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そよかぜノート

読書と詩の記録

秘密

2007年09月17日 | book 文庫
東野圭吾
文集文庫 629円
2001年初版  1998年作品

 『秘密』 2007.9.15

「運命は、愛する人を二度奪っていく」

杉田平介は、愛する妻の直子と11才になる娘の藻奈美と三人で幸せに暮らしていた。しかし、あるとき親戚の葬儀に出かけた妻と娘のバスが谷底に落ちる事故にあった。妻は瀕死の状態、娘はかすり傷ひとつなかったが昏睡状態だった。間もなく妻が死んだ。そして奇跡的に娘の意識が戻った。ところが、その娘の藻奈美は平介に自分は直子であるという。体は娘の藻奈美、しかし心は妻の直子だった。直子の心を持った娘の藻奈美と平介の奇妙な生活が始まった。藻奈美は小学校に通い、いつか心が本当の藻奈美にもどったときのために、自分ができる努力をしようと中学受験をする。見事合格したが、今度は医学部を目指すために高校受験もするという。これも合格した。高校生になった藻奈美は、テニス部に入り、帰宅が遅くなり、平介は男がいるのではないかと疑うようになる。平介と藻奈美の中の直子の心は荒んでいく。先が見えない未来・・・。

 最初は、おもしろおかしく読んでいた。少女の体に入った妻の魂。何となく楽しく、右往左往する様子が目に浮かんで、微笑みさえ出た。しかし、それは娘が少女だったからだ。中学生になり、高校生になったらどうなるか。もう微笑んではいられない。成長していく娘が妻であることの袋小路が見えてきたのだ。妻を愛するのと娘を愛する心はちがうのだ。平介の心が痛いほど感じられる。自分ではわかっていても、あら探しをしたくなる。妻でなくったって、たとえ本当の娘でも、父親の心はこれに近いものがあるにちがいない。娘ならまだあきらめもつく。でも、心は妻であるから、解決の道がない。娘の藻奈美は娘であることを捨て、妻に徹する。しかし、それもだめだ。ならば・・・・・妻であることを捨てるしかないのだ。ラストの結婚式の場面は、今まで読んできた400数十ページの道を一気にひっくり返した。それは直子の強い意志と愛情だったのだろう。それに気づいた平介は、2発殴ることで許せるのだろうか。果たして、娘夫婦と平介は、これからどんな関係を続けていくのだろうか。ハッピーエンドの雰囲気で終わるけど、決してそうではないような気がした。嫉妬の芽はまだ土の中で生きている。秘密が秘密のままで終わるか、明らかにされるか、そのちがいは天国と地獄だ。

たそがれ清兵衛

2007年09月16日 | book 文庫

■藤沢周平
■新潮社文庫 552円 他7編

 『祝い人(ほいと)助八』 2007.9.8 

伊部助八は、御蔵役の仕事についていた。悪妻が病死して、一人で生活していた。そのためか、洗濯していない赤だらけの衣服に、風呂もめったに入らない体から、悪臭は漂い、「ほいと助八」と呼ばれていた。あるとき、親友の妹の波津が助八の家を訪ねてきた。波津は、暴力をふるう夫と離縁し実家に戻っていたのだが、その元夫が家に押し掛けてきたので、かくまってほしいと頼みに来たのだった。しばらくして、波津の実家に行ってみれば、まだその元夫がおり、波津の兄に果たし合いを申し込んでいた。助八は代わりに受けることにし、相手を倒してしまう。そのことがあって、波津からの縁談があったが助八は断ってしまった。
一方城内で殺生をした殿村を倒すよう、家老は、助八に命ずる。殿村は剣客であった。助八は、波津に準備を頼み、そこで自分の家にきてほしいと気持ちを打ち明ける。しかし、すでに波津には別の縁談がすすんでいた。助八は気を取り直して、殿村のいる屋敷に向かい、仕事を終えた。家に帰ると、いないと思って波津が自分を迎えてくれた。

そういえば小さい頃、「ほいとの子」という言い方でからかいあったことがある。何のことかは知らなかった。でも、あまりいい印象はなかった。漢字で書くと「祝い人」だったのか。これだったらいいじゃないか。それにしても武士の世界もいろいろ大変なんだなと思った。派閥争いはあるし、もめごとはあるし、恋もままならぬし、今とちがうのは腕力(武力)がものを言うこと。つまり剣の腕が大事だということ。それもひけらかしてはいけない。自分の力に過信してはいけない。
心の奥底にある切ない恋。はしばしににじみ出る恋心。この時代にはそんな切ない恋が似合っている。自分の感情を表に出してはいけないけど、ちょっとしたしぐさや行いに心を傾ける。それを感じたとき胸に染み渡る。闘い終わって家路につき、待っている波津の姿こそ、まさに切ない心の姿そのもの。


