさまざまな人間の思いがあった。アンネの日記は有名だ。これもつい最近だが「ハンナのかばん」も知った。そしてこの「エリカ」だ。子どもを生かしたいという親の願いが奇跡を起こした。列車から放り投げること自体、生への可能性は低い。頭を打って死んでしまうかもしれない。でも、このまま収容所に着いてしまえば確実に殺されてしまう。少しでも生き残る可能性に賭けた母親の思いが通じたのだ。その赤ん坊を拾って育てた人もすごい。このお話自体は、残酷で悲惨な物語だけど、人間の強さと優しさもたくさん感じることができるのだ。殺し合うことの悲しさ、生き抜くことと助け合うことの素晴らしさ、人間として生きていくなら後者をたくさん経験したいものだ。