 『日和見与次郎』 2007.8.5 

藤江与次郎は郡奉行下役を勤め、外回りの仕事が多い。今の藩は、財政難でそれに対する案が二派に分かれていた。与次郎は、かつて父が同じような藩の状況のとき、その派閥争いに巻き込まれ、家禄半減などの痛い思いをしていた。そこで与次郎は決して巻き込まれまいと用心していた。従姉の織江の夫の杉浦は、中立な公正な立場であるということから、殿が意見を集めて聞きたいと秘密裏に呼び出しがあった。ある日、杉浦の家が全焼した。畑中派に一派が来ていたことから疑いがもたれた。藩の案が丹波派に決定した。畑中派の杉浦惨殺問題は、証拠不十分として消えてしまった。与次郎は、影の首謀者である淵上にへの復讐を実行する。

大事な役目を負わされたばかりに、ねらわれてしまった杉浦一家は悲惨だ。ここにしっかり警護がつくべきだ。淵上は許し難いけれども、中立の立場を持つ藩にとって大事な役を言い渡した者をみすみす殺されてしまうなんて、殿も不甲斐ない。この恨みはらさでおくべきか、という「仕事人」のような結末であった。しかし、悪事を働いた者が、末端や表面の者だけ処分され、あとは悠々としているのは何とも腹立たしい。与次郎の最後の実行は、つい拍手を送りたくなる。よくぞやってくれたと。織尾が「二人の秘密ね」と言ったとか、復讐は新たな恨みを呼ぶということはないのか不安でもある。


 『かが泣き半兵』 2007.7.26 

鏑木半兵(かぶらぎはんべい)は、普請組の外回りの仕事をしていた。土木工事の監督などだが、時には石を運ぶなど汗を流すこともあった。ある日、商人町で小さな娘が守屋采女正(もりやうねめのしょう)の一門に折檻されていた。半兵はだまっておれず止めに入った。そのことがきっかけで、仕事の用で寄った長屋にその親子がおり、親密にもてなされた。お家の事情から、半兵は、長屋の一件を理由に守屋暗殺を命じられた。半兵は心極流の使い手だった。

かが泣きとは、愚痴ること、おおげさに自分のことを訴えること。でも、これってだれにでもありそう。むしろ言わない人の方が珍しいと思うけど。私なんか、ほんとちいさなことでも言ってしまう。爪が紫になるほどのけがは大きなこと。「まあ、痛かったでしょう」くらいの慰めがあってもいいじゃないかと思う。武士たるもの、忍の一字ということかな。あの母娘を助けたばかりに、命がけで斬り合いうぃしなければならなくなった。助ける優しさはすばらしい。その母に再び出会う機会があったところから歯車が外れたのだ。心の隙が命取り。半兵が剣の達人で幸いだった。


 『だんまり弥助』 2007.7.15 

パターンは同じだった。性格のちがう主人公。でも、彼は生まれたときからだんまりだったわけではない。いとこの美根のことがあって以来寡黙になったのだ。それにしても、剣の達人というのは、見せびらかすわけでもなく、こうして人からさげすまれながらも、いざというときは思い切った行動に出る。もしかしたら、隠れた正義の味方かもしれない。
だまっていても、気持ちを察する友、妻・・・それはうらやましいことだ。そんな人と出会えたこと。それはもしかしたら、彼の人徳かもしれない。わからない奴は彼を笑う。しかし、人を見る目を持つ者は、彼の力となる。
彼はいざというときはけっこうしゃべることができる。うまく話せないから寡黙になったのではないからだが。ラストの、大橋家老に反対の意見を言ったとき、しどろもどろではなかった。ちゃんと証拠も調べていたし、納得させる話し方だった。ここぞとばかりの時に、行動できるすばらしい力がある。それを見抜いた友、妻だったのかも。


 『たそがれ清兵衛』 2007.6.2

映画はよかったと思う。でも忘れてしまった。どんな場面に感動したのだろうか。
藤沢周平の作品はいつか読んでみたいと思っていた。でも、短編ばかりで、どうしてこれが映画にできるのだろうかと思議に思っていた。今回の「たそがれ清兵衛」だって50ページ。読んでみてたいして感動はなかった。でもこれが映画になると、最後の戦いの場面も、妻との関わりも、きっと心を動かされるのだろう。
堀を切る役を頼まれたとき、清兵衛の心には妻のことしかなかった。その清兵衛の気持ちを深く感じる描写がない。でも、淡々と物事が進んでいくなかで、清兵衛の気持ちがにじみ出てくる。そこは不思議なものだ。



 『うらなり与右衛門』 2007.6.16


大きな感動があるわけじゃないけど、「ほーっ、そうなんだ」と小さな感嘆の声をあげてしまう。どの時代も謀略はある。でも、正義もある。そして、正義がきっと感嘆の声を作る。与右衛門がわなにはまり、そしてわなにはめた伊黒伴十郎が、与右衛門にやられてしまう。大ぴらな敵討ちではなく、彼から刀をぬかした。まるで闇の仕置き人のような、いやだれにも彼にもわからぬようなまるで罰が下るような感覚。彼も敵討ちされているなど夢にも思っていないだろう。与右衛門の心の内はわからぬが、どの時代も正義が通るすがすがしさだ。


 『ごますり甚内』 2007.6.23

けっこうおもしろく読んでいる。淡々と物語が進んでいくところがいい。あまりぱっとしない主人公。でも剣の達人。ごますりもへつらうようなあさましい感じではなく、必死に何かを求めてやっているところがけっこう好感をもてる。そして、妻思いであり正義の味方。今まで読んだ二編も同じようなキャラで、同じような展開だった。剣の達人であるのに、一見そうは見えないところがいい。使いの帰りに三人の敵と戦う場面や、城内の廊下で栗田の首を短剣で刺す場面。イメージだけで迫力を感じる。映像でみせるにはどうしたらいいだろうかと、監督になったように考えてしまった。
こうして見てくると、武士の世界も大変なんだな思った。五十五石って、今のお金に換算するとどれくらいなんだろうか。何人か人も雇わなければいけないだろうしね。
ごますりは、けっこう人のために何かをしていることだし、人の心を思っていい気分にさせてくれる。言葉はよくないけど、続けてもいいんじゃないかな。私ももう少しこういうことができるようにならなければと思った。ごますりはエネルギーのいることだからね。


 『ど忘れ万六』 2007.6.30

さまざまな人間がいる。でも、「ど忘れ」は年を感じさせる悲しいさがり。ほのぼとしているようで、実は本人はつらい。思い出せないことほどストレスがたまることはない。まあ、自分の子どもの名前が言えなくなったら、悲しいどころではないが。確かに年を重ねるごとにひどくなっていく。ついさっき読んだ本の主人公の名前が出てこない。
万六もまた剣の達人であった。さまざまな人間がいるけど、こうした武士として一芸が窮地を救う。しかも、それをひけらかすわけでなく、地道に鍛え求めてきた技だからこそ、いざというときに役に立つ。万六の、一喝したあとの嫁との食事風景が物語る。やってやったのにという押しつけがないところが、またいつもの日常にもどったことが一番の幸せなんだと語っている。


木かげの家の人たち

2007年09月15日 | book 児童書 絵本
いぬいとみこ
福音館 1600円
1967年初版 1961年作品

 『木かげの家の人たち』 2007.9.8

大正2年、森山家の2階の書庫に小人たちがやってきた。横浜から帰国する英語の先生、ミス・マクラクランという人から、達也は小人たちが入っているバスケットを受け取った。毎日欠かさず、青いカップにミルクを入れて、小人たちのところに運ぶこと。それが約束だった。達也は、一日も欠かすことなくミルクを運んだ。この仕事は、達夫から透子に、透子は達也の妻となり、その子どものゆりへと受け継がれていった。そして、昭和に入り、日本が戦争への道を走り始めて、その影響が小人たちにも降り注ぎ始めた。達也は英文の研究をしているいところから、非国民としてつかまり投獄された。戦況が厳しくなり、森山家も食べ物が乏しくなっていった。しかし、時には薄い粉ミルクの時もあったが、ミルクを毎日小人たちに運ぶことは欠かさなかった。ゆりは、小人たちと長野県野尻に疎開することになった。そこでの生活は厳しく、ミルクはなかなか手に入らず、持ってきたミルクを少しずつ小人たちに運んだ。あるとき、ゆりは病気になり、疎開先の叔母はゆりが持ってきた小人用にミルクを飲ませた。そしてとうとうミルクがなくなり、小人たちはそこから出ていかなければいけなくなった。小人たちを救ったのは、アマネジャキだった。元気になったゆりは、毎日青いカップにミルクを入れて、いなくなった小人たちを待った。

 ファンタジーの世界の話かと思ったら、戦争時代の苦しい物語だった。人間が起こした戦争に小人たちも巻き込まれていった。ときに、自分たちでドングリを取ってこっるのだから、ミルクがなくても・・・と思ったが、なんだか自然界の掟のような気がして、こんなことさえ守ることができない世の中は荒れ果てているんだよと、言われているみたいだった。でも、小人たちとゆりの世界は別々。つながりはミルクだけ。触れ合いも会話もない。小人たちって、人間として守るべき心なのかもしれないな。人として自分の身の回りのことを考え、他人を大事にする心を言っているのかも。そしてそれは本当はそれほど難しいわけではない。当たり前の生活で自然にできること。それができなくなる戦争の世の中はだれもがいやなんだ。小人たちを出すことで、まるで現代で起こっている出来事のように、戦争の悲惨さを感じさせてくれる。

砂の女

2007年09月10日 | book 文庫
安部公房
新潮社文庫 476円
1981年初版 1962年作品

 『砂の女』 2007.9.2

男は休暇を利用して昆虫採集に出かけた。砂地に住むハンミョウ属の新種を求めて、砂丘のような砂地を歩いていた。ある村人に会い、帰りのバスはもうないので泊まるところを紹介するという。案内されたところは砂地の穴の中にある一軒家だった。縄ばしごで下におり、その家にやっかいになった。ところが、縄ばしごはあげられ、その家に閉じこめられてしまった。家にいた女は、村を守るために毎夜砂を掻き出す作業に明け暮れた。男は、なんとかそこから抜け出そうとさまざまな方法を考える。村人は、男が逃げ出さないように、穴の上から監視し、逃亡の妨害をする。

悪夢の世界だ。夢の中で思うように体が動かず、歯がゆい思いをしているみたいだ。男に同情する。この村や女は、古いしきたりに縛られ、世間から離れた生活をしているのだろう。ここから出れば、女もきっとすばらしい経験ができるはず。ラジオを買うことが夢だなんて、外に出ればもっと興味をひくものがたくさんある。ラジオが手に入ったら、そんな外の世界にあこがれてしまうかも。いやいや、この村は、この女は、自分の意思でここにおり、たとえ新しい世界を知っても、ここから抜け出そうとはしない。自分から戻ってくるだろう。砂の中の生活の魔力かもしれない。男も、自分が作った装置が気になって戻ってしまった。あり地獄のような砂の底は、体も心も引き寄せて離さない。もし自分だったら・・・毎日同じ風景、毎日同じ事を繰り返すことに、気が狂ってしまうだろう。女とじっくり話し込んで、自分の気持ちを理解させ、自分の側につける努力をする。絶対にこのままじゃあいやだ。しかし、今の生活を変えたいと思いながら結局返られない自分がそこにいるのかもしれない。

楽隊のうさぎ

2007年09月02日 | book 文庫
中沢けい
新潮社文庫 514円
2003年初版 2000年作品

 『楽隊のうさぎ』 2007.8.21

克久は小学校時代からいじめにあい、できるだけ学校にはいたくないと思っている内気な男の子だ。中学に入った早々、「君、吹奏楽部に入らないか」と声をかけられた。そんなに入りたいとは思わなかったけど、ひょんなきっかけで入部することになってしまった。ここの吹奏楽部は全国大会に出るほどの森勉率いる力のあるクラブだった。50人を越える部員。それぞれのパートに分かれ、朝の練習、放課後の練習、そして夜遅くまでの練習、休日も練習。でも、克久は、先輩や仲間に囲まれ、次第に夢中になっていく。

放課後、学校全体に鳴り響くトランペットの音。校舎の各階で、同じ楽器どうしが集まって練習している光景を何度も見てきた。何が楽しいのだろうと、ふと思うこともあった。でも、それは音をただの雑音にしか思ってなかった自分がそう思っただけ。音の違いがわかる耳や心があれば、長い時間をかけて作り出している音がわかる。音痴な私にはわからないが、この本を読んでいると、まるで自分が音がわかっているような錯覚におちいる。不思議な感覚。青春を謳歌しているようなすがすがしさでいっぱいになる。
克久は本当にいじめられていたのかと疑いたくなる。もしかしたら、自分の力を発揮する場が見つかるかどうかで、同じ人間が180度ちがうのかもしれない。私もそんな場に出会うことができたら、自分が生き生きとしていることに気づくだろうな。
ところで「うさぎ」って何なのだろう。裃を着ておじぎをする「うさぎ」・・
きっと自分をどん底に陥れないピエロのような存在かな。自分の心の中だけだったら、自分を責め過ぎたり、人を恨みすぎたり、自分一人だけで閉じこもったりしてしまう。そうならないための、とぼけたピエロ。少し自分をちゃかすことで、自分を笑って見ることができる。もうひとりの自分かもしれないな。きょとんと止まってこちらを見つめるうさぎは、猛獣でもないし、すばやく逃げてしまう見えないものでもないし、愛嬌があってとぼけている。それが返って自分を前向きにさせてくれているようだ。私の心にもうさぎにいてもらおうかな